2018年4月6日金曜日

簡化太極拳は難しい

以前、2年程ついて習っていた中国のJ老師が仰るには、
簡化太極拳(24式太極拳)は難しいと仰った。
過去2年ほど簡化太極拳を習っていた私もその通りだと思った。

どこが難しいか?

そもそも套路の組み方が極端過ぎること。

踵脚のすぐ後に下勢が2回も続く。
伝統で育った私から見ると、膝を痛めないだろうか?と心配になってしまう。
この組み方はどう考えても高齢者にはきつい。

それに太極拳は攬雀尾(らんじゃくび)が基本なのに、最初に出てくるのはなぜか野馬分宗(のばぶんそう)。

攬雀尾には太極拳の基本技である8つの勁がすべて含まれ、しかも応用技が豊富。
しかし野馬分宗の技はその逆で、野馬分宗で使う勁そのものが攬雀尾に入っている。
なぜ野馬分宗から始まるのか不可解でならない。
まあ、動きが一番シンプルだからだと思うが。

それに簡化太極拳は細かな要求が多い。
わずか24式で組まれた太極拳なのにそのテキストは大きくずっしり分厚い。
それを正確に出来るようになって何が得られるのだろうか?

武術として少しでも護身に役立つのならいいが、
そもそも簡化太極拳は護身のためにつくられた太極拳ではなく、中国政府がつくった健康体操。

あくまでも私の推測だが、簡化太極拳の初期の頃はもっともっとシンプルだったはず。
動作の説明も簡単で、専門用語も少なく、それこそ誰もがすぐに始められそうな内容だったはず。

それがなぜ今これほどまでに複雑になったか?

人間心理学から見るなら「物足りなかったから」と推測する。

自慢ではないが私は24式太極拳を5日で覚えた。
順番も覚え、一人でできるし、それを先生に見てもらったがダメ出しひとつもらわなかった。
もしかしたら酷過ぎたからかもしれないが・・(苦笑)

いずれも伝統楊式太極拳を練ってきた私にとってはあまりにも簡単過ぎて物足りなかった。
やり終わっても充実感も得られず、体がすっきりするといった効果もなかった。

しかし簡化太極拳を教えている教室はそれを何年も何十年もやるわけだから、
教えることがなくなる。
そこで始まるのが粗さがし。
今までなかった用語や、指導項目がどんどん増え、今やテキストの文字数は爆発寸前。

たまに簡化太極拳を指導されている風景を見ることがあるが、
わずか一言で済むことを、4つも5つも数多くの言葉を並べて指導されている。
そして教えられる側はパニックになる。
現に私がそうだった。

日米を跨いでビジネスしてきた私の経験で言わせてもらうなら、
日本人は簡単なことを複雑にするのが得意な人種。
またその複雑なことをこなせるのも日本人。
日本人は頭がいい。

逆にアメリカ人の頭の構造は日本人のそれとは違う。
常にいかにシンプルに出来るかを考える。
計算をするにしても引き算は使わず足し算だけで計算しようとする。

アメリカ人の頭はシンプルだから行動が早い。
日本人は複雑に考えるから行動が遅い。
アメリカ人は物事をシンプルにとらえるから物を覚えるスピードが異様に早い。
日本人は時間がかかる。
シンプルなことを難しく考えてしまうからだ。

それに、日本語は文字や言葉が膨大にある。
ひらがな50音、カタカナ、無数にある漢字・・
しかし英語はアルファベット26文字だけ。

英語版のパソコンは26文字のアルファベットだけで処理するからワンランク下のスペックのマシンでも驚くほどサクサク軽快に動く。
しかし日本語をぶち込んだマシンはハイスペックマシンでも重く、時間の経過と共に頻繁にフリーズし動かなくなる。

マシンに置き換えても解る通り、
日本人は簡単なものを難しくする天才なんだ。
それが日本の技術力に繋がっているのだろう。

しかし簡単な簡化太極拳まで難しくしてはいけないと思う。
習う側としても常に新しい要求をされ、いつまでたっても気持ちの良い太極拳になっていかない。

伝統太極拳にテキストはない。
ただただ師の動きを見て盗めというスタイル。
人間の動きやその場の雰囲気や温度、空気、言葉に出来ないことは山ほどある。

ライブに行けばぶっとぶほど興奮するのに、
同じ曲をCDで聞いてもライブほどは興奮しない。

太極拳は文字で学ぶものではないと思う。
大切なのは感覚。

難しくするのは自由だが、ここで考えてみて欲しい。
本来の太極拳の目的意識から遠ざかってないかと。

気持ちいいと感じなければ心はゆるまない。
心がゆるまなければ体もゆるまない。
体が硬くなれば、気血のめぐりが悪くなり病気を引き起こす。

簡化太極拳が難化太極拳になってきている。
正しさを求めるあまり人間の心を置き去りにしていないだろうか?

太極拳は精巧なマシンをつくるのとは違う。
気持ちいいと感じる太極拳にするためには本来のシンプルな姿に戻すことが大事だと思う。