2018年4月16日月曜日

套路にすべてが詰まっている

套路を漫然と通してる人をみかける。
順番を覚えたら嬉しいし、通すことが楽しいと感じる。

しかし、熟練者の套路を練る姿を見ていると、明らかに何かが違う。
一目でわかるのは目。

その目には目的意識と、内面を見て感じようとする意識を感じる。

套路を通すことが出来るようになったら、そこが大事だと思う。
少なくとも私はそうしている。

今、套路を通している時、「なんのため?」と聞かれてすぐに答えられるだろうか?
おそらく大半の人が「上手くなりたいから」と答えるだろう。
「ではなぜ上手くなりたいのか?」
ここで答えが二つに分かれると思う。

ひとつは人に評価されたいから。
もうひとつは自分の可能性を知りたいから、
と。

私はどちらかと言えば、
どちらも(笑)

しかし、普段鍛錬するのは自分の可能性を知りたいからであり、人に評価されたいからではない。
別に格好つけて言ってるわけではなく、
実際に他人に自分の練習を見られたくない。
だから最近人目のつくようなところで練習しなくなった。

さっきどちらもと答えたが、
自分の可能性に挑戦し、その過程で人から評価されるのは素直に嬉しい。
しかしそれは目的ではなく自分にとって副産物的なもの。

話を戻す。

套路にはすべてが詰まっている。

套路は準備運動であり、
気功体操であり、
立禅であり、
站椿功であり、
気を練る練功であり、
技を練る鍛錬でもある。

私が普段行っている体をほぐすための抜筋骨にしろ、そのまま足も動かせば套路になる。
立禅も同じ。
套路を途中で止めればどこでも立禅になり站椿功になる。
意識することで動きながら気を流すことも出来るし、技のイメージトレーニングにもなる。

もちろん初心者は準備運動からしっかりやったほうがよい。
体が出来てくるまでは十分曲げ伸ばしやほぐしを行う。
冷えた体のままやると筋を痛めたり、関節を痛めたりしてしまう。

しかし10年、15年経ってくるとさすがに体ができてくる。
それに立ち上がりが早くなる。

パソコンに置き換えると、安いパソコンは起動に時間が掛かるがハイスペックモデルならあっという間に起動が完了する。
そんなふうになる。

それに脱力して套路を練れるようになれば套路中に体をほぐしていくこともできる。
もちろん体に過度な負荷をかけないことが鉄則。

ここで大事なことは、
ただ漫然と套路を通すのは順番を忘れないための作業だと思った方がいいということ。
死んだ目のまま套路を通しても套路で得られる恩恵の数パーセントも得られないだろう。

なんのために套路を練るのか?
まず考えよう。

姿勢が崩れないようにするため?
正しい動作ができるようになるため?
力みのない動きができるようになるため?
氣を練るため?
技を練るため?

それによって套路の内容が変わってくる。
それは本人にしかわからない。

目的と対策。
結果を決めてから原因作りをする。

特に最近伸び悩んでいる方は、ここが大事だと言いたい。

2018年4月10日火曜日

筋力禁止

型を練る時、
推手を行う時、
散手を行う時、
自分の中で筋力を使うことを禁止にしている。

力まないよう、
脱力しよう、
ゆるめよう、
そんな甘っちょろいものではダメ。

例えば、煙草を本数を減らす節煙とか、
ダイエット中、なるべく食べる量を減らそうとか、
明らかに症状が出てるのに禁酒でなく減酒とか、
そんな生ぬるいものではなく

筋力絶対禁止!
「禁筋」なのである。

なぜなら筋力に頼っている間は決して太極拳ならではの技法である
聴勁も化勁も発勁も鍛えることができないからである。

「鍛える」と言えば、体の負荷をかけて筋肉を鍛えるイメージが強いかもしれないけど、
私の場合の「鍛える」は脱力と意の力(イメージ力)

イメージする力が、
良い企画を生み出し、
名曲を生み出し、
名作映画となったり、
名画となったり、
美味しい料理となったり、

更には、
天を突くような高層ビルを建てたり、
人工島をつくったり、
音の数倍の速度で飛ぶジェット機、
巨大な空母、
宇宙ロケットまで作り出してしまう。

とにかく
太極拳で無限の力を得ようと思ったら何が何でも絶対
筋力禁止なのである。

だから、私は筋トレを一切しない。
というより、站椿功と套路が太極拳のためのいわば筋トレ。
筋トレと言っても、太極拳で得られる筋力は目には見えてこない。
ムキムキにもならないし、筋張ったりもしない。

私はこれを便宜上、インナーマッスル(内禁、赤筋、遅筋とも呼ぶ)と言ってるが、
実際は物質的なものを超えた、目に見えない筋肉だと考える。

毎日、腹筋と腕畳伏せをし、
何百回と突きの練習をし、
サンドバッグを突きまくるといったトレーニングを一切せず、
ただ、腕をぶらぶらさせて歩いているだけなのに、
拳をひょいと前に突き出しただけで相手の体を貫通するようなパンチが打てるのは一体どういうことだろう?

その突きを行う時にはっきりしてることは「打とう」としていないこと。

これ以上話すと長くなるので今回はこの辺にするが、
とにかく筋力を使うことを禁止にすると、無限のエネルギーを導き出せるように感じるようになる。

今はまだ感じるというだけなので、
これから更に筋力を使わない鍛錬を積んでいこうと思う。

2018年4月6日金曜日

簡化太極拳は難しい

以前、2年程ついて習っていた中国のJ老師が仰るには、
簡化太極拳(24式太極拳)は難しいと仰った。
過去2年ほど簡化太極拳を習っていた私もその通りだと思った。

どこが難しいか?

そもそも套路の組み方が極端過ぎること。

踵脚のすぐ後に下勢が2回も続く。
伝統で育った私から見ると、膝を痛めないだろうか?と心配になってしまう。
この組み方はどう考えても高齢者にはきつい。

それに太極拳は攬雀尾(らんじゃくび)が基本なのに、最初に出てくるのはなぜか野馬分宗(のばぶんそう)。

攬雀尾には太極拳の基本技である8つの勁がすべて含まれ、しかも応用技が豊富。
しかし野馬分宗の技はその逆で、野馬分宗で使う勁そのものが攬雀尾に入っている。
なぜ野馬分宗から始まるのか不可解でならない。
まあ、動きが一番シンプルだからだと思うが。

それに簡化太極拳は細かな要求が多い。
わずか24式で組まれた太極拳なのにそのテキストは大きくずっしり分厚い。
それを正確に出来るようになって何が得られるのだろうか?

武術として少しでも護身に役立つのならいいが、
そもそも簡化太極拳は護身のためにつくられた太極拳ではなく、中国政府がつくった健康体操。

あくまでも私の推測だが、簡化太極拳の初期の頃はもっともっとシンプルだったはず。
動作の説明も簡単で、専門用語も少なく、それこそ誰もがすぐに始められそうな内容だったはず。

それがなぜ今これほどまでに複雑になったか?

人間心理学から見るなら「物足りなかったから」と推測する。

自慢ではないが私は24式太極拳を5日で覚えた。
順番も覚え、一人でできるし、それを先生に見てもらったがダメ出しひとつもらわなかった。
もしかしたら酷過ぎたからかもしれないが・・(苦笑)

いずれも伝統楊式太極拳を練ってきた私にとってはあまりにも簡単過ぎて物足りなかった。
やり終わっても充実感も得られず、体がすっきりするといった効果もなかった。

しかし簡化太極拳を教えている教室はそれを何年も何十年もやるわけだから、
教えることがなくなる。
そこで始まるのが粗さがし。
今までなかった用語や、指導項目がどんどん増え、今やテキストの文字数は爆発寸前。

たまに簡化太極拳を指導されている風景を見ることがあるが、
わずか一言で済むことを、4つも5つも数多くの言葉を並べて指導されている。
そして教えられる側はパニックになる。
現に私がそうだった。

日米を跨いでビジネスしてきた私の経験で言わせてもらうなら、
日本人は簡単なことを複雑にするのが得意な人種。
またその複雑なことをこなせるのも日本人。
日本人は頭がいい。

逆にアメリカ人の頭の構造は日本人のそれとは違う。
常にいかにシンプルに出来るかを考える。
計算をするにしても引き算は使わず足し算だけで計算しようとする。

アメリカ人の頭はシンプルだから行動が早い。
日本人は複雑に考えるから行動が遅い。
アメリカ人は物事をシンプルにとらえるから物を覚えるスピードが異様に早い。
日本人は時間がかかる。
シンプルなことを難しく考えてしまうからだ。

それに、日本語は文字や言葉が膨大にある。
ひらがな50音、カタカナ、無数にある漢字・・
しかし英語はアルファベット26文字だけ。

英語版のパソコンは26文字のアルファベットだけで処理するからワンランク下のスペックのマシンでも驚くほどサクサク軽快に動く。
しかし日本語をぶち込んだマシンはハイスペックマシンでも重く、時間の経過と共に頻繁にフリーズし動かなくなる。

マシンに置き換えても解る通り、
日本人は簡単なものを難しくする天才なんだ。
それが日本の技術力に繋がっているのだろう。

しかし簡単な簡化太極拳まで難しくしてはいけないと思う。
習う側としても常に新しい要求をされ、いつまでたっても気持ちの良い太極拳になっていかない。

伝統太極拳にテキストはない。
ただただ師の動きを見て盗めというスタイル。
人間の動きやその場の雰囲気や温度、空気、言葉に出来ないことは山ほどある。

ライブに行けばぶっとぶほど興奮するのに、
同じ曲をCDで聞いてもライブほどは興奮しない。

太極拳は文字で学ぶものではないと思う。
大切なのは感覚。

難しくするのは自由だが、ここで考えてみて欲しい。
本来の太極拳の目的意識から遠ざかってないかと。

気持ちいいと感じなければ心はゆるまない。
心がゆるまなければ体もゆるまない。
体が硬くなれば、気血のめぐりが悪くなり病気を引き起こす。

簡化太極拳が難化太極拳になってきている。
正しさを求めるあまり人間の心を置き去りにしていないだろうか?

太極拳は精巧なマシンをつくるのとは違う。
気持ちいいと感じる太極拳にするためには本来のシンプルな姿に戻すことが大事だと思う。

2018年4月2日月曜日

可視光線と不可視光線

可視光線とは目に見える光。
不可視光線とは目に見えない光。
すなわち赤外線や紫外線。

光は電磁波でもあるわけだが、
電磁波は目に見えない。

人間で言うと、肉体が可視部分。
その周りを取り囲むのが氣(エーテル体)が不可視部分。
目に見えない。

裸の王様ではないが、あると思えば氣が集まり、
ないと思えば氣は集まらない。
裸の王様は実は裸ではなかったということ。

又、氣の体の部分が1メートル以上ある人もいれば
まったく氣がない人もいると言う。
病気の人であったり、精神的に病んでいる人もそれに入る。
当然、氣の存在を否定すれば氣は集まらない。

つまり人間は光と同じで、可視部分(肉体)と不可視部分(氣の体)から成ると言うこと。
また、氣は電磁波とも考えられている。

今は、特殊な装置を使って氣を測定することができる。
そして、オーラの部分と氣の体の部分も一致しているということも解っている。

私の師はその氣の部分で化勁を使われる。
手を触れていないのに操られてしまう。
氣でいなし、氣で打つ。

こんな魔法のような技が使えたらどんなにいいだろうと、
魔法世代の私らにとってはとてもおいしい話。

今は暇さえあれば氣の力を増大させる鍛錬を行っているが
どこまでパワーを引き出せるか楽しみだ。

2018年3月27日火曜日

1/4歩崩拳

形意拳は五行説からなる五行拳と、
12の動物の形を真似た十二形拳があるが、
一番好きなのは崩拳。

崩拳には防御がなく、ただ拳で打つのみというシンプルさに魅力を感じる。
防御がないということは打たれる前に打たなければならない。
一瞬でも判断が遅れると命取りになる。

最初はそのことに不安に感じたが、
今ではそのことが男心をくすぐられる。

私が崩拳を指導する時、
三つのことを特に重視するよう伝える。

一つは拳の形。
二つ目に脱力。
そして三つ目にタイミング。

崩拳は力一杯打とうとすればするほど、パワーが衰える。
それも当然。
熟練した空手家やボクサーのように徹底的に鍛えぬいた腕から突きだされる拳と異なり、
こちらは突きの練習なんか一切していない。
力を使って打とうとしたら、へなちょこパンチになるのは目に見えてる。

だから力を使わない。
その逆。
脱力する。
打たずに、スっと拳を前に進めるだけ。

子供の頃、殴る時はコインを握って打つとパワーが増すと友達から教わったが、
恐らく何かを握ることによって握る力が強くなるのだろう。

ところがこれまた形意拳では逆。
しっかり握らない。

拳の形を指導する時は、少しでも違ったらすぐさま直す。
崩拳の拳は絶対重要。
恐らく、何も考えないで握った拳より数倍から十倍以上は威力が増すと思う。

タイミングも大事。
拳に自分の体重とパワーのすべてを注ぎ込む。
体重が60㎏なら質量60㎏の拳になり、
エネルギーを注ぎ込めば、そのパワーは体の表面を貫き背中を貫通する。

なんだか恐ろしい話だが、
崩拳の達人である郭雲深は、敵の正面を打てば背中の骨が折れ、更には壁をぶち抜いたこともあるとか。
他にも崩拳の達人である尚雲祥に関しては寝ているところ窓から侵入した敵に腹を踏まれ、その弾みで跳ね返され窓の外に放り出されたという。
達人ともなれば寝ていても強いんだと(笑)

それはともかく、
昨夜も弟子相手にミット打ちを行ったが、
私が打つ、崩拳や鑚拳は半歩も進まない。
半歩の更に半歩。
10㎝ぐらいだろうか?
つまり1/4歩で、ミット越しと言えど、背中まで貫通する崩拳となるらしい。
弟子曰くその日はずっと背中が痛かったらしい。

いずれもどんなにパワーが上がってきても、
結局相手が打つ前にそれを察知し、素早く打ち込まねばならない。
これに関しては太極拳で聴勁を鍛えたほうが良さそうだ。

これからも様々な実験を繰り返しながら鍛錬を積んで行きたいと思う。

2018年3月23日金曜日

カタチからの脱却

先日弟子に尋ねた。
「最近、私の演武、下手になってないか?」と。
その答えは、全くそんなことはないとのことだった。

なぜこんな質問をしたか?
理由は二つ。

一つは、最近、全くカタチを気にしなくなったから。
もう一つは、指導する上である程度の演武力は必要だと思ってるから。

私は14年目にしてようやくカタチの世界から抜け出すことが出来た。
最初はなんでもカッコから入り、先生の真似から始める。

「先生のように柔らかくカッコよく演武できるようになりたい」
そう思って、先生の後姿を追いかけてきた。

演武力を身につけるため、積極的に演武会や大会、試合など片っ端から出た。
演武力をつけるには人前で演武するのが一番だと思ったから。
確かにそれでそこそこの演武力はついた。
人から良い評価をもらうことも増えた。

しかし、私は太極拳の演武力を身につけるために始めたのではない。
それはあくまでも手段であり、目的ではなかった。

とはいうものの多くの人から注目を浴び、良い評価を頂き、
それによって全く気持ちが浮ついていなかったかと言うと嘘になる。

その浮つきかけていた自分を真正面からぶった斬ってくれたのが我が恩師。
久しぶりに拝見した師が套路を練る姿は、大会等で見るソレとは全くことなる異次元の世界だった。

己を意のままに操り、
空間を操り、
その力を使って見えない敵と闘っているように見えた。
もう、本当に例えようのないほどの衝撃だった。

それは感動ではなくショックだった。
その日の帰りの新幹線で私はとめどもなく落ち込んだ。

目的を見失うことはなかっただろうが、
師は遠回りしそうな自分を本来の目的へと引き戻してくださった。

確かにのんびりはしてられない。
40から始めた太極拳。
人前で行う太極拳にばかり力を入れていたら、内功に専念する時間はどんどん減って行く。

そして今、ようやく腰を据えて内功重視の鍛錬ができるようになった。
站椿功を行っている時、
套路を練っている時、
見ているのは鏡ではなく内面。

どこから入れて、
どこから出すか。
入力と出力。
浄化と増幅。

推手をしている時も、相手ではなく相手の内面を見るようになって、自分の推手が変わった。
かつての自分はテクニックで相手を崩そうとしていた。
しかし今は違う。

「どう崩すか?」ではなく、
「崩した」という未来に戻るという感じだろうか。
現在から未来ではなく、
未来に戻るための現在。

とはいうものの、熟練者相手にはそんなことを思う余裕はない。
ただただ学ばせて頂きたいと思うだけ。
私の今の力は単に過去の自分よりも少し腕が上がったというだけで、
今の自分とは比べ物にならないほど大きな力を持っている先輩や師は大勢おられる。

話は戻って、
いずれも鏡を見なくなったことで、
見た目を捨てた自分は今無様な演武になっているのではないかという、
ちょっとした不安が過ったということ。

そんなわけで昨日の稽古風景を動画に撮ったので先程それを観たが
私の演武はなにもかわってなかった。
いわゆる演武力が落ちたということではなくという意味で。

実際はかなり変わった。
それを自分で言うのもおこがましいので割愛するが、
ようやく「内外相合」と「動中求静」の意味が少し解ってきたかな?ということ。

このどちらも文字としては理解できるが、
本当にこの意味が理解できるのには長い長い時間がかかるのだろう。

解ったとは言い切れないが、
解りかけたような気がするまでに15年かかった。

これからまたどんな発見が出来るのか楽しみだ。

2018年3月20日火曜日

双辺太極拳の未来

双辺太極拳は99式からならなる太極拳。

歩型は最初から最後まで形意拳や八卦掌の歩型である中定歩(前4後6の比率)なので
架式は高く、その分どうしても地味に見えてしまう。

しかし、この太極拳には形意拳の凄まじい破壊力と、八卦掌の禽拿法や俊敏性、それに太極拳の化勁をうまく融合させ、とことん戦闘能力を追求したまさに闘うために生まれた太極拳。

見た目そう見えないのが面白い。

双辺太極拳は台湾ではかなり盛んで、短くまとめた競技用套路もあり、それで競技も行われいている。
競技用套路は確かに美しい。
荒々しい双辺太極拳を美化するとここまで美しくなるのかというほど。

しかしその動きを見ると戦うための要素がほとんど消されてしまっている。
それはまるで戦車から砲台や機銃を全て取り外し、高級車のごとく美しい光沢塗装に塗り替えたようなイメージだろうか。
美しいが実に弱弱しい。

双辺太極拳は踊るためにつくられた太極拳ではない。
大切な家族を武装した敵から守るためにつくられた内家拳を総動員した太極拳。

太極拳から套路だけを抜粋しそれを美化し舞踊にするのは、それはそれでアリなんだろうが、
少しばかりでも技を知っている私から見るとなんともったいないことをしているのかと思ってしまう。

それにその技を使えるようにするため、たっぷり站椿功を行い、じっくり套路を練り、推手、散手で実践的に使えるように鍛錬して行く。
技に磨きをかけるための鍛錬こそが武術で最も大事な部分であり、だからこそ優れた技は舞踊を遥かに凌ぐほど美しい。(と私は感じている)

しかし美しく見せようとする練習法の実際はストレッチと筋トレ主体。
これは内家拳の鍛錬法ではなく、踊りのためのいわば準備運動。

今後太極拳は武術として発展していくのだろうか?
それとも舞踊として広まり親しまれていくのだろうか?

創始者の気持ちを考えると、複雑な気持ちになるし、
少なくとも私は武術として伝えていきたいと思っている。

なぜなら強くなることは美しくなることだから。

2018年3月19日月曜日

太極拳と太極舞

これらが比較されることがあるらしいが
ここでハッキリと述べておく。
これらは全く別物。

太極舞は中国拳法を真似てつくった、いわゆるフィットネスダンス。

身法や歩法、氣の巡らせ方など
太極拳に要求される厳しい技術的な要素は全くなく、
太極拳の名を借りた、いわゆる誰もが気軽にできる体操である。

その動きに武術として緻密に計算された動作はなく、
武術的健康効果も知られていない。

又、太極舞はまだ数年しか歴史がなく、
太極拳は中国が元の時代、即ち約700年前に創始されたとされている。
何十世代にも渡って多くの名士によって磨かれ練り上げられてきた高級武術なのである。

誤解しないで欲しい。
太極舞を否定しているのではない。
フィットネスとして体を動かすことを楽しみたい人にはいいだろうし、
全身を動かすことによる健康効果も得られるだろう。

私が伝えたいことは比較してはいけないということ。

太極拳は人間を超越した仙人が作り出した氣功を取り入れた極めて精巧な中国武術。
それによって得られる恩恵は健康効果だけに留まらず、禅としての悟りを得たり、超人的な力を身につけることも可能な行なのである。

そもそも「太極」とは陰陽思想による宇宙の根源を意味する言葉。
その意味は非常に奥深く、安易に使用すべきでないと私は考える。

体は動かすことは良いこと。
だが、太極拳はスポーツでもなければ体操でもダンスでもない。
数多くの恩恵が得られる禅であり、
誰もが手に入れたいもののすべてが太極拳の中にあると私は考える。

*****

追記:
なぜ今回このような記事を書いたかと言うと、
実は私自身も太極舞が創始される以前(2006年頃)に太極拳を普及させるための一つの方法として、誰もが気軽に楽しめるよう太極拳にファッション性を取り入れたフィットネスダンスにしたら流行るのではないかと考えたからである。
その時に私が考えたネーミングが「タイチーダンス」
いわゆる太極舞。
良いアイデアだと思ったが、今では太極拳だけに専念してきて良かったと思っている。

2018年3月14日水曜日

刀と包丁

刀と剣の指導で苦戦している。

手本を見せても、
ゆっくり見せても、
わかりやすく説明しても
なかなか伝わらない。

無論その場ですぐに出来ることではない。
しかし、毎日欠かさず練習すればできるようになる。
少なくとも私は毎日欠かさず武器の基本功を行ってきた。

棍も同じ。
必ず基本功をたっぷり行ってから套路の練習をしてきた。

はじめて刀を持つと、刀に振り回される。
ただただ刀を振り回すだけになる。
それは刀を持つことに意識が行ってしまっているから。

私も最初は腕力で刀や剣を振っていた。
そうでなくなるようになるには、やはり毎日の練習だった。

刀は包丁と同じ。
切るもの。

包丁で食材を切る時、どこに意識が行ってるだろう?
恐らく切る部分だと思う。
よそ見なんかしながら切ったら指を切る羽目になる。

しかし、刀になると、平気でよそ見しながら振り回してしまう。

刀や剣は刃物であるということをまず念頭に入れる。
そして空気を斬っていく。

或いは箸ならどうか?

箸の持つ部分を意識してご飯を食べる人はいないだろう。
箸でものをつまむ時は必ず箸の先端を見ているはず。
それに箸を持っているという感覚すらないのでは?
箸が体の一部になっているはず。

なぜか?

毎日箸を使うからだ。

刀や剣も同じ。
毎日箸でごはんを食べるように、
毎日刀や剣を持って空気を斬ったり突いたりして練習する。

刀や剣がごはんと同じぐらい好きになれば嫌でも上達するということ。

クオークと陰陽

太極拳を量子力学で考えると様々な発見がある。

特に最近気がついたのは万物の最小単位であるクオークそのものが太極拳で言われる陰陽そのものであるということ。

人間はなにでできているだろう?
ほとんどの人がタンパク質と答えるのではないだろうか?

しかしそれより多いのが水。
人間の体の約30%がタンパク質で約60%が水でできている。
つまりタンパク質に水を入れてこねれば人間ができるということ。

私はこのことをいつも栄養学で語ってきた。
だから、食べ物を選ぶ時は、お水とタンパク質に拘りなさいと。
汚水と質の悪いタンパク質ばかり食べていると、質の悪い人間ができることは容易にわかる。
なぜなら人間は代謝によっておよそ200日で生まれ変わっているのだから。

今なんらかの病気や症状を抱えている人は水とタンパク質を変えればすべて治るということ。

さて、量子論で考える太極拳。
その人間のほとんどが水でできている。
その水は水素と酸素でできている。
更にその酸素は原子核と電子から成り立っている。
太陽の周りを回る地球のように、原子核の周りを電子が回っている。
その原子核と電子の距離は、おおよそにして原子核が1㎜としたら電子までの距離は50mと言われる。
つまりスカスカだということ。

更にその原子核。
これは陽子と中性子からなる。
これが最小単位かと思えばそうではない。
まだある。
その陽子も中性子もいくつかのクオークからなりたっている。
つまり今解明されている最小単位はクオークだということ。

このクオークにもアップクオークとダウンクオークがある。

ここで思い出してみよう。
万物は全て陰陽からなるという東洋思想。
それがそのままこのクオークに当てはまってしまうのだ。

タンパク質と水からなる人間だけでなく、木も火も土も金もすべての最小単位はアップクオークとダウンクオーク。
つまり陰陽で成り立っているということ。

なんとすごいことだろう。
古くから伝わる東洋思想である陰陽説は最新科学である量子論によって解かれたということ。

今目に見えている物質は形あるものだと誰もが思っているだろう。
しかし、それは宇宙の始まりといわれるビッグバン以前(インフレーションの前)の小さな小さな目に見えない程の陰と楊のクオークから始まった。
そして地球にあるものすべても宇宙もすべてクオークで成り立っている。

実は物質を象っているのはクオークでありエネルギーであるということ。
言いかえると仮想現実となにも変わらない世界であるということ。

太極拳で極限まで体をゆるめるとなにが起こるか?

体がまるで煙のように空間の中に溶けていく感覚を得る。
そして氣のパワーが集まると光になる感覚。
恐怖のない幸福感だけの感覚。

これらすべて量子論と陰陽説で辻褄が合ってくる。

「できる」とか「できない」とか言うのは自分の思い込みでしかない。
なぜなら人間皆だれもが宇宙と同じクオークで成り立っている。

なのになぜ実力の差がでるのか?

それはエネルギーレベル。
私の経験では、回ってる感覚。
体の中で何かがぐるぐる回っている。
その正体が今でこそ電子であるということが解る。

つまり、その回る力でその差が出るのではないかと考える。

太極拳の功夫(実力)を上げることは、自分の存在も宇宙も全て知るということにつながる。
気功や太極拳、ヨガが今もてはやされるのは、今まさにこういう時期に来ているからなんだ。

どうだろう?
今執筆している自分もこのことに気付いた今、興奮と感動とともに人間の可能性が無限大であると感じざるを得ない。


2018年3月13日火曜日

内家三拳

私が頻繁に使っている施設では利用する前に利用者名簿に名前と種目を書くのだが、
その種目でいつも困る。

その日によって練習内容が変わるからだ。
太極拳だけの時は太極拳とだけ書けばいいが、形意拳や八卦掌をやることもある。
だからまとめて内家拳と書いている。

私が形意拳をやり始めてから数年経った頃、八卦掌はやらなくてもいいかなと思っていた。
太極拳と形意拳だけでも一杯一杯なのに、八卦掌まで入る余地がないと思っていたし、
くるくると舞って踊っているかのようにみえる八卦掌にあまり魅力を感じなかった。(感じた時期もあるが)

そんな私が八卦掌をやり始めたのはやはり師の影響が強い。
師がされることは全てカッコいい。
だからやりたくなる。
実に単純な理由(笑)

そして今、この内家三拳をやっていて良かったと思える場面がある。
それは自由推手や組手などの時。

太極拳は相手の力を無効化するのに有効。
相手にとっては、打てでも打てども空を打つことになり、それを返されてしまう。
しかし、ノーモーションで発勁されると聴勁や化勁が間に合わない。
(単に私のレベルがまだまだ未熟なだけだが)

その時に八卦掌の歩法が役立つ。
八卦掌は相手をかく乱させ、隙をなくすことに役立つ。
相手に打つ機会を失わせ、歩きながら突いたり倒したり・・
しかし、大きな破壊力に欠けるように思う。
(これもまた私が未熟だからだが)

形意拳は圧倒的な破壊力がある。
相手が打って来ると同時に飛び込むようにして打ち込む。
カウンターになるわけだが、そこに跟歩が入るから、相手が受ける衝撃は相当なものだと思う。
しかし形意拳もまた護身武術。
静止した状態で相手の出方を待つ。
いわゆる聴勁が遅れると自分がやられてしまう。

結局、内家三拳をやっておくことはとても便利だということに気付いた。

双辺太極拳はこの内家三拳すべての技をまとめてあるが、改めてこの太極拳が実に実戦的であるかがわかる。

とまあ、こんなことを考えていても一生使う場面はないのだが、
戦術を練ることは練習のひとつだと私は思っている。
それをモチベーションに稽古に励むことが出来るし、身の詰まった練習をすることができる。

それにより体も心も鍛えられ、病気しない丈夫な体をつくることができる。

またもや前回と同じ締めになってしまうが、
内家拳は健康法として最高だと思う。

2018年3月12日月曜日

定式ではない

最近私は演武をしなくなった。
音楽に合わせて太極拳を演武するのが楽しかった時代が終わったという感じだろうか。

今の自分の套路には規則的なリズムがない。
だから曲に合わない。

今のリズムは「採-引-渡-戻-増-圧-発」という流れで套路を練っている。
原理的にはターボジェットエンジンと似ているように思う。

そもそも太極拳は護身武術。
相手が打ってこなければ技を使うことはないし、
そもそも技が使えない。
だから推手で相手が打ってくることに対して慣れる必要がある。
恐れていてはいつまでたっても太極拳の技を身につけることはできない。

太極拳は相手の力を効率よく取り込みそしてそれを相手に返す。
その時に増幅することをする。
その増幅の方法こそ「地球の力を使う」ということになる。

相手からみれば、戦っているのは人間ではなく、
人間に見える地球ということになる。

なんだかややこしい話になってしまったが・・

今回話したかったことは、太極拳は定式ではないということ。
定式の部分だけをとれば、それは太極拳でなくとも、どんな武術や格闘技でも同じ。
いわゆる発する部分だから。
力いっぱい打てばいい。

そうではなく、その発するための方法が他の武術と違う。
その力をどうやって生み出すか?

私がこれまで師から学びながら研究しみつけた現段階の答えが、
相手の力をもらって、天地の力で増幅し、それを相手に返す。
その際に筋力は必要としない。

普段、私は自分の持ってる力を出すことは絶対しないが、
その力を生み出すための行いそのものが健康レベルを異常な程まで上げることができる。

全速で走っている学生達と並んで走ることが出来、
駅の階段も一段跳びでポンポン駆け上がり、駆け降りる。

普段ウォーキングやランニングもしないし、そもそも根っからの運動音痴。
学生時代、かけっこはのろまでいつもびりっけつだった。
そんな私が50代半ばにきて、確実にパワーが上がってきている。
風邪をひいて寝込むこともない。

太極拳の套路練習で大事なことは定式ではないんだ。
定式で発するために体の中で何を起こすかが大事。
私の場合、定式に行くまでの体の中は大忙しの状態になっている。

宇宙戦艦ヤマトが波動砲を打つ前、
機関室が大忙しとなるがアレと似ている。

その動きは明らかに演武ではなく、
発射するための準備をしているという感じ。

繰り返すようだが、これによって健康レベルが格段上がる。
そもそもパワーがなければ発射することはできない。
発勁の威力を高めようとする行いは体にイイということになる。

私が今、太極拳を通して一番伝えたいことである。

2018年3月9日金曜日

太極拳依存症

太極拳をやっているからと言って、他のことが疎かになっていないだろうか?

私は前職で美容健康関係の食品等を扱っていた。
ダイエットも私の専門分野だった。

そして、私の指示通りに実践して驚くほどスリムになった人もいれば
私の指示を完全無視して全く効果が得られなかったり逆効果になった人もいる。
そして、そういう人に限って私に文句をつけてくる。

それにしても、何故成功する人と失敗する人がいるのだろう?
理由は簡単。

例えばダイエットサプリ。
そのサプリがどんなに良いものでも、それに依存してしまったらおしまい。
いわゆるサプリ飲んでるから大丈夫と安心しきって、暴飲暴食をしてしまう。
そして逆太り。
これでは本末転倒。

太極拳もしかり。

太極拳やってるから多少お酒を飲み過ぎてもいいだろう。
太極拳やってるから多少の喫煙はいいだろう。
太極拳やってるから普段歩かなくてもいいだろう。
太極拳やってるから食べ過ぎてもいいだろう。
太極拳やってるから夜更かししてもいいだろう。

これ太極拳依存症なり。

よく考えてみて欲しい。
そもそも健康になりたくて始めた太極拳ではなかったのか?

依存してしまったら終わりということは、
誰もが今まで散々経験してきていると思う。
だから依存しそうな自分がいたら、自分に対して注意すべき。

誰かが言ってくれるだろう。
いいえ。
誰も言いません。
今は昔みたいに注意する人も減っている。
家族にしても。
誰も最初から相手が嫌がることなんか言いたくない。

こう考えて欲しい。

太極拳やってるからお酒を減らそう。
太極拳やってるから禁煙しよう。
太極拳やってるから引きこもってないで出歩こう。
太極拳やってるから食べ過ぎに注意しよう。
太極拳やってるから生活を正そう。

そう思って欲しい。
そうでなければ意味がない。

私はかつて喫煙者だった。
しかしある日からキッパリやめることができた。
そもそもやめようと思うからやめられない。

というか煙草というのはやめられないように作ってある。
中毒するようにニコチンの他に薬品をたっぷり仕込んである。
その薬品は厄介なことに発がん物質がほとんど。

おまけに最近の煙草は放射性物質まで含んでるから始末が悪い。
(知らない人はネットで調べてみるといい)
吸えば吸うほど内部被ばくする。
そして災難なことに周りにいる非喫煙者も被ばくする。
その場で吸っていなくてもだ。

吸い終わるとまた吸いたくなる。
すると誰からすすめられることなく煙草を買いに行きまた吸う。
だから煙草は儲かる。
中毒患者にすることでそれを売ってる人が大儲けできるのはアヘン戦争で十分学んでいるはず。

喫煙者は自分が騙されているということに気付いて欲しい。

ところで私は煙草をどうやってやめたか?
それは煙草を吸う代わりのことをみつけた。
それがヨガだった。

なぜヨガか?
私は子供の頃から体が硬かった。
だからヨガは私にとって苦痛。
煙草の禁断症状が出てきた時に、苦痛なヨガをやるとその痛みで吸いたい気持ちを忘れてしまうというわけ。

それに呼吸法も取り入れた。
煙草を吸うのはあのくらくらする感覚が欲しいから吸うのであって、
それは別に煙草でなくとも同じような感覚は得られる。
これもヨガの呼吸法。

空気を思いっきり吸う。
止める。
更に吸う。
止める。
更に吸う。
止める。
しばらくそのまま。

どうだろう?
くらくらしないだろうか?

煙草はずっと吸い続けるとくらくらしなくなる。
しかしこの呼吸法は何度でもくらくらを得ることができる。

習慣を変えるにはちょっとした勇気と工夫が必要。
太極拳をはじめたことで、今までの悪い習慣を変えようと努力して欲しいと思う。

なぜ見る?

定式(技が決まった瞬間)で手を見るのはなんとなくわかる。
しかし、過渡式(技に至るまでの動作)で手を見るのは何故だろう?と思ったことはないだろうか。

私は幼いころから丸暗記が苦手だった。
理由が解らなければ覚える気になれないし、
逆に理由が解れば覚えようとしなくとも覚える。

だから「手を見なさい」と言われても「なぜ?」という疑問が起きる。

しかし具体的に手を見る意味を教えてもらったこともなければ、
そのようなことが書かれた文献にも出会ったことがない。
(探せばあるのだろうが)

巷に溢れいてる太極拳本は動作のことしか書かれていない。
無敵!と書かれたタイトルに惹かれ買ってみたら、
無敵になる方法なんてどこにも書かれておらず動作の説明ばかりで面食らったこともある。

まあ、そんなことはどうでもよく
私は指導の際、何故見るかは「氣を集めるため」だと説明している。

氣というのは意識したところに集まる。
更に早く集めようと思えば見ればいい。
その部分を見れば嫌でもその部分を意識せずを得なくなる。

いわゆる見ることによって氣を集めているのではなく
見ることによって意識せざるを得なくなり、それによって氣が集まるということになる。

「意あるところに氣あり」だ。

実際に見れば氣が集まり、
私の場合はその部分がすぐにピリピリし、磁力のようなものを感じる。

氣のないところに勁(筋力ではない力)は出ない。

手眼相合(しゅがんそうごう)
は氣を集めるための手段であるということ。

2018年2月28日水曜日

脱力通氣

最近、脱力を最も心掛けている。

脱力脱力また脱力。

「力を抜いてしまうと何もできないじゃないか?」と思われる方もおられるだろうが、
そうではない。

力を抜ききった時に始めて氣の通り道が開く。
これを経絡が開くと言う。

その脱力レベルに応じて、流れる氣の量も変わる。
つまり力を抜けば抜くほど、
氣の通り道がたくさん出来るので大量に氣を流すことができるということ。

今、套路を練っている時、脱力を心がけながら
体の中を流れる氣の量を感じながら動いている。
確かに力を抜けば抜くほど、取入口から発射口まで大量に氣が流れ、
発射口が熱くなる。

脱力は力を失うことではない。
筋力以上の力を得ることなんだ。

2018年2月27日火曜日

鬆身法は太極拳

当会で稽古を始める前に必ず行う鬆身法「抜筋骨」
体をゆるめるための気功体操だ。

始めて間もない方々はおそらくこれを準備運動だと思っておられるだろう。
実は私もずっとそう思っていた。

しかし今は違う。
鬆身法はすでに太極拳なんだ。

全身を曲げたり、伸ばしたり
手を広げたり、閉じたり、回したり、振ったり・・

私は指導する時にいつも言う。
「カタチではなく気持ちいいと感じることが大事」だと。

準備運動というとなんだか義務のように感じる。
やっとかないと後で支障が起きる・・
それは一般的なスポーツをする前のことであり、太極拳は違う。

先程、鬆身法は太極拳と言ったが、逆も同じ。
太極拳は鬆身法なんだ。

太極拳の套路を練った後、いわゆる収勢の時、体がどうなってるか?
もし肩が凝っていたり、
手足が震えていたり、
脚に力が入っていたとしたら
正しい太極拳が出来ていなかったということになる。
それは力んでいたという証拠だから。

話は戻るが、
はじめて太極拳を経験する人は太極拳をする時、体がガチガチに硬直している。
それは無理もない。
形を真似ようとして力が入ってしまうから。

しかし、それは抜筋骨の時も同じで、
カタチを必死で真似ようとするあまりガチガチになってしまっている人をしばしば見かける。

私が抜筋骨を指導する時、
手の位置がどことか、どう動かすとかあまり細かなことは言わない。
そもそもそんなことはどうでもいい。

それよりも「ふわ~っ」とか「とろ~っ」とか擬音を多様している。
関西人ならではかもしれないが・・

先程も言ったように「気持ちいい~」と感じることが大事。
心がゆるめば体がゆるむ。
体がゆるめば心がゆるむ。

抜筋骨を義務にしない。
太極拳を義務にしない。

とっても気持ちいいことなんだ。

2018年2月20日火曜日

雨の中の神秘体験

今までにも何度かとりあげたが、
私は太極拳で神秘体験を経験している。

しかし、それをやろうとしてもできないし、
いまだにそれを再現できないでいる。

あの時は、仲間と延々とある公園で推手をしていた。
すると雨が降って来て「今日はもうやめにしようか?」と話していた。

しかし、気持ちは帰る気になれない。
まだまだやり足りなかった。

あちこち歩きまわり雨を凌ぎながら練習できる場所を探した。
散々歩き回ってみつけたところは屋根のある小さな休憩所。

そこを見つけたとたん、雨の降りが更に激しくなる。
しかし辞める気にはならない。

また仲間と推手を再開。
すると、しばらくして不思議な現象が起きた。

豪雨の中での推手で、何かが起きた。

体の中がスーッと光が入ってきて、自分の身体がまるで光の塊のようになった。
そして、体は氣(のようなもの)で満たされ体中が張り詰めた状態。
小さな針穴でもあければ、そこから勢いよく氣が飛び出すような感じだった。

頭の中は空だった。
まったく雑念のない状態。
寝ているようで起きてるような。
これが無の境地なんだろうかと思った。

そして私はどう変わったか?

相手の動きが見える。
いや、正確に言えば目で見えるのではなく、
相手の心がすべて読めてしまう。
いつ、来るか正確にわかり、そして体が勝手にそれを右へ左へといなしてくれる。

とにかくなんとも言えない程気持ちが良かった。
それは推手で相手の攻撃をいなせたことではなく、
その時の心の状態に。

恐れも、不安もなにもない幸福感だけの世界。

私の目標はそこへ辿り着こうとすることではない。
そこへ戻ること。

なぜ、あのような体験が出来たのか?

もし、あのまま雨が降ってきたという理由で帰っていれば経験できなかったこと。
恐らく、その後経験できないのは、
あともう少しのところでやめてしまうからだと思った。

神が力を与えて下さるのは努力に対するご褒美。
YouTubeや本ばかり読んでいても神は力を与えてくださらないだろう。
テクニックばかり追いかけ、仮に技術だけ身についても、
神技と言われる領域に行きつくことはないだろう。

なぜなら私が神秘体験をしたのは
豪雨の中一心に稽古に身を投じている時。

修行なくして道を極めることはできないと思った。

2018年2月17日土曜日

上げない、飛ばす

私は2年だけ制定拳を習っていた経験がある。

その時は、低い姿勢や脚を高くあげるためのストレッチや筋トレなどのトレーニングを強いられた。
伝統で育った私にとっては最初かなりの違和感を覚えたが、郷に入ったならば従うしかない。
正直辛かった。

いずれも、なぜそこまで低い姿勢をとる必要があるのか?
相手の上段突きや蹴りをかわすのであれば少しだけかがんだり頭を下げれば済んでしまう。

また、若くて俊敏な動きができるのならいいが、
中年になってから始めた太極拳。
とても若者のようにキビキビなんて動けない。
その分、低い姿勢から今度は立ち上がる時に時間を要するのでその間に相手に隙を与えることにもなる。
武術的には致命的だと私は考える。

また、足を高く上げることに関しても意味がわからない。
舞踊や体操競技として太極拳をするのなら高く脚を上げた方が見栄えが良いし、見ている者を楽しませることもできるだろう。
それはそれでいいと思う。

しかし、分脚や踵脚、更には端脚、採脚、膝打、擺蓮脚・・
どれも脚だけで攻撃するのではない。
太極拳の蹴り技というのは空手のような蹴り一本の技ではないのだ。

手と脚の両方を使い、
手は捌く、掴む、打つ、突く、絞める
脚は膝で打つ、脚で蹴る、脚をひっかける、膝裏を蹴り下ろす・・
これらの技を複合的に組み合わせ一つの技となる。

蹴り技は脚を上げるのではない。
飛ばすのだ。

蹴り技といえば、
空手、キックボクシング、ムエタイ、テコンドーなどいろいろあるが、
脚を上げるとは言わない。

師匠も、蹴り技の時に脚を上げるとは仰らない。
飛ばすと仰る。

私も飛ばせる蹴りができるようになりたい。

2018年2月15日木曜日

鍛えなければ鍛えられる?

太極拳を始めとする内家拳の鍛錬を行っていると体が丈夫になってくる。

風邪をひきにくくなる。
メンタルが強くなる。
怪我しにくくなる。
怪我しても治りが驚くほど早くなる。
多少の衝撃では倒れなくなる。
打たれても痛みを感じにくくなる。
逆に打った方が痛みを感じるようになる。

などなど。

内家拳の不思議なところは、鍛えるのであっても決して筋肉を鍛えるのではない。
いや、正確に言えば目に見える筋肉ではなく内筋・深層筋(インナーマッスル、コアマッスル)を鍛える。
だから見た目はムキムキにならない。

鍛錬法は?

姿勢を正し、
呼吸を整え、
気を沈める。

これだけ。

いわゆる物理的な筋肉を鍛えるのではなく気の筋肉を鍛える。
そのためには力を入れてはいけない。
脱力に脱力を重ね、無駄な力を極限まで抜く。

すると、体の中に気がすーっと通い始める。
それにイメージを加えると気の量を増加させることができる。
そして気によって体が満たされた状態になる。

筋力という物理的エネルギーではなく、
原子のパワーが上がるという感じだろうか?

頭や体のコンディションが最高レベルになると、なぜか体の中で何かが回転していることを感じる。

ぐるぐるぐるぐる高速回転する。

頭が冴えてる状態を頭の回転が速くなるというが、
それが体にも起こる。

難しい話はあえて省くが、
とにかく眠っていた細胞が起き、活発に動き出すという感覚。

太極拳をやればやるほど、
姿勢を正し脱力して立つということが重要だということが感覚的わかってくる。

いわば、
姿勢を正しリラックスするだけで人はいくらでも強くなれるということ。
人間は本来強いんだ。

2018年2月13日火曜日

予測しない

昨夜、弟子と散手稽古をしていた時に流れで自由推手になった。
自由に動き回っていいので、これがまたなかなかむずかしい。

近づけば逃げられてしまい
軸をとって崩そうとしてもやはり
いなしながら手と足で逃げられてしまう。
ほんの一瞬の隙を狙うしかない。

散手の場合は相手が打ってきたり掴んできたりした場合の技が決まっていて
それを繰り返し練習するが、
推手の場合は手を触れておくというルールはあるものの、散手より自由度が高い。

隙あらば打ったり崩したりしてよく、
散手では得られない感覚を磨くことができる。
いわば、やらせ一切なしの真剣勝負だ。

そのようなことで今回も特に意識したことは、
相手の動きを予測しようとしないこと。

予測しなければ崩されてしまうのでは?!
と、思うかもしれないが、
それならそれでいい。

崩されたからと言って死ぬわけでもなく、地球が滅びるわけでもない。
逆に言えば、崩されなければ聴勁や化勁を鍛えることは決してできない。
崩されまいと力で抑えようとしたり踏ん張ったりしても、それは太極拳ではない。

太極拳の心得をひとつにしぼるなら、
「用意不力」
つまり力を使っては絶対ダメということにする。
自分の中で使用禁止にする。

力を使わないのは筋力だけではない。
頭も同じ。
脳力を使おうとしない。

もしかしたら次あたり相手が打ってくるんじゃないか?
これ雑念であり妄想なり。
こんなものは燃えるゴミとして収集日に捨ててしまおう。

私が得た感覚は
予測しようとしないことこそが自然と予知力を生み出す。
恐れない。
自分を信じる。

仮に崩されても多くのことを学べる。
崩すことができても学べる。
どっちに転んでも自分にとってプラスのことしか起きないんだ。

すべてを受け入れる。

そんなことをいつも念頭において推手してるが、
まだまだ雑念が湧いてしまうことがある。

更に修行を積もう。

太極拳に実体なし

師が楊式を練り出すと空気が動き出す。

何度真似ようとしても真似られない
その理由がわかった。

それは実体がないから。

風や火に形がないよう
師の楊式には形がない。

風のようにいなされ
炎の如く打たれる。
それはまるで龍のよう。

師の動きには演じる意識がまったくない。
演じるというより念じるという感じにみえる。

何を念ずるのか?

私はまだ入り口に立ったばかりだが、
その意識の動かし方や自分の動きの変化を感じようとすると
今までにない太極拳が見え隠れする。

2018年2月2日金曜日

弱いは強い 2/2

(前回の続き)

最近、脱力だけでなく弱い力に拘っている。

手を上げたり出したりするのは最小限に。
相手との接点は最小限に。
相手を崩す時の力も最小限に。

微弱な力ほど、相手はそれをすぐに察知することができない。
そして弱い力ほど相手の中にすんなり入ることができる。
そして自由自在に氣を送ることができるようになる。

逆に強い力はすぐに見破られてしまい、簡単にいなされてしまう。
しかし弱い力は?

実は弱い力に関して言えば、これは医療にも役立つ。
私は20代の頃酷いぎっくり腰を患ってしまい、片足で立てなくなってしまった。
そして行ったのが職場の人に紹介された磁器と気功の治療を行う治療院。

行った施術は、私の仙骨に極々微弱な磁気を送るというものだった。
私の体には一切触れず、小さな器具から微弱な磁気を送られる。
次第に私の身体に変化が起きだした。

1時間2時間経過するごとに、体がどんどんだるくなりだしたのだ。
これは体の治癒力が働き出したということ。
体が腰を治すことにパワーを使っているので、その他の力が出なくなってきたということになる。

そして翌日、私の身体に異変が起きた。
なんと、あの酷かったぎっくり腰が完全に治っていたのだ。
まるで魔法にもでもかけられたような気分だった。

約30年も前の話だ。

今でこそ、整体院では、ボキボキしない整体が流行っているようだが、
私はそれを30年も前に経験している。
しかもその施術が行えるのは日本に5人しかいないと言われていた。

曲った背骨を真っすぐにする力は自分自身が持っている。
しかし普段の悪い姿勢を続けていると戻る力がそれに負けてしまう。
どうすればよいか?

腰痛は自分で治せるのだ。

仙骨と丹田は繋がっている。
腰をゆるめ、丹田に十分氣を溜める。
そして痛む腰の部分に意識を送る。
すると患部である腰に氣が集まる。
氣が集まると、今まで滞っていた血がどわーっと流れるような感覚が得られる。

我慢できない腰痛なら整体院や病院に行けばいい。
しかし、実際に体を治すのは自分であるということを忘れてはいけない。
依存してしまったら、治癒力が下がり、ますます症状は悪化するだろう。

折角太極拳を始めたのだから、
単に、人前で演武するだけではなく、
自分の身を自分で守り、自分で治すチカラを身につけて欲しいと
私は思う。

もう一度まとめておく。

相手を倒したり、自分の病気を治したりするのは
強い力ではなく弱い力であるということ。
強い力を加えても自分も相手も拒絶するだけ。
自分も相手も受け入れる小さな力を使うこと。

弱いは強い 1/2

最近、皆の前で套路を通す時、形は一切気にしない。

ひたすら脱力。

まだまだゆるめる、
まだまだゆるめる、
もっともっと。。

体の中を流れる氣を感じながら・・

すると体内が氣で膨張してくるかのように張り詰めてくる。

この5年程、伝統と表演を平行して行ってきたが
去年の7月に試合を引退し、今は100%伝統にスイッチした。

人の目を気にしない世界はこんなにも気持ちいい。
宇宙をさまようように、体の中の小宇宙をさまよう感じ。

套路を練っていると、
体が水になり、
風になり、
電気になり、
プラズマを発する。

掌がピリピリするのは、
体内の氣と体外の氣の摩擦によりスパークを起こしているから。

手が熱くなるのは、
手を意識することで氣が集まり、
氣が集まるとそこに大量の酸素と栄養が送られる。
すると細胞内のミトコンドリアで酸素と糖が結合しATPが発生。
その結果熱を発する。

だから手が熱くなるということは、
正しく手に意識を送ることが出来ているということ。
熱そのものは氣ではない。
氣が熱を作り出している。

気功治療は、手をかざすことで、そこに氣を送ることができる。
先程も説明したように氣が集まると、その部分に酸素と栄養が集まる。
結果その部位に必要な物資(栄養)とそれを働かせるための酸素がたっぷる送り届けられ治癒力が上がるというしくみ。

壊れたものを修復しようとしたら、必要なものは人手と修理に必要な物資。
人手は血であり、物資は栄養と酸素ということになる。

氣の不思議な力はそれだけではない。
実体験を元に言うならば、氣で人をコントロールすることもできる。
言いかえれば、相手は自分であり、自分は相手ということ。

とはいうものの、いきなりそんなふうにイメージしても、最初はなかなかうまくいかない。
その理由はまだ自分の中で十分氣を巡らせることができないから。

(次回に続く)

2018年1月24日水曜日

ふわとろ

最近套路を練る時に呪文のように唱えているのが
「ふわとろ」

先日、下実上虚(上虚下実)について書いたが、
それをわかりやすく言うと「ふわとろ」になる。

ふわ~っと空気に溶けるような感覚と、
とろ~っと蕩けるような感覚。

どちらもとても気持ちいい。

套路を始める時の予備勢の段階で体を十分ゆるめておく。
どれぐらいゆるめるかというと、
立っているのがやっとという程度に。
ふらふらしたっていい。

地震大国ニッポン。
どのビルやタワーも柔構造でできている。
やわらかい=強い である。

ビルだけではない。
飛行機の翼も柔構造。
あれがもし硬くビクともしないように作られていたら、
乱気流にでも出くわしたら翼はカンタンに折れてしまうだろう。
飛んでる時の飛行機の翼をみているとゆらゆらゆらめいてる。

そんなわけで、
強くなるために、やわらかくなろう。

脱力すると体がとろ~っと蕩けて重心が下に落ちてくる。
普段、地球の引力を意識して生活している人はいないと思うが、
太極拳をしている時は引力をたっぷり感じながら動く。

そして地球には引力とは反対の力(斥力)もある。
上に引っ張り上げられる力。
地球自転による遠心力だ。

地球は時速約1700㎞で自転している。
猛スピードで回っているのだ。
そうすると当然遠心力が働く。
それでも地球上のものが吹っ飛ばされないのは引力のお陰。

この引力と遠心力を感じながら動く。
感じるためには使う筋力を最小限にしなければならない。
小さな音を聴くためには耳を澄ませないといけないのと同じで、
普段感じることのない地球の力を感じるためには
耳を澄ます代わりに極限まで力を抜くのである。

体の中に取り込んだ氣は脱力することで液化し下へ下へと沈んで行く。
そして残った氣が気化し空気の中に溶け込もうとする。

これがふわとろの原理。

この感覚が嫌いな人はまずいないと思う。
誰もが好きだと思う。

もし、この感覚を味わうことが出来たら、
太極拳が病みつきになるのは間違いないだろうし、
そうなると健康街道まっしぐらということになる。

2018年1月20日土曜日

重さは力なり

アインシュタインの相対性理論の方程式を武術的に捉えると?

E=mc2

この式は以下のことを意味する。

エネルギー=質量×光速度の2乗

容易く言うと重力のあるもの程エネルギーが強いというものだ。
これは質量の高いものほどエネルギーが強いとも言える。

なんだか余計ややこしくなってしまったが、
今回のタイトル通り"重さは力なり"ということ。

以前書いたことのあることだが、
勁というのはまず心から始まり、それが意識を生み出し、気を通し、それが勁となって力となる。

いわゆる、心>意>氣>勁という順になる。

私の勝手な解釈では心とは頭脳ではなく魄であると。
勁力というのは脳の指令によって作り出されるものではなく、魂のパワーそのものだと私は思っている。

そのひとつの理由として、考えてから打った力はあくまでも筋力であり、
その筋力には表面的な衝撃を与えることができても貫通力がない。
これは直接師に勁を打ってもらったり、ミット打ちなどで何度も経験してきたこと。

ところで、意識とはなんだろうか?
これを医学的、物理的に解釈するなら一種の電気信号。
電気はほぼ光の速度で伝わる。

これを気功的に解釈すると?

氣というのは意識したところに集まる性質がある。
これを意気相連という。

体を極限までゆるめると体に氣が充満してくる。
この時の感覚は体がずっしりと重くなったような感じるが、
だからといって体重計に乗って実際に体重が増えるわけではない。
ここが氣の不思議なところ。

いずれも意は光の速度で伝わり、それが氣を生み出す。
無論体を硬直させていては氣をたっぷり体の中にめぐらせることはできない。
ふわっとしたスポンジはたっぷり水や空気を含むことができるのと同じで、
体をゆるめなければ体の中に気を充満させることはできないということ。

いずれも、氣をたっぷり集めることが出来れば、
後は意識の速度でそれを勁というパワーとして出力することが出来る。

先程もお話したが、意=氣 なのだから、
言いかえれば氣は光の速度で進むことになる。

因みに氣は目に見えない。
しかし空気(空間)を歪めることはできる。
氣そのものは見えなくとも空間の歪みとして見ることはできるし、少なくとも私は何度も見てきた。
水面に石を落とすと波紋が出来るが、それが空間で起きる。

太極拳は力で戦う武術ではない。
はっきり言ってしまえば宇宙の力を使うのが太極拳。
宇宙と同化するには極限までゆるめること。

邪念も力みもなにもかもすべて放出し
体の中に氣を充満させるためのスペースをつくる。

信じる信じないの話ではなく、
それを科学が証明しようとしている。

2018年1月18日木曜日

考えるのをやめよう

練習をしている時に考えるのはやめよう。

考えたってなにも答えは出ない。

習ってもいない漢字をどんなに考えても読み書き出来ないのと同じで、
套路を練る時も推手や散手をしている時もすべきことは考えるのではなく
"見る"
"感じる"
だ。

考えながら動くと動作がギクシャクする。
それもそのはず、
手足、体すべてを脳でコントロールしようとしても、とても間に合わない。
車の運転を、イチイチ考えながら操作していたらとても危険なことになる。

習うより慣れろ。
考えるより真似ろだ。

赤ちゃんが言葉を覚えたり、立って歩けるようになるのは、
考えて喋ったり立とうとしているのではなく、
親がしていることを真似ようとしているだけ。

子供の頃は大人のしていることが羨ましく、自分も早く大人になりたいと思った。
そして懸命に親の真似をしようとする。

先程言ったように、
真似る、
そして、それを何度も繰り返す。
それだけ。

私が太極拳を始めたばかりの頃は、とにかく先生の動きを真似た。
始めたばかりのころ、先生と自分が演武している動画が残っていて
久しぶりにそれを見ていたら、自分の動きがまるで先生と同じだった。

カメラの位置から時折重なって見えるのだが、
それでもその重なった部分からほとんどはみ出すことなく動いているというのを見て改めて驚いてしまった。
確かに当時の私は先生に憧れ、とにかく先生の真似をしようとした。

先生が動きを変えれば自分も変えた。
そのことを先生に尋ねると「常に進化しているから」とのことだった。
覚えても覚えても先生は進化していき、ついていくのがやっとだったが
当然のことながら、そのことに対し不満を漏らしたり文句を言ったことなど一度もない。

先生が変われば自分も変わる。
先生が進化すれば自分も同じく変わることで進化できるということ。

自分で言うのもなんだが
私はこういう自分の素直なところが好きだ。

考えながら動こうとするのをやめよう。
先生というのは教える人ではなく手本を見せてくれる人なんだ。

2018年1月16日火曜日

下実上虚

なんとなく昔の資料をひっくり返していたら
太極拳で重要な十六の言葉が記されたコピーが出てきた。

何度もコピーしたものらしく、文字ははっきりしないが
その中でぱっと目に入った言葉が、下実上虚(かじつじょうきょ)

なぜこの言葉が目にとまったかは自分でよくわかっている。
最近套路を練る時、特に意識していることだからだ。

この下実上虚がしっかり出来るようになると、動作がとても安定してくる。
やわらかい動きなのにずっしりとした重量感を出てくる。
そして、気の通りが良くなる。

この言葉の意味は特に記されていないが、
一言でいえば「重心を落とせ」ということになるかと思う。

足腰はずっしり。
腰から上はふわっと。

最初のうちはどうしても逆になる。
なぜなら、最初はどうしても手で動こうとしてしまうから。

手が動こうとすると腕や肩に力が入り、
その一方、足腰がまだ出来ていないからふらふらする。
ふらふらするから、尚のこと上半身に力が入り、重心が上がってしまう。
そのことでまた更にふらふらする。
全くもって悪循環であるということ。

だから下実上虚なのだが、
そうそうすぐにできるものではない。

どうすればいいか?

当然のことだが、練習しかない。

ちなみにこの下実上虚、下半身に力を入れるのではない。
気を沈めるということ。
力はどこにも入っていてはいけない。
自分がまるで水の入った皮袋になったかのごとく、
体まるごとゆるめなければならない。

そうすることで自然と下実上虚になる。

ひとりよがりになるかもしれないが、この感覚が実に気持ちいい。

本当においしいものは香り、味、舌触り、歯触り、そして後味までおいしい。
套路ひとつでこれほどまでに楽しめるのかと思うほど。

これこそが伝統太極拳の醍醐味と言えよう。

2018年1月12日金曜日

生涯学び続ける

昨夜の稽古の時、会員さん達の前で「私は生涯学び続けます」と発言した。

何故こんな発言をしたか自分でもよくわからないが、
私の目標は良い先生になることではなく、良い修行者になることだから。

死ぬまで学び続け
死ぬまで研究し続け
死ぬまで修行を続ける

逆に、教えるだけの人になったらそれは自分にとって「死」を意味すると思っている。
進化が止まってしまう。

私をそう奮い立たせてくださる先輩の先生方は大勢おられる。
そして私はまだ見ぬ未知の世界に挑戦し続けたいと思っている。

私にとって生きることとは老化と闘うことではなく進化すること。
非常識と思われるだろうが、太極拳を行っていると自然とこういう考え方になる。
死を迎える直前が一番進化した自分であり、一番美しいと思っている。

太極拳を始め15年経った今でも「これからが始まり」と思っている。
いや、正確には、まだ始めるための準備も出来ていない。

邪念に囚われることなく自分の進むべき道を歩んでいくためには
いらないものを整理しなければならない。

特に今はそのことを意識し、身の回りと心の断捨離を行っている。

今まで学んできた内家以外の武術は全て捨て、
制定された套路や競技用套路もすべて捨てた。

捨てるというのは今後やらないということ。
やらないのはすべきことを全うするためであり、絶対必要なことだと思っている。

かといって今まで学んできたことが無駄だったわけではなく、それも必要なこと。
これまで学んだことは自分の中で血となり、氣となり、水となって生き続ける。

人間はなにもしないでいると、老化が進むだけ。
しかし太極拳の修行を続けていくと進化することができる。
それは死後魂となっても生き続ける。

こんなふうに考えると太極拳に出会えて本当に良かったと思える。

2018年1月6日土曜日

信念岩をも通す

先日、飛んでる矢は止まっているという話をしたが
今回はその逆。
信念岩をも通す、
信念山をも動かすという諺。

この言葉をそのまま受け取ると「そんなことあるわけない」と思うが
これはあくまでも信念にはそれだけの力があるという例えであり、
念によって岩や山を動かすことは実際できない。

しかし、
私はこの諺を知った頃からほのかに「実際にできたらどんなに素晴らしいだろう」とずっと考えてきた。
そしていろいろ勉強するうちにこのことが可能だとうことに気付いた。

まず岩を通すことはとても簡単。
何故なら、意はそれが岩であろうが鋼鉄であろうがそれを突き通すことができる。
岩の後ろに意識を送ればすでに意は岩を通したことになる。

人間は思考することで様々なものを生み出してきた。
高層ビル、宇宙ロケット、MRI、コンピューター、インターネット、GPS・・
どれもつい100年前にはなかったもの。

現在というのは過去の未来であるということ。
要するに、「今」は過去の人々が思い描いた夢の結晶なのである。

それだけ意や思考にはパワーがあるということ。
山を動かすどころか山を破壊するミサイルだって今はある。

量子力学的に見れば、人も岩も山もすべて原子でなりたっており、その原子も、原子核と電子の運動によって成り立っている。
つまり、人間というのは原子核の周りを電子が回る原子の集合体であり、
固体だと思っている人間は実際はスカスカの宇宙空間でありエネルギー体であるということ。

目でモノを見ようとするとどうしても表面しか見えないが、
意で見ればどんなものも貫通して見ることが出来る。

なぜなら人間も岩も山もすべて原子で成り立っており、
量子力学的に最小単位でみると、実際は「存在しない」ということになってくるからだ。

映画マトリックスで、ある超能力を持った少年がスプーンを曲げながらこんなことを言う。
「曲げようと思ったら曲らないよ」
「そうじゃなく、真実を見ようとしなきゃ」
「スプーンはないんだ」
というシーン。

この映画が公開されてから今に至る約19年もの間、ずっとこの子の言ったことが気になっていた。
あまりにも意味深な言葉で単なる台詞とは思えなかったからだ。

そう、スプーンは実際にはない。
マトリックスのように仮想現実だからではなく、原子レベルで見れば、空間の中にスプーンを構成する材質の原子が集まっているだけで、実際、空間であることには変わりない。
こう考えると実際スプーンはないことになる。
それどころか、ある説によると、そのスプーンですら自分自身が勝手に作り出しているとも考えられている。

私はこれまで、気功や套路を練る時に、空間に溶け込む感覚や、
推手で相手を感じたり、相手に意を通して崩したり・・
この辺のことは素粒子(物質の最小単位)レベルで考えるとすべて辻褄があってくる。

感覚は嘘をつかない。
そして自分の感覚は正しかったということがなにより嬉しい。

私は今までどちらかといえばスピリチュアル派で、
人間を大量虐殺してしまうような化学力は地球から消えて欲しいと願ってきたが
今ではその科学の進歩にとても感謝している。

人間が支配欲や金銭欲から解放され
自分がなぜ誕生し、どこに行こうとしているのか?
ということをテーマに生きて行ける時代が来ることを強く願う。