2017年9月30日土曜日

気功の中に太極拳がある

太極拳は太極拳の中に気功があるのではなく
気功の中に太極拳がある。

なぜそんなことが言いきれるか?

それは長年気功と太極拳を平行して行ってきた中で
受け伝えられている歴史との伏線を感じることが多々あるからである。

言い伝えによると、太極拳は仙人である張三豊が編み出したと言われる。
道教の陰陽五行説から生まれたのが太極拳であると。

特に最近太極拳の修行を行いながら陰陽説の原理を感じることが多い。
どこをとっても陰と陽で解釈できる。
陰と陽は常に一体であり、バラバラになってはいけない。

太極拳の鍛錬を行うにあたって、いくつか重要なことがあるが
例えば、分虚実、上下相随、内外相合、動中求静
などは陰陽一体でなければならないことを示す言葉だ。

太極拳では虚と実を明確に分けること。
上下の動きがばらばらになってはいけない。
呼吸に合わせた動き。
動いていても常に気を沈めること。

これが出来ていないと、套路では動きがギクシャクし、
推手では軸がぶれ、散手では技が掛からない。

五行思想に関しては形意拳の五行拳だけではなく、
太極拳にも当てはめることが出来る。

太極拳は、
流れ落ちる水であり、
燃え上がる火であり、
そびえたつ木であり、
ある時は金のように輝き、しかも強く固く、
そして大地(土)と繋がる。

こう考えると太極拳は地球(宇宙)そのものであることがわかる。

だから、太極拳は套路だけを覚えれば良いというものではない。
套路は鍛錬法の一部であり、本来の太極拳の目指すところではない。

気功の中に太極拳を入れて修行を行っていると、
どんどん歴史を遡り、源に辿りつくように思えてならない。

海のように広い大河も、元はと言えば小さな湧き水から始まっている。
修行とはその源流を探す旅なのかもしれない。

川の流れに逆らって登りつめると、
そこに禅の世界があるように思う。

最終的には無に帰るということ。

2017年9月29日金曜日

年齢ではなく経験

月日が経つのは早いもので、私も産声をあげてから半世紀が過ぎた。
とはいうものの、学生時代はともかく、私はこれまで様々なことに挑戦してきた。

これまでブログにも散々書いてきたのであえて省略するが、
人間の価値は何で決まるだろう?

年齢?
学歴?
経験?

もちろんどれも大事だと思うが、
私が今まで様々な人と接してきて感じたことは、
経験豊富な人ほど謙虚で、
そうでない人は長く生きていることだけを自慢しようとする。

歳が若くとも自分のやりたいことや事業で成功している人は大勢いる。
学歴がなくともプロになっている人は大勢いる。
若くして他界された人で偉人は大勢いる。

しかしどんなに年齢を重ねてもそれが直接実力とは結び付かない。

確かに歳をとらねばわからないこともある。
物事への感じ方や人との接し方もかわってくる。

しかし、年齢だけを自慢する人になるのではなく
過去の栄光にすがり、その実績だけを自慢するのでもなく
今の自分に明確な夢がありそれに向かって努力しようとしているかどうかだと思う。

私はこういう人と出会うと、年齢や学歴問わず素晴らしいと思うし尊敬する。

1日は誰にとっても24時間。
その24時間をボーっと過ごしても、たくさんの仕事をこなしても同じ24時間。
1日1つのことだけしかやらない人もいれば、10をこなす人もいる。

同じ年齢なら10倍の経験を積んでることになる。

なにがいいたいか?

太極拳を始めるのに、年齢や性別、学歴など関係ないということ。
いつから始めてもいい。
当会では79歳から始められた方もおられる。

太極拳は拳歴だけでは決してわからない。
結局、明確な目標を以てどれだけ努力しているかということになる。

1日10分しか練習しない人もいれば3時間練習する人もいる。
この差は大きい。
決して拳歴だけではわからないということ。

1日の使い方が上手な人は、
もしかしたら今死んでも悔いが残らないと思っている人が多いと思う。

モーツァルトは35歳でこの世を去ったが、数多くの名曲を残し、
そしてモーツァルトを超える天才作曲家は今に至っても現れない。
仮にその倍の70歳生きたとしてもモーツァルトを超えることは出来ないと言うこと。

自分にとって生きがいを見つけ、それにとことん没頭してみる。
私はこのような生き方が一番カッコいいと思う。

怒るか笑うか

私は指導する時、基本怒らない。
怒るという波動には相手の気を苛立たせたり、
萎縮させたりする力がある。

では笑うとどうなるか?
笑う門には福来るというが、
笑うという波動には広がる力があり、
相手に悔しい想いをさせることもあるが
さほど気にすることないんだという安心感も与えることができる。

私が指導している時どんなことを考えているかというと、
動きを見ながら「きっとうまくいく」とずっと念じている。

どれだけやってもダメでも、それでも念じ続ける。
正直物凄いパワーを消費する。
それでも私は念じ続ける。
お陰で稽古後はヘトヘトだ。

しかしそれでも私は人の可能性を微塵にも疑いたくない。

ある会員さんが「笑わないでください」と言った。
「厳しくしてください」という人もいた。

それはそれで大したものだと思う。
しかし逆を言えば笑われたくなければ、やればいいだけだ。

因みに叱ってくださいと言った人に共通していたこと。
動きが硬い。
きっと過去に厳しく叱られながら指導を受けてきたのだろう。

先程も言ったが、怒る波動には緊張感を与える力があり、それが力みとなる。
心が委縮し、失敗を恐れ、完璧を目指そうとするが、
どこかびくびくしなければならなくなる。

こんな状態で気がスムーズに流れるだろうか?

私が笑うのにはきちんと意味がある。
馬鹿にして笑ってるのではない。

笑うことには緊張感を解く力がある。
そのことで気血の巡りがよくなり、免疫力を上げる力もある。

緊張を解くことで、筋肉や関節が緩み柔らかい動きが出来るようになる。
そうして太極拳の動きになっていく。

数年前の話だが、家族4人である喫茶店に入った。
そこのウエイトレスさんが新人なのか、トレンチを持つ手がぷるぷる震えていた。
トレンチの上には注文したコーヒーがのっていて、
今にも振動でコーヒーがこぼれそうだった。

私はそれを見て「大丈夫ですか?」と笑いながら言った。
するとウエイトレスさんはニコッと笑い、
その後手の震えが止まり上手にコーヒーをテーブルに置くことができた。

私はその後家族に怒られた。
「ああいう時は笑ったらあかん」と。
しかしあのままこちらも緊張して心配しながらじっと見ていたらどうだっただろう?
きっとウエイトレスさんはもっと緊張し
コーヒーがこぼれソーサーはプールになっていただろうと思う。

笑うといってもバカにして笑うのではなく愛情をもって笑うということ。
同じ笑うでもそこに愛があるかどうかということが言いたい。

話を戻すが、
実際に私は太極拳の指導で怒らずに笑い続けた。
するとどうだろう?
結果どんどん柔らかい動きになり人間性まで変わってきた。
70年以上治らなかった姿勢が良くなってきた人もいる。

これからも、笑わないでくれと言われても私は笑う。
ばかにして笑っているのではない。
微笑んでるんだ。
「あなたは出来る」と念じながら。

目の前にいる相手はいない

今、怪我によって出場できなくなった私の代わりに
弟子に技を教えイベントで実演できるよう指導している。

自分が技をかけるのとは違い指導するのはなかなか難しい。
しかし見ていると全て自分が経験してきたことであり、
かつての自分を見ているようだ。

例えば太極拳の擠勢。(打擠ともいう)
両手を合わせるように重ね、相手を打つ。

これを始めてやろうとした時、相手はうんともすんとも動かなかった。
一体これはどうやって使うのか??
全く解らなかった。

そして何か月か経った時に、だんだん打てるようになってきた。
そして数年が経ちその威力が増してきた。
そして遂には相手を何メートルも遠くへ飛ばせるようになった。

いずれも最初はなかなかうまくいかない。
そこでいくつかのことに気付く。

立禅の重要性。
歩型の重要性。
套路の重要性。
推手の重要性。

これらがきちんと出来ているかどうかを一発でテストすることができる。
いわゆるこれらがきちんと出来ていれば技は掛かるということ。

もうひとつ。
技は掛けようと思うと掛からない。

掛けようという意識の中にすでに力みが生じてるからだ。
それは相手にも伝わってしまう。

だから、
どうするか?ではなく、
どうしたいか?ということ。
現実を見るのではなく未来を見る。

目の前に相手がいる。
そうすると誰もが相手を倒そうとするだろう。
自分が相手より体格や腕力が勝っていれば倒すことはできる。
しかし逆なら?

倒そうとしても逆に倒されてしまうだろう。
壁を殴ったり体当たりするようなもの。

そもそも目の前にいる相手は本当にいるのだろうか?

もし〝いない”と思うことが出来れば、相手の体格や力など考えることもない。

例えば相手が大男なら「無理じゃないか?」と思ってしまうだろう。
そう思ってしまった時点で技は掛からない。

まず結果を先に作る。
あとは無心でそこに向かうだけ。

昔フィーリングという言葉が流行ったが、
技はフィーリングでやるもんなんだ。
少なくとも私は。

2017年9月28日木曜日

中から?外から?

ある人が私に行った。
内功をしっかり練ってから套路を覚え技の使い方を研究したいと。

それはそれで人それぞれだから私は何も言うつもりはない。

しかし、私は中からより外から派だ。

まず形を作ってから中に魂を吹き込む。
これは何にでも通じると思う。

音楽活動をしていた時もそうだ。
まず曲をつくる。
何度も演奏し練習する。
そのうち魂が宿る。

仮に魄によって曲を作り詩を作ったとしても、
演奏するテクニックがなければそれを表現することはできない。

確かに曲はハイな状態の時に天から舞い降りてくる。
しかし演奏がダメなら天からの贈り物を表現することは出来ない。

絵も同じ。
デッサン力なくして、自分の心を絵に描写することはできない。

武術も同じ。
まず立禅で正しい姿勢を身につける。
そして套路によって正しい動きを身につける。
今度は途切れないよう連綿と動けるように套路を練る。
次に気を練りながら套路を練る。
最後に相手がいることを想定し気を流れを感じながら技を練って行く。

この流れが一番スムーズだし、
それになにより楽しいと思う。

まずはグラスを用意する。
そしてそこにおいしいジュースを注ぎ込む。
逆はあり得ない。
実に単純なことだ。

これはほんの一例だが、太極拳はまず形から覚えるのが良いということ。

ただ、だからといって形ばかりでも意味がない。
太極拳の修行とは形を覚え内面を練っていくことにある。
こうして初めて〝生きた太極拳”になる。

少なくとも私はそのようにやってきたし、
これからもそれは変わらない。

2017年9月22日金曜日

世界一美しい護身術

太極拳は世界一美しい護身術といいたい。

いや、太極拳に限らず他の武術も武道も美しい。
というより「強いは美しい」のだ。

美しい花にはパワーがある。
美しい絵にはパワーがある。
美しい音楽にはパワーがある。

逆を言えばパワー(強さ)があるから美しくなる。

その中でも太極拳の動きは独特の美しさがある。
日常生活で跳んだり回ったりすることはあっても
太極拳のようにゆっくりスローモーションのような動きをすることがあるだろうか?

楽しかったり、機嫌が良かったり、元気だったりすると、心が踊りだし、体も踊る。
しかし太極拳の動きは意識しないとあのような動きにはならない。

あえて言うなら、
子供が寝ているそばを歩くとき音を立てないように歩く。
恐らく太極拳の動きになっていると思う。

或いは、薄氷の上を歩く時も同じ。
氷を割らないように歩こうとすると、自然と太極拳の動きになる。
田んぼや泥沼で泥がはねないように歩く感じと言ってもいいだろう。

足腰に負担を掛けずに、自ずと体幹を使って動こうとする。

早く覚えたい一心で速く動こうとする人がいる。
私は「ゆっくりゆっくり」と促す。
それでもどうしても速くなってしまう。

速く動こうとすると当然使う筋肉は速筋。
しかし太極拳で使うのは遅筋。
使う筋肉が違うから速く動いては決して太極拳の体はつくられないし
太極拳の動きにはならない。

決してイライラしないこと。
当会ではイライラ禁止にしている。
イライラは何も生み出さない。
心が乱れ動きも乱れる。
動きが乱れるから更に心が乱れる。
なにもいいことはないのだ。

なかなか覚えられなくとも、目の前にある石段を一段だけ上ろうとしてみる。
その一段を上ることが出来たら、次の一段をと。
決して一気に駆け上がろうとしない。
躓いて怪我するのがおちだ。

スピードの出し過ぎは事故の元と言うが、
それは交通事故だけではない。
仕事でもなんでも早く動くと良くも悪くも痛い目に遭う。

私の経験からすると、急速な事業展開を試みた時、周りの反感を買い、
袋叩きにされたことがある。
出る杭は叩かれるのだ。

電話で呼び出され、現地に着くと若い男たちが7~8人。
よってたかって殴られた。
反撃することも出来たが、私は自分がビジネスリーダーである立場であるため問題を起こすことはできない。
結果、なすがままだった。

無論、平気でいられるはずもなく悔しくて悔しくてならなかった。
しかし歯を食いしばって耐えた。
36歳の時だった。

その後ペースをゆるめ、足元を固めながら事業展開した。
1年後、私のビジネスは成功しハワイ暮らしができるようになった。

余談だが、
ハワイ(正式にはオアフ島)はサンゴ礁が盛り上がってできた島。
島全体がパワーアイランドで、ただ住んでるだけでもモリモリと元気が出てくる。
澄み渡ったコバルトブルーの海と空。
常に爽やかなトレードウインドーが吹いて、
毎日のように降るミストのような小雨により美しい虹が頻繁に見られる。

ハワイに行くと持病が治ると言う知人もいたが、
私もハワイで風邪ひとつひいたことがない。

数人に殴られたご褒美がハワイだったということ。


さて、
今回、件名を美しい護身術としたのは
昨夜、サークルの体験に来られたお二人から伺った感想をそのままひとつにまとめてみたらこうなった。

お一人は、私の演武を見て、とても素晴らしいと褒めてくださった。
もうお一方は、大切な人と歩いていて絡まれた時に対処する方法を身につけたいとのことだった。

どちらも太極拳を始める動機としてぴったりだと思った。
なぜなら、太極拳は世界一美しい護身術だからだ。

闘うために生まれた武術ではなく
守るために生まれた武術。

太極拳は
健康を守り、
自分を守り、
大切な人を守るすばらしい護身武術なのである。



いつもご愛読してくださっているAさん、
この度は素敵な本と美しいグラスありがとうございます。
とても気に入りました。

それに頂いたringoさんのスーパームーンの写真葉書に一目ぼれしてしまい
ブログのヘッダーに使わせて頂きました。
すごいパワーを感じます。
しばらくはこのスーパームーンのパワーを借りて頑張ろうと思います。

2017年9月19日火曜日

6分後から始まる世界

現在イベントのために短い套路の練習を平行して行っている。

当会では、イベント用に楊式太極拳の14勢、28勢や双辺太極拳の14勢などをそれとして練習を行っている。
これらは競技用套路ではなくあくまでも伝統套路。

3~6分以内の短い套路である。

人間が集中して聴いたり見たりできる時間は大よそ5分。
第一印象が決まるのは最初の4秒と言われる。

だから表演用套路は6分以内にまとめられている。

そして礼を含む最初と最後が大事だと私はいつも指導するが、
人に与える印象が4秒で決められてしまうからだ。

だらだらと不揃いに出てきて、まばらに始まったのでは、もうそこで価値をつけられてしまう。
逆にどんなに良い演武をしても最後の礼に節度がなければ、
最終的にだらしなく見えてしまう。

「挨拶が大事」といつも私は言ってるが、
目が会ってから4秒でその後の関係や共有する時間が決まるからである。
私の営業経験から言うならば、
最初の4秒で契約がとれるかどうか決まるといっても過言ではない。

話を演武時間に戻すが、
演劇やクラシックミュージックのように変化があるものなら別だが
そうでなければ見ているほうは飽きてしまう。

私が作曲している頃はいつも4分前後になるように作っていた。
軽音楽で5分以上は正直キツイ。
いわゆる太極拳なども同じで、大きな変化がなくゆったりと連綿としているので5~6分というのは見ているものを飽きさせないギリギリの時間なのである。

しかし
太極拳の醍醐味は6分経過してから始まるといいたい。
もし健康目的で太極拳を始めるなら5分や6分では太極拳本来の気持ち良さは得られない。
それは実際に伝統套路を体験してみればわかる。
(わかるまでには時間はかかるが)

いずれも、これが私が徹底して伝統套路に拘る理由である。

熟練してくると、最初の1秒から気持ち良くなれるようになるが、
それは毎日毎日20分以上の伝統套路を行ってきた結果であり、いきなり1秒では決して気持ちよくなることはない。

伝統楊式太極拳では、最初は比較的優しい技で構成されている。
そして体温が上昇し、関節がゆるみ、緊張が解けて来た約6分以降から
分脚や踵脚などの難易度の高い技が出て来る。
それが終わると今度は低い姿勢の技が出て来る。

片足を上げるより、低い姿勢の方が高齢の方にとっては辛い。
低い姿勢が辛いのではなく、しゃがんだり立ったりが辛いのだ。
しかし24式太極拳(簡化太極拳)ではまだ体が温まらない間に踵脚と下勢という辛い動作が連続して出て来る。
6分以内に収めるためやむを得ない構成なのだろうが、健康目的で太極拳を行うには無理があるように思う。

車にも暖気運転というものがあるように、寒冷時にいきなり車をスタートさせるとエンジンに負担がかかる。
ましてもやいきなり急な上り坂を登ろうとしようものならノッキングしエンジンが止まってしまう。(インジェクターが採用された今の車はそんなことはほとんどないが)

套路も同じ。

演武しながらゆっくり体を温めていく。
温まると関節や筋の緊張がほぐれてくる。
すると体全身の気血の巡りがよくなる。
次第に体がゆるみ、
沈む感覚と空間に溶け込むような浮遊感覚が同時に得られる。

丁度その頃に、蹴り技や低い姿勢の技へと流れて行く。

伝統楊式太極拳には難病を克服するなど海外でも様々な研究実績がある。
しかし24式太極拳にはこれといった事例がない。

24式太極拳を否定しているのではない。
24式太極拳を覚えたらそのルーツである伝統楊式太極拳を習うことをおすすめしたいのである。

24式太極拳は表演や競技、検定には丁度良い時間につくられてある。
しかし恍惚とした気持ち良さを感じたり、更に上を行く健康づくりを考えるなら伝統楊式太極拳を強くおすすめする。

演武時間が20~25分と長いので表演には向かないが、
この時間でなければ決して得られない素晴らしい世界があるということをお伝えしたい。

2017年9月18日月曜日

呼吸する太極拳

最近の天文学では、宇宙は小さな粒のような宇宙が
ビッグバンによってできたという説が薄れてきているらしい。
宇宙は膨張と収縮を繰り返しているらしい。

今の大宇宙も最大限に膨張すると今度は収縮し、
目に見えない程の小さな粒になり、またそこから膨張するのだそう。

ところで自宅療養10日目の今日、
10日ぶりに気功と太極拳を行ってみた。

改めて気功も太極拳もとても気持ちが良いということを再認識した。
そして全套路をやり終え、良い汗をかいた。

そして、この10日のブランクは私にとって大きな利益をもたらした。
「休むことも練習」と言われるが、確かにそうだと思った。
無論始めて間もない初心者がいきなり10日も休んでは駄目だが・・
最初はどんどんやったほうがいい。

ところで何を発見したかというと、
太極拳もまた宇宙と同じように膨張と収縮を繰り返しているということ。

虚の状態(後ろ体重)で収縮し、実の状態(前体重)で膨張する。
必ずしも虚と実がそうであるとは限らないが大雑把に言えばそんな感じだ。

ゆっくりと息を吸いながら体重を後ろに下げる。
いわゆる化勁の部分。
たっぷり腹に吸い込み、気のボールが収縮するようにイメージする。

次に息を吐きながら体重を前に移す。
発勁である。
腹から押し出すように息を吐きだし、気のボールが大きく膨張するようにイメージする。

収縮と膨張の繰り返し。

砂の粒のように小さく収縮し、
山をも包み込むほどの大きく膨張する。

小さな粒になれば自分が打たれることはない。
消えたも同じ。
しかしその後大きく膨張し拡散(爆発)する。

師が演武し始めると、「実」の部分で大きく膨らんで見えるのは
こういうことだったのだということに気付いた。

大きく見せようとするのではない。
気を放つのだ。

師に打たれても痛くもなんともないのに、
気がつけば吹っ飛ばされ壁に叩きつけられる。

かといって、打ってもいないのにじわじわと痛みが襲ってくる暗勁。

やっぱり楊式太極拳はおもしろい。

2017年9月17日日曜日

事故はなぜ起きたか?

その後も徐々に回復に向かっており、
あとは左股関節の痛みだけが残っている。

いずれも動けない今、
今回の出来事を振り返ったり
本を読んだり、
今後のことを考えたり。

今回の事故は何故起きたのか?
ということを考えてみた。

いくつか答えがあがってきた。

ひとつは前回もお話したように、
この事故がなければ私はこの先でもっと大きな事故に巻き込まれていた。
だから災難ではなく私は救われたと思っている。

あと、救急で運ばれてから1週間と2日が経つが
私はサークルを立ち上げてから、こんなに休んだことがない。
休んでもせいぜい1日。

今まで心身共に溜まっていた疲れがすっかり癒え、
今までにないやる気がふつふつと湧き出している。

この身体的な事故が起きるまで心の事故続きだった。
私が大切に思い、そしてその人の将来を楽しみにしていた人から
次々と退会届が私の手元に届いた。

一人二人ならまだしも、この2か月間で6人。
自然退会ではなく退会届が送られてきた。

もちろん覚悟はしていた。

実は私は過去事業で500人のビジネスパートナーに一斉に辞められたことがある。
理由はそのグループリーダーの急な意欲喪失。
残念でならなかったし、売上的にも大打撃だった。

いずれも今回の退会者の続出はそれに比べればかすり傷。

その後は月収50万から数万円へ。
無論生活できるわけもなく
サラ金にまで手を出さなくてはならないまでに陥った。
時間問わず容赦なく取り立ての電話が鳴り響く毎日。
私はそれ以来電話の着信音が完全トラウマになってしまった。

事業が破綻し首を括る者もいるだろうが、私はそう簡単に諦めない。
その後また一からグループを作り直した。
ひとりひとり誠意をもって声をかけていった。

すると今度は誠実な人ばかりが集まり始めた。
売上はどんどん上がり、グループ人数こそ少なかったが、意欲的なパートナーが増え
売上も急上昇。
その後、破綻前よりも収入が増え月収70万円に。

実は私の事業意欲は交通事故から始まった。
交通事故は本当に怖いし後々まで心の痛みが残る。
幸いにも死者が出なかったが、それでさえも奇跡。
一度死にかけた者は強いというが、それは本当だった。
私のその交通事故から1年ほどで、最初の事業に成功した。

今度の交通事故も実はある程度予期していた。
辛いことが続くと更に辛いことが起きる。
何度も経験してきた。

しかしピンチはチャンス。
今後、会はもっともっと素晴らしくなるというビジョンが見える。

それとあともう一つ。

武術に対する考えが少し変わった。
いや目標はなにも変わっていないのだが
今行っている武術に対する捉え方が変わった。

本当に武術が誕生した理由が解った気がした。
それは今まで何度となく唱えてきたことだが、
「つながること」

これが私の最終目的。

最近ネット環境もどんどん進化して、
クラウドや、それを共有できるコンテンツも出始めている。

化学は目に見えないものを解明しようとしているが、
化学はようやく神の域に近づき始めた・・
いや、言い換えれば、同じ方向に向かおうとしていることがわかる。

人間はインターネットによって全世界がつながった。
わからないことがあればウィキペディアで調べればすぐにわかる。

しかし、インターネットが発明される前から人類は皆繋がっていたのだ。
何百年、何千年も前から。
ウィキペディアがなくとも、人間は全人類の知性を手に入れることができる。

別に信じなくてもいい。

少なくとも私はそれを経験してるし、
世の中のしくみが全て理解でき、そして未来に起きることすら予知できた。

雨が降ると思うと降りだし、止むと思えば止む。

高速で料金を支払おうと思ったら、きっちりその小銭が料金分だったり、
時計や距離メーターを見るといつもぞろ目。
ぞろ目以外の時は見ないのに、なぜぞろ目の時だけ見るのか?

欲しいと思えば、数日中に一銭も使わず手に入ってしまう。
不思議なのは私がそれを欲しいと絶対知らない人からそれが届けられる。

相手が話す前から話すことがわかる。
だから相手がどんなにビックリするようなことを言っても驚かない。

初対面なのに合う人全てが懐かしいと思ったり・・
相手は自分で自分は相手という感覚。

こんなことが連続して起きるものだから、毎日が鳥肌立ちっぱなしだった。

とにかく話つくせないほど不思議な体験を今まで何度もしてきた。

話が長くなってしまったが、私は今後も太極拳も形意拳も八卦掌もやっていくが、
どの流派も気功を重視して行こうと思う。

これら内家拳はすべて気功を元として生まれた流派であり、
気功なくしてこれらの武術は成り立たない。
それでも、力とテクニックで武術をしようとする方もおられるようだが、
それはそれで人それぞれ捉え方が違うのは当たり前のことだし、
私は私の思う内家拳を極めて行こうと思う。

皆が幸せになれる武術。

人生をもっと楽しく、
そしてもっと幸せになれるということを証明しながら実践していきたい。

そんなことをこの9日間考えていた。

私に何ができるか?
出来ることから始めて行こう。

2017年9月15日金曜日

治癒力

人間は自分の体を自分で治そうとする力がある。

病気や怪我をした時いつも思う事。
ここからが勝負

物心ついたころから小児喘息で闘病生活31年。
その後も決して体は強い方ではなく、しょっちゅう風邪で体調を崩したり
アレルギーを起こしたりしていた。

その私が気功と太極拳によって変わった。

今回の交通事故で、肋骨を骨折し、肺に穴が開き気胸になってしまった。

しかし、5日後の再検査の時には肺の穴は塞がり、
漏れていた空気も吸収されすっかり元の肺に戻っていた。
通常1~3週間かかる気胸がわずか5日で治った。

肋骨骨折は辛かった。
しかし丁度7日目になる今日、骨折による痛みが消えた。
体勢を変えたり、寝たり起きたりする時の痛みがなくなり、
咳やくしゃみ、鼻をかむ時も激痛だったが、それさえもなくなった。

肋骨骨折は通常3週間はかかると言われるが、それが1週間で治った。

私は武術を始めてから、丈夫な体になることが絶対大事だと思ってきた。
そうでなければ武術をやる意味がない。
武術は敵と戦うためだけではなく、自分自身を強くするための行だと思うからだ。

まだ、左大腿骨頸部打撲と血種による痛みが残っているが、
これも早期に治したいと思っている。

今日母から電話があった。
私の怪我をとても心配しているようだった。

その時、滅多に褒めない母が私のことを凄いと言ってくれた。
私の生徒たちのこと。

私のことを心から心配してくれ、
食料などのお見舞い品を届けてくれ、
しかも私がいなくとも、しっかり稽古し、
それをわざわざ報告してくれる。

「あんたは生徒から慕われてるんやなぁ」と。

母から褒めらことなど滅多にないだけに恥ずかしかったが、
嬉しかった。

私はサークルを立ち上げた時から志は変わってない。
私は太極拳の技術だけを教えるだけの講師でもなければインストラクターでもトレーナーでもない。
なんといったら良いのかわからないが、
皆のことを家族のように思ってる。

喜び合ったり、
感動し合ったり、
時にはぶつかりあって辛いこともあるけど
一人一人のことをいつも真剣に考えている。

今まで稽古を一日も休みたくないと思っていたから
決して倒れないと自分の中で誓っていたが、
いざ、こうして、動けなくなった時、
皆が心配してくれ、励ましてくれたり
あらためて良い仲間達に出会え幸せだと思った。

私はまだ自由に動けなくとも
今回のことでたくさんパワーをもらえました。
ありがとう。

2017年9月11日月曜日

ありがとうございます

このブログを始めて4年と4ヶ月が経ちました。
丁度、サークルを立ち上げた月と同時期です。

いつも私のブログをご購読いただきありがとうございます。
お陰様で12万アクセスを超え、
ここ最近は1日平均120アクセスとなっています。

いつも拙い文章で申し訳なく思っていますが、
これだけの方がご購読いただいているということはやはり嬉しいです。

また、時折ご愛読いただいている方からのメッセージも嬉しく読ませて頂いております。

今回、たくさんある中から特に嬉しかったメッセージを紹介させていただきます。

「陰ながら応援しています。太極拳に関する書籍も買って読んだりもしましたが、soyokazeさんのブログが一番分かりやすく、効果てきめんでした。おかげさまで、自分の太極拳を見直すいいきっかけになりました。本当に感謝しています。」

今日、お見舞いメッセージを頂いた時にくださったメッセージですが、
とても励みになりました。

私はまだまだ武術家と言えるレベルではなく一愛好家に過ぎませんが、
本物の武術を求め毎日修行しています。
その修行の中で得られらこと感じたことをありのままに書き綴っています。
その中で私の考えや太極拳に対する取り組み、姿勢、感じたこと等、共感してくださる方が多くおられるというのは大変光栄なことです。

プロフィール欄でもお伝えしている通り、
「その時に感じたことを忘れないよう書き留めておきたい」
という、いわば私の修行メモのようなものです。

思うことを好きなように書かせて頂いて頂いていますが、
それだけに気分を害される方も多いのではと感じています。
しかし、周りに気を使い過ぎて本当のことを書けないならブログを書く意味はないとも思っています。

私と同じように真剣に武術修行をされている方に共感して頂けることは何よりも嬉しく励みになります。

これからも本物を求める修行と続けたいと思いますので
今後共おつきあい頂けると嬉しく思います。
いつも本当にありがとうございます。

2017年9月9日土曜日

歩きたい歩けない

昨日、個人レッスンの指導に向かうためにバイクを走らせた。

間もなく現地に到着というところで、
2台前に走っていたトラックが方向指示器を出さず徐行し始めたので
停車するのかと判断し、反対車線に対向車がないことを確認し追い越そうとした瞬間、
トラックは方向指示器を出さずいきなり右へ横断。

完全に通行を遮られる形になり、
私は衝突を避けるために咄嗟にブレーキ。
しかしホイールベースが長い割にタイヤの小さいビッグスクーター。
さほどスピードが出ていなくとも急ブレーキをかけるとすぐにタイヤがロックし横倒れになりスピンする。
私はバイクから放り出され、頭を含め全身を強く打った。

痛みのあまりにしばらくそこから動けなくなり、意識朦朧状態。
近くにいた人がすぐに警察と救急車を呼んでくれた。

そのまま救急車で最寄りの病院に運ばれる。
さっそく傷の手当と採血、そしてCTスキャン、レントゲン。
体の各部を強く打ち、傷による出血。
左大腿骨上部は血種によって大きく腫れていた。
検査結果は肋骨骨折と外傷性気胸とのこと。

いわゆる肋骨が折れてそれが肺に突き刺さり、
穴が開いたところから空気が漏れるといった症状である。
悪化すると空気がどんどん外に溜まり、
その空気が肺を圧迫し肺が潰れてしまうという恐ろしい病気。

体を動かそうとしたり、息をしようとすると胸に激痛が走る。
病院に運ばれてようやく軽傷ではなかったことに気付く。

いずれも不幸中の幸い。
もしあのままトラックに衝突していれば命はなかったかもしれない。
そう思えば傷は軽く済んだと思えた。

いずれも医師の指示により絶対安静と言うことで
このまま入院し明日また再検査とのことだった。
私は車椅子に乗せられ病室へと向かう。

病室に入ってしばらくすると二番弟子が心配して駆けつけてくれた。

入門したばかりの頃は「また厄介なのが入ってきたな」と思ったものだが、
彼の良いところは自分の悪いところをすぐに直そうとするところ。
今では熱心に修行に励み、私のことをとても慕ってくれ、いろいろと世話もしてくれる。

とにかく見舞いに来てくれたことがすごく嬉しかった。
事故は怪我だけでなく心の傷も残る。
しかし弟子の顔を見てずいぶん気持ちも和らいだ。

しばらくして弟子が帰り、ベッドに横たわるとまたもや胸に激痛。
しかも肺から空気が漏れるような音が聞こえる。
看護師さんにベッドをリクライニングのように上げてくれ、
半分座るような形で寝ることになった。

消灯時間過ぎても痛みでなかなか寝付けない。
ベッドの上で身動きとれない自分が情けなくて仕方なかった。
この時一番に思ったことは「歩きたい」だった。
このところ毎日、歩く鍛錬を行っていたので、体がそれを欲しがってならない。

おいしいものを食べたいとか、
どこかに行きたいとかではなく
自分の一番したいことが「歩く」ことだった。

とにかく今の願望は一日も体を早く治して、歩く鍛錬を行いたい。


それにしても最近トラブル続き。
サークル内での人間関係の縺れや退会者の続出。
一人二人ではなく何人も立て続けだと流石に滅入る。

何故、あれほど頑張っていた人達が太極拳を途中で辞め、
私や仲間達から去ってしまうのか?
一人一人の将来をとても楽しみにしていただけに、とにかく残念でならなかった。

そして、そのとどめを刺すかのように今回の人身事故。
踏んだり蹴ったりとはこのことを言うのだろう。

しかし、今回のことは良い兆候として私は考えている。

丁度20年前だろうか?
以前にも同じことがあったからだ。
今とは違い、その時はあるビジネスで頑張っていた時だったが
何人もの仲間に裏切られ、そのとどめが高速道路の交通事故。
死んでいてもおかしくなかったほどで、新聞でも取り上げられたほどの大事故だった。

上を目指すと必ず起きること。
それは様々な障害。
何もしなければ起きないこと。

しかし活発に動いているとあらゆるトラブルに巻き込まれる。
これは上に行くための修練であり、ここで挫折したら終わりと言うこと。
試されているわけだ。

その中でも交通事故は最高の代償と言われる。
自分が大きくなるためにはそれなりの代償を払わねばならない。
だから今回の交通事故は起きるべくして起きたと思っている。

私が死にかけたのはこれで3度目。
今は体のあちこちがまだ痛いが
これが治った頃には私は大きく変わっているように思う。

そして今したいこと。
武術修行。
どんな辛い修行でも死ぬことにくらべたらかすり傷。

今回のことで私は間違いなく目標に向かって確実に階段を上っていると確信した。

2017年9月8日金曜日

形のない心意拳

最近はひたすら歩く鍛錬中心に練習を行っているが、
昨日は約1時間以上歩き続けた。

歩くスピードにもよるだろうが30分で4㎞歩いた計算になるらしく
となると8㎞歩いたことになるのだろうか?

いずれも最後の方は重い足を引きずるような形での走圏になった。

型の練習よりも歩くことに重点を置いている。
歩けなければ型が安定しないとすぐに感じたからだ。

ということで、八卦連環掌も一通り覚え、
あとは5年、10年かけてじっくり練り込んで行こうと思う。

武者修行の前にもうひとつ、練習しておかねばならない。
心意拳。

ここ数年ずっと形意拳を行ってきたが、最近心意拳がやたら気持ちいい。
そしてこれなら一生できると思った。

心意拳の動きは極めてシンプル。
しかも太極拳のようにゆっくり動く。
いや太極拳よりもゆっくりかもしれない。

動きや形の問題ではなく、どう流すか?ということになる。
ひたすら同じ型を何度も何度も繰り返す。
しかし飽きることはない。

同じ心意拳でもそこから派生した流派で六合八法拳というのがある。
六合八法拳のまたの名を水拳と言うらしいが、
意を用いて氷、水、気体などに変化できることからそのように称されたらしい。

一方、その源流である心意拳のイメージは山だろうか。
地震によって断層に亀裂が入り山が動く。
そんな風に感じた。

一歩一歩呼吸に合わせゆっくりずっしりと歩く。
実に男らしくてカッコいい。

心意拳は陳式太極拳にも影響を与えたと伝えられているが
その歴史は古く、ある意味太極拳のルーツともいえるかもしれない。

ここ最近気づいたことは、
武術がつけ継がれていく度に内功と外功が入れ替わりながら伝わってきているように感じた。

内功中心で修行するものは外功を求め、
外功中心で修行するものは内功を求める。

ゆっくり動くと早く動きたくなり、
早く動くとゆっくり動くたくなる。
人間心理から考えるとそうなるのが自然ではないかと。

こんなふうに歴史を考察してみるのもおもしろい。

いずれも今は形のない世界が実に楽しい。

2017年9月6日水曜日

逆らわない受け入れる

私にとって推手はテクニック(技術)ではなく
メンタル(精神)が8割を占めると考える。

確かにテクニックでいなしたり崩したりも出来るだろう。
しかしその技術がどこまで通用するだろう?

今まで仲間との練習でいろいろ研究してきたが
私の場合、新しい方法を使って相手を崩すことができると、
私はすぐにそのテクニックを相手に教えるようにしている。

要するに手の内をすぐに明かすということ。
なぜならそのテクニックに依存したくないからだ。

テクニックだけにすがってしまうと、予期せぬ攻撃が来た時に対処できない。
無論またそのテクニックもあるのだろうが、
こうなると山のようにテクニックを覚えなくてはいけない。

暗記は私の大の苦手ジャンル。

私が使えるテクニックは数えるぐらいしかない。

聴勁化勁発勁
粘連随拈綿走
引進落空
四正四隅
長勁尺勁寸勁分勁零勁
明勁暗勁
大極十要
捨己従人

などと推手にまつわる用語だけでも数限りなくある。

しかしそれらを全部まとめると、ひとつの答えが出てくる。

その答えが、タイトルに書いたとおり
「逆らわない受け入れる」だ。

逆らわず受け入れることが
テクニックを超える最高のテクニックと私は考える。

推手の時間、いつもいつも口癖のように、
「逆らわない受け入れる」と言う。
しかし、少しでも押そうとするとほとんどの人が逆らおうとしてしまう。
そしてそれが表情にもしっかりと表れる。

無駄な力を抜くことが難しいように
逆らわず受けれいるといことも難しいようだ。

どちらも、いわゆる力を使わないという意味では同じ。
なぜか人間は本能的に力を使う方を選択してしまう。

無駄な力を抜き柔らかくなるということは、心を柔らかくしなければならない。
心が体を動かしているからだ。
心を柔らかくするとはやさしい心を持つこと。

今日、何度教えても逆らおうとする弟子に対し、
手を掴むことを禁じてみた。
さらに力を使って対抗しようとすることも禁じた。

さあ、なにが出来るか?

力を使えないのだから
受け入れるしかない。
その時に始めて、化勁の意味を感覚的に知ることになる。

弟子はどうやら感覚を掴んだようだ。
表情も全く違う。

今までは「崩されてなるものか!」としっかり顔に書いてあったが、
それがとても柔らかい表情に変わった。
実に楽しそうだった。

今まで様々なテクニックを教えてきたが、
それでもこちらが少しでも打ち方を変えると、
とたんに険しい顔になり力で対抗しようとする。

どんなにテクニックを覚えても
心が変わらなければ推手の上達は頭打ちになるということ。

推手は頭でやるものではない。
心でやるものなんだ。

2017年9月5日火曜日

ゆっくり動けないものは速くも動けない

私が太極拳を始めて間もない頃先輩から教わったこと。

今は他界され天国に召されたが
先輩が教えてくださったことは今でもずっと心に残っている。

速く動きたいと思うならゆっくり動くこと。

これは私がピアノやベースなどの楽器をやっていた頃に何度も経験したこと。
速くて難しいパッセージを弾こうとする時、速く弾こうとすると速く弾けない。
しかしゆっくり練習していると、同じ時間をかけてもゆっくりの方が圧倒的に速くすらすら指が動くようになる。
楽器をやっていた頃速く上達したい気持ちでどうしても速く弾こう速く弾こうとするのだが、どんどん指に力が入り、次第に肩がこりだす。
全くもって悪循環だった。

ということは?

一見ゆっくりで弱弱しささえ感じる太極拳はその速く動くための鍛錬であることがわかる。
むしろ速く動く練習をしている者よりも速く動けるようになる。

私はまだまだだが、他の太極拳の先生方の動きを見ていると、ゆっくりなのだが、信じられない程速い動きができることを何度か目にしてきた。
その動きはもう目では追えないほど。
手が何本にも見える。

また、緩み方を知らなければ力を出すことも出来ない。
私は普段から力まず緩むことを徹底指導しているが、
それは緩んだ方が大きな力を出せるようになるからだ。
逆を言えば小さな力で済むということ。

それでもまだ筋力に頼ろうとしている人もいる。
その気持ちもわからないでもない。
しかし、もっと速くもっと大きな力を身につけるためには、
今までの習慣を捨てなければならない。

完全に力を抜いてしまったら立てないではないか?
と言われそうだが、確かにそうだ。

ある日ある年配の会員さんに「力を抜いて」と言ったら、
いきなりくにゃあ~っとなってその場崩れそうになるほどよろめかれた。
まるでミニコントでもやってるような場面だったが、
力を抜くというのは無駄な力を抜くということであって、完全に力を抜くことではない。

このムダは省くことを脱力と言う。
どうか誤解のないよう。

そして無駄な力が抜けた時に、
最終的には体を支えるための最小限の筋力となる。

こうならないと入ってこないものがある。

気のパワーだ。
気のパワーはゆるんだ状態の体に入ってくる。
体の中にスキマを作ってやらねばならないといういこと。

頭もそう。
頭の中でごちゃごちゃいろんなことを考えていると、決して悟りは得られない。

悟りとは宇宙と繋がること。
習ってもいない知識が頭の中に入って来る。
大きな感動と共に恐れが消滅し喜びに満ちた状態になる。
会う人すべてを理解でき、すべての人を愛することができるようになる。
どんなに勉強しても決して得られないこと。修行あるのみ。

太極拳を10倍楽しもうと思ったら、
まずは無駄な力を省くこと。
この脱力を繰り返し最後に鬆開(しょうかい)という境地を目指す。

私はこのムダを省くため、今、ひたすら立ち、ひたすら歩いてる。
するとどんどん肩が軽くなり、体が軽くなり、
そして中から燃えるようなエネルギーが生み出されるのを感じる。

とはいうものの、まだまだ力んでしまうこともしばしば。
更に修行に励もう。

2017年9月3日日曜日

勁力の目覚め

今日は仲間と6時間に及んで練習した。

その時の会話だが、
人は太極拳の成長段階において、勁力を意識したり、
勁力が目覚めだすと
下手になったように感じる。
いや、実際下手になる。

実はこれはとても大事なこと。

試合を引退してからというもの解放感とともに
自分の中身が劇的に変化してきた。
見た目にはわからないと思うが、明らかにかわってきている。

筋肉を鍛えるための站椿功をやめ
低い架式で演武するのをやめ
ストレッチもやめた。

ただただ、水になり、風になろうとしている。

この過程の中で、一度下手になったような感覚を味わった。
いや、実際下手になった。

体を筋肉で支えようとすることをやめたからだ。

お陰で両足で立っていてもぐらぐらしたり
片足になろうものならぐら~っと倒れそうになる。

生徒からも
「先生、今日ぐらついておられましたが大丈夫ですか?」と言われる始末。

多分こうなるだろうなとは思っていたが案の定だった。

勁力を開発するにはちょっとした勇気がいると思う。
今までやってきたことを捨てて体の使い方を一から変えなくてはいけないから。

逆に今までのやり方にしがみついていると
勁力が目覚めることはないと思う。

すべてを完全にオフにした時
「さあ、どうする?」ということ。

こんにゃくを縦にして立てようとするようなもの。

そんな話をしながらも、
仲間と推手である実験をしてみた。

実験内容は師の許可を得ていないので秘密だが
推手で相手を崩す方法は力の出し方やタイミングだけではないということ。

意識を180度切り替えると、
力を使わず意のままに崩すことができる。

以前、推手交流会である先生が河原に生えている草をむしり取り
その細い茎の先端を私の手に当て力を加えてきた。
ここで驚いたのは、手には確実に力が伝わってくるのに
その茎がまったく折れなかったということ。

勁力というものがどういうものかを知るほんの一例だが、
この世界はとてつもなく深く、そしておもしろい。

それにこのチカラは心と身体をほぐしゆるめてくれる。
そして小さな力で大きな力を使うことができるようになり
武術に限らず生活や仕事にこのチカラを生かせるようになる。

当会ではこのような勁力を身につけるための練習を毎日行っている。

まとめとしては
大きな力を身につけるために、
下手になることを恐れないこと。