2017年8月30日水曜日

筋トレをやめれば太極拳は強くなる

太極拳を行うために筋トレを行う教室があるようだが、
私が教わってきた伝統太極拳で筋トレを行ったことは今まで一度もない。

そもそも何のための筋トレなのだろう?

套路を練ることそのものが筋トレであり、
套路のために筋トレを行うことは、筋トレのために筋トレをするようなもの。

腕立て伏せや腹筋、
バーベル上げ等。

その筋肉を一体何に使うのだろうか?

力では敵わない敵から身を守るために生まれた太極拳であるのに
筋力を鍛えることは全く真逆の鍛錬法である。

もしそれが、少林拳や査拳などの筋力で戦う外家拳であればわかる。

しかし太極拳では筋トレを行うべきではない。
筋力を鍛えれば筋力を頼ることになり、
逆に勁力を鍛えていくことができなくなるからだ。

私は簡化太極拳より伝統太極拳をすすめている。
理由は伝統太極拳には太極拳に必要な鍛錬すべてが含まれているからだ。

簡化太極拳は伝統楊式太極拳のダイジェスト版のようなものであり本編ではない。
だから現在簡化太極拳を練習されている方は、
そのルーツである伝統楊式太極拳を習得することをすすめる。
そうすることで初めて太極拳の本当の意義を知ることになる。

話を戻す。

結論として太極拳を始めるならば伝統太極拳を行うべき。
先程も述べたが、伝統太極拳には太極拳のすべてが詰まっているからである。

筋トレを行ってはならない。
筋力に頼る動きをして本物の太極拳には決してなり得ない。
コアを鍛えることもできない。

無駄に筋肉をつけると経絡を詰まらせ気の通りを阻害する。
それに過剰な筋トレは体内の活性酸素を増加させ老化を促進させる。
活性酸素は肌のハリ艶にも影響し、肌荒れやしわを増加させる原因になる。

長寿である仙人でムキムキの人をみたことがない。
私に伝統太極拳を教えてくださった先生方は
体格も小柄でやせ細っているのに想像を絶するパワーを持っておられる。
そのパワーは筋トレやストレッチで得られるものではない。

もう頭で考える太極拳をするのはよそう。

太極拳は理屈ではない。

じっくり時間をかけて伝統套路を通して行けば、
それによって得られるものを自然と知ることができる。

2017年8月29日火曜日

軸を鍛えると歳をとらない

現在当会ではほぼ毎日稽古を行っている。
これまで270人以上の方が当会の稽古に参加されたが、
その中で特に興味深く感じたことをひとつ。

これまで様々な職種や趣味をされている方が参加された。
中でも他流の武術家や格闘家、それにダンサー。

元々、体を動かすことに興味のある方達だから、太極拳に取り組む姿勢もとても熱心。
無論、これまであまり体を動かしたことのない方も一生懸命稽古に取り組んでおられる。

私が不思議に思ったのは、ダンサーであればずば抜けた平衡感覚を持っていると思っていた。
ところが太極拳を始めてみると、皆さんなかなか思うようにバランスがとれず苦労されている。
何故だろう?

これまで私が接してきたダンサーはジャズダンス、バレエ、ヒップホップ、ブレイクダンス、フラダンス、フィットネスダンス、創作ダンスなどなど。

特にバレエは片足で立つことが多いわけで並大抵の平衡感覚ではないと思う。
しかし太極拳では何故かうまくバランスがとれない。

これを独楽に例えてみよう。
回転の速い独楽は安定して長時間回ることができる。
まったくぶれない。
しかし、回転の勢いがなくなってきた独楽はぐらぐらと揺れだし間もなく倒れる。

自転車や単車も同じ。
走っていると自然と直立し、速度が遅くなるとバランスをとるのが難しくなり、足で支えなければ倒れてしまう。

いわゆるこれら、遠心力や推進力がバランスを助けているということ。

しかし太極拳では、回さない独楽を立てようとするようなもの。
走っていない自転車を立てようとするようなもの。
圧倒的に難しいのだ。

逆を言えば、だからこそ他のスポーツやダンスでは得ることができない軸を鍛えることができる。

この軸を鍛えると力を使わなくとも力を出せるようになる。
仕事や生活での作業が圧倒的に楽になる。
老化と共に頻繁に起きる転倒も起きにくくなる。
なぜ転倒してしまうかは筋力の衰えと共に体を支える力が弱まってしまうからだ。

太極拳で鍛える筋肉はまさにその軸を支えるコアマッスル。
しかもそのコアマッスルを最小限にしか使用しない。
太極拳で立つ原理は筋力だけではないからだ。

立つ時は、地球に働いている遠心力と引力を意識して立つ。
いわば天と地と繋がっているとイメージする。
意識するとその恩恵を得ることができる。

木や植物には筋肉がない。
しかし、まっすぐ立っている。

木や植物には根があるからだが、人間も大地に根を張ることができる。
イメージ力を使うわけだ。

脚を上げようとするとバランスがとれなくなり体が揺れ、そして倒れてしまう。
これに関しても脚を上げようとするからいけない。

太極拳は武術であり踊りではない。
脚を上げるのではなく蹴り技であることを思い出して欲しい。

上げると蹴るでは全く違う。
しかも太極拳の場合の蹴りは、力で蹴るのではない。
脚の筋肉をゆるめ、体全身を十分にゆるめ、そして、意を用いて脚を蹴り出す。

上げるのではなく広がるという感じだろうか。

いずれも太極拳で鍛えられるのは体を支えるためのコアになる筋肉と、
そして意を用いて勁力を使うようになれるということ。

どのようなジャンルの達人でも、その神技ともいえるような動きに力を使っているようには見えない。
力を使うのではなく力を使わない方法を知っているのだ。

筋力には限界があり、勁力には限界がない。
神技と言えるような領域に至るには、筋力に頼っていてはいけないということになる。

鍛えるのは筋力ではなく、イメージ力である。

2017年8月28日月曜日

回転には意味がある

当会では套路練習を行う前に必ず気功を行う。
気功は大きく分けて四つ。

払う、集める、練る、発する。

「払う」は邪気を払う。
一見ごく普通の体操のように見えるかもしれないけど
体を緩めているだけではなく邪気を払っている。
コップを空にしなければ新しい水は入れられない。
従ってコップにたまった汚い水(邪気)を払うことから始める。

「集める」はパワーを集める。
どこから?
それは天と地から。
マンガの世界のようだが、体を十分にゆるめ静かに立禅を行っていると
体内にパワーがどんどん入ってくるのがわかる。
太極拳はこの力を使う。

次に「練る」。
うどんも、そばも、パンでも練れば練る程強くなる。
氣も同じ。
練れば練る程強くなる。

最後のその氣を「発する」。
氣を発する時は力を使ってはいけない。
氣は力を使おうとすると弱まり、力を弱めようとすると強くなる。
筋力と勁力は反比例するのだ。

太極拳がおもしろいのは筋力ではなく勁力を使うところ。
腕相撲が強い人は太極拳の推手で勝てない。
力で押そうとしたり、スピードで倒そうとしたりしても、
スルリとかわされ、空を打つことになる。
これを化勁という。

さて、
今回話したかったのは、邪気を払うこととパワーを得ること。
当会ではまず抜筋骨から始める。
体をゆるゆるにし、邪気を払う。
邪気を払わなければパワーは得られない。

次にパワーを集め蓄える。
十分パワーが溜まると、自分の体がエネルギーに満ちた発光体のような感覚が得られる。
これが抜筋骨と立禅で得られること。

八卦掌で行う走圏も同じ。
左周りに歩くと邪気を払うことが出来る。
心の痛み、辛さ、ストレス、
体の痛み、倦怠感などを
左回りに歩くことで取り除くことができる。

逆に右回りに歩くと今度はパワーを集めることができる。
天と地のパワーだ。
ゆっくりぐるぐる回っているだけで、心が元気になり体が元気になる。
嘘だと思うならやってみよう。

八卦掌で回るのは相手をかく乱したり、後に回り込んだり、
攻撃を避けたり、不意打ち攻撃を加えたりするためだけではない。
八卦掌そのものが気功であるということ。

こんなふうに当会では、演武の美しさばかりを追求するのではなく
悪いものを払い、良いものを取り込むための行として太極拳を始めとする内家拳の練習を行っている。

これは太極拳愛好家に限ったことではなく
万人が望んでいることだと思う。

2017年8月25日金曜日

裸足で歩いてみる

最近はすっかり家練。
自宅で仕事することが多いから
仕事の合間にいつでも練習できるのがその最大のメリット。
しかも、仕事の合間に練習を入れることで更に仕事が捗る。

ずっとパソコンと向き合ってると
いつのまにかキーボードを叩く指に力が入り、
肩が凝り、
目が疲れ、
頭が痛くなってくる。

そもそもこれが辛くて始めた太極拳。

最近の練習は八卦掌の走圏がメインになってるが、
シューズを履くのをやめ、裸足で練習するようにした。

裸足のメリットは、気持ちがいいのもあるが、
それよりも大きなメリットは、足のどの部分に体重がのっているかわかること。

立禅の時は足裏全体に体重をかけるわけだが、
それがよくわかる。
シューズを履いていてもわかるが、もっとよくわかる。

それによく言われる平起平落(へいきへいらく)の意味もとてもよくわかる。

爪先から着地するとふくらはぎに無駄な力が入り、
踵から着地すると体幹や脳に衝撃が伝わる。

太極拳はゆっくり動くから踵から着地すればいいのだが、
形意拳や八卦掌の場合、踵から着地すると疲れやすい。
だから無意識に足裏全体で着地しようとするが、これがいい。

足裏全体で着地すればいくら歩いても疲れない。

それに、足の小指側の側面で立ってしまうという人がたまいいるが、
実は私もそう。
O脚だからだ。

だから意識していないと、ついつい足の側面で立ってしまう。

しかし裸足なら、これを意識しやすい。
床の感覚がダイレクトに伝わるから、おのずと足裏全体で着地しようとする。
O脚矯正にもよさそうだ。

ひとまず裸足でひたすら歩いてみよう。

2017年8月23日水曜日

捨てる

今のところに移り住んで7年が経った。

当時は様々な家具や照明を買いあさり自分の好きなインテリアに。
奈良での新生活、楽しかった。
毎日、手製のおいしい料理をつくり堪能した。

しかし良かったのはほんの半年程度。
今はひたすら物が増え、どの部屋も倉庫状態に。

生活意欲はもちろん、仕事の意欲も落ちてきた。

堪りかねようやく最近コツコツ片付け始めた。
お陰で練習場だったリビングはグンと広くなり、
ゆったりと円軌道を歩けるようになった。

あとは仕事部屋も片付けよう。
寝室も、書斎も、洗面所も、風呂も・・

捨てなければ片付かない。
片付けなければ新しいことに出会えない。
逆を言えば、捨てれば新しい自分に出会えるということ。

武術もたくさん捨てて来た。

簡化24式太極拳
42式総合太極拳
32式剣
42式綜合剣
功夫体操1、2
入門長拳
剣術
功夫扇
五歩拳
八極拳
通背拳
陳式太極拳
呉式太極拳
孫式太極拳
小林太祖長拳
形意剣

これら全部捨てた。

今後、形意棍も捨てる予定。

理由は、ひとつを極めるのに一生掛かるのに、
これら全部極めるのは無理だと判断したから。

それに、様々な武術を携わってみて、
結局最初に始めた楊式太極拳と双辺太極拳に立ち戻った。
これこそが自分が生涯かけてやりたい武術であり、
極めたい武術だと悟ったからだ。

それを教えて下さったのは我が師。
私の迷いを消し去ってくださった。
師匠の楊式太極拳は本当に素晴らしい。

因みに太極拳と言うと何をイメージするだろう?
やはり、あのゆったり柔らかい套路だろうか。

私は違う。
私の楊式太極拳のイメージは「風」

風を起こし、風を操れるようになりたい。
それが私が楊式太極拳を極めたい理由。

そういえば、昔アニメで赤胴鈴之助というのがあったが、
大好きだった。
最後に身につけた技は剣術ではなく風を起こし風を操ることだった。
子供の頃、風を起こせたらどんなにいいだろうと強く夢を抱いた。

そして今本気で風を起こすための修行を行っている。

二兎を追うものは一頭も得ず。
多芸は無芸。

套路コレクションはもう終わり。

私は風を起こせるようになりたい。

2017年8月22日火曜日

立つ練る歩く

太極拳を始めとする「氣」を用いる拳法を内家拳と呼ぶ。

内家拳は体格差のギャップを埋めてくれる素晴らしい拳法。

体が小さいから。
体力がないから。
弱虫だから。

全く関係ない。

私は太極拳によって心身共に丈夫になり病気もほとんどしなくなったが
中学生までの私は先程の3つ全部が当てはまった。

体はクラスで一番小さく、背の順も一番前だった。
だから背の順が嫌いだった。

体力もなかった。
幼いころから小児喘息を患い、疲れやすく激しい運動をすると動悸が激しくなり、
喘息が発症すれば息が出来なくなり、
酷い発作があまりにも辛く、そんな自分が哀れて泣いたこともよくあった。

弱虫でもあった。
喧嘩を売られればやり返すのだが、やっぱり怖い。
大人しく体が小さいというだけで、どの学年でも私をからかう者がいた。
殴る、蹴る、唾を吐かれる・・
そんなことがしょっちゅうだった。
だから暴力が大嫌いだった。

ある時、本屋でみつけた合気道の本のサブタイトルが「雲突く大男をひとひねり」
と書かれているのを見て、勇気をもらった。
その本を買い、自分なりに独習してみたが、うまくいかなかった。
でも、それでも良かった。
体が小さくとも大男に勝てる技があるのだということを知っただけでも勇気をもらえた。

それから約24年。
太極拳と出会った。
その時の今は亡き先輩の言葉は今でも忘れない。
「太極拳は50から力を出せるようになる」

今までの常識で考えるなら歳をとればとる程体力がなくなり、弱っていくはずなのに
50歳から強くなる太極拳とは一体?!
すごく興味を持ったことを覚えている。

また、ある先生は
「太極拳は歳をとればとるほど強くなり、棺桶に入る直前まで強い」と仰った。

そうか。
歳をとることを嘆かなくともいいんだ。
寧ろ歳をとることが楽しみになるとさえ感じた。

この言葉は今でも私の中に生き続け、そして今も自分の可能性をどこまで引き出せるか修行を楽しんでいる。

そのための鍛錬が、立つ練る歩くだ。

体格や体力のギャップを埋めるにはまず立つことが大事。
これを站椿功、或いは立禅という。

そして練る。
極限まで脱力しながら套路をゆっくり行う。
この方法でしか得られない力を身につけることができる。

次に歩く。
天地のパワーを感じながら円軌道を歩いてると、
どんどん自分の中にパワーが渦巻いてくる。

内家拳は本当に奥が深くおもしろい。
何をやっても飽きっぽい私だったが、これならば死ぬまで飽きることがない。

太極拳には引退という言葉はない。
やればやるほど強くなり、それが死ぬまで続く。

当時、体が小さく、病弱で弱虫だった自分が大嫌いだった。
しかし今はそれで良かったと。
こんな素晴らしい武術に出会えたのだから。

2017年8月21日月曜日

心頭滅却

「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉があるが
立禅ではとても必要なこと。

妄想や雑念、邪念を取り除き無になること。

今日、弟子に私の腕に鞭手を何発が打たせた。
弟子は普段から立禅を重点的に行っているだけのことはあり
勁力がまた上がっていた。

重い鞭手がバシバシと、
その衝撃を自分の腕で感じることが出来た。

しかし、私の腕は
痣も出来なければ、打撲も、内出血も、筋肉痛にもなってない。

長年気功を行っていると、気功の体がつくられてくる。
打たれても痛みを感じなくなり、怪我もしなくなる。
まるで目に見えない鎧を身につけているようだ。

そして、攻撃を受ける時は無になること。
「打たれたら痛いのではないだろうか?」
などと微塵にも考えたらそれなりの痛みを感じただろう。

「痛くない痛くない・・」とも考えない。

痛くないと言い聞かせていること自体痛みを恐れていることになる。
これ妄想なり。

何も考えない。
恐れない。
心頭滅却する。
すると火が涼しく感じるよう、攻撃もまた快感へと変わる。

2017年8月19日土曜日

バランスよく

推手がなかなか上達しないからといって、
推手ばかり練習すればいいというものではない。

ここでも陰陽説が出て来るのだが、
光があるから影ができる。
影の暗さがあるからこそ光の明るさを感じる。

推手も同じ。

推手だけ練習していても、推手に必要なことはなかなかわからない。
呆然と二人で手をぐるぐる回しているだけでは決して推手は上達しない。
粘連随綿の意味を理解しようとすること。

「粘」は相手の手から離れないよう粘りつき
「連」は途切れないように動くこと
「随」は相手の動きに合わせ
「綿」は綿のようにやわらかく相手に触れていること。

このどれかが欠けていても推手は上達しない。

まずは相手の中心を取ってみること。
失敗したら、それは自分の動きに何か間違いがあったということ。

因みに推手の攻撃は攻撃から始まるのではない。
推手の攻撃は無意識に行われ手を合わせた瞬間から始まっている。
具体的なことは奥義に属するのでここでは割愛する。

難しい話は抜きにして、
推手上達に必要なことは立禅や套路にそのエッセンスが全て含まれている。

立禅では何が何でも正しい姿勢で行う。
もし間違った姿勢で行っていたら全く意味がなくなる。
私が指導する通りに実践していただきたい。

套路に関しても正しい歩型や姿勢が安定した軸感覚を生み出し、
また、力みなく動けるようになれば見た目も非常に柔らかい演武になる。
これら全て推手に必要なこと。

では、気功と套路をやっていれば推手は上達するのか?
無論それでも上達するがもっと質をあげるために散手をしたほうがよい。
要はバランスよく練習することが大事ということ。

散手で学ぶことは基本、技の使い方と思われがちだが、
それだけではない。
もちろん技を覚えることも大事だが、その技でどれだけパワーを引き出せるかは
推手でいかに化勁が鍛錬できているかによる。

力任せの推手をやっていては、
散手も套路も気功も、プラスどころかマイナス効果になってしまう。

私は指導する際、重要なことは何度も繰り返し言うようにしている。
自然とそうなる。

しかし人間と言うのは繰り返し言われると、それが当たり前になり、
いずれ耳の中を素通りするようになってしまうから厄介だ。

一期一会ではないが、
一期一語と思って欲しい。

今一度、私がいつも繰り返し指導していることにしっかり耳を傾け
理解しようと努力して欲しい。

当たり前のことだが、私は上達することしか言わない。
そして、上達する人は、それを聞き逃さない。

少なくとも私はいつもアンテナを立て感度はいつもMAXにしている。
学びたい素直な気持ちがあれば、人はそれを与えてくれるものだ。

伸び悩んでいる人は、自分に依存していないだろうか?

何度も言ってきたことだが、
素直こそ最強である。

2017年8月18日金曜日

闘えない太極拳?!

某SNSのある投稿を見て私はショックを受けてしまった。

そのタイトルが
西洋格闘技に20秒で惨敗した中国伝統武術というもの。

西洋格闘技とはいわゆるボクシングスタイルの格闘家で、
中国伝統武術とは太極拳武術家。

結果は西洋格闘家の圧勝で、太極拳武術家はわずか20秒でTKO

格闘家は武術家に対し先制の左ジャブから始まり隙を見てすかさず右フック、
その後連続パンチを浴びせ、倒れた武術家の頭部を更に連打。
あまりにも呆気ない勝負で、見ていて胸が痛くなった。

武術家は頭部から出血したらしいが映像ではよく確認できなかった。
いずれも深刻なダメージを受けなくて良かった。

私がこの試合に対し思ったことは、西洋格闘技であればグローブを着用すべきだと。
素手で後頭部を連打すること自体下手をすれば命に関わる。
一方、太極拳武術家はグローブを着用することは出来ない。
掌を多用する太極拳ではグローブを着用してしまうと太極拳のほとんどの技が使えなくなってしまう。

というより、それ以前にこの試合そのものが無意味であると言いたい。

そもそも太極拳は格闘技ではない。
闘うための武術ではないと私は認識している。

内乱が多かった中国で武装した敵から自分の身や家族の身を守るために生まれた護身術である。
決して試合会場で闘うことを目的としてして生まれた武術ではなく、
自分の命を守るために、敵を戦闘不能状態まで追いやることが目的である。

それ故に狙うところは
眼球、コメカミ、後頭部、耳、喉、心臓、胃、肝臓、腎臓、膀胱、脇腹、金的、肘、膝等を攻撃し瞬時に敵を戦闘不能状態にする。

眼球への攻撃は視力を奪い、耳への攻撃は聴力を奪う。
喉には頸動脈や脊髄がある部位であり、ここを攻撃すると呼吸障害や脳の機能に障害を与え、失神だけでは済まない深刻なダメージを与える。

心臓への攻撃は心機能停止に至らせたり、胸骨陥没により心臓を破壊する。
他の内臓への攻撃は気を打ち込み内部破裂させるので、出血具合によっては死に至る。

関節への攻撃は肘や膝を折りこれもまた戦闘不能状態にする。
又、ある時は指先で点穴を付き、やはり敵を身動きできない状態にする。

太極拳は見た目柔らかく美しい舞踊のように見えるが、
綿の中に針を隠すと例えられる通りその技は残酷極まりない。
しかしそうでもしなければこちらが殺されてしまうのだ。

よって、太極拳はルールある格闘技の場で使える技は皆無に近い。
だから太極拳は決して闘ってはいけない。

前にもブログで取り上げたが、もし暴漢等に襲われそうになったら、逃げるが一番。
護身術を使うのは最後の手段であり、
太極拳の目的は危険をいち早く察知するための聴勁を鍛えることにある。

いずれも、私としては武術家は格闘家と試合をして欲しくない。
武術は強さを競うために生まれたのではなく
生死のかかった状況で自分の身を守るために生まれたものなのだから。

2017年8月15日火曜日

放鬆の意味を考える

放鬆(ほうしょう)とはなんだろう?

私はこれまで体を極限までゆるめ気を沈めることだと思っていた。
無論間違いではない。

いずれも、単に脱力だけを示すことでないことは確か。

ひとつひとつの漢字を調べてみると・・

「放」は「はなつ」という意味で
「鬆」は「隙間や空洞」を意味する。

つまり
体をゆるめることで気の通り道を開き、
そこへ気を流し気を放つことができる状態なるというのが私の解釈。

放鬆の状態からは大きな出すことができるし、
なにより、この状態であればどれだけ動いても全く疲れない。
心拍数が上がったり、息切れを起こすこともない。

それに、気血の巡りが良くなるので、体温が上がる。
つまり外部からではなく自ら体を温めることが出来、
これにより免疫細胞を活性化させることが出来るので病気しない元気な体をつくっていくことができる。

こう考えると放鬆は力を抜くことだけが目的ではないことがわかる。

力を抜くのは気の通り道を開くためであり、あくまでもプロセス。

あとは意によって気をコントロールする。

それは、
綿のように柔らかくなることも
鉄のように硬くすることも
羽のように軽くすることも
石のように重くすることも
あるいは電気や光のように発射することも出来るようになる。

特に最後の「発射すること」に関しては信じられない人も多いだろうが
私は何度もそれを受けその威力を実感している。

放鬆は単に力を抜くことだけでもなければ
気を沈めるだけのものでもない。

この目的は気の通りを良くするためであるということ。

機会あれば、この気をどこにアクセスさせ、どのように流していくか
私の経験を元にお話したいと思う。

まずは開くために体を十分ゆるめることから始めよう。

2017年8月12日土曜日

気を奪うということ

自分はどうしたいか?と考えるようにしましょう。
逆に他人にどうすべきかということは言うべきではありません。

前者は夢、願望であり、
後者は単なるお節介です。
人を尊重し、いつまでも夢や願望、希望を追いかける自分であって欲しいと思います。

他人のことを話す時、あなたは相手を尊重する気持ちがありますか?
もしかしたら自分の存在を認めさせるため自分の考えを相手に押し付けようとしていませんか?
又は人の一面だけを見て相手を判断していませんか?

それは大きな間違いです。
人間はそんなに単純な生き物ではありません。

私は幼い頃から体力がなく、今では目も耳も感覚が鈍く不自由を感じることも多いですが、
その分相手の気を感じる力が少し長けているように感じています。
気は目に見えるものではなく体(上丹田、中丹田、下丹田)で感じるものです。

人と人とは常に気の交流を行っています。
人から気を奪おうとしないよう。

先程も言ったように、自分の存在を認めさせようとする行いは相手から気を奪おうとすることになります。
その証拠にそれが成功すると気を奪った方は力を得たように感じ、
逆に相手は力を失ったように感じます。

私たちが何故気功を行い太極拳を行うのか?
それは他人から気を奪うためではありません。

無限のエネルギーである自然、宇宙から気を取り込み、そしてそれを与える側にならなければなりません。
与えるというのは人に干渉することではありません。
相手を思いやる気持ちこそが与えるの意味です。

自分の行いをその都度振り返ってみましょう。
その行いには愛がありますか?
もしかして自分のためではありませんか?

気功と太極拳によってまず自分自身が強くなりましょう。
そしてそれを与えられる人になって欲しいと思います。

2017年8月8日火曜日

煩悩

気功と太極拳を通じ
煩悩に支配されている自分に気付いて欲しいと思う。

煩悩に囚われていると心が濁り、
血が汚れ、
体に毒が溜まりやすくなり、
病気しやすくなる。

欲望に勝てないから
煙草も酒も辞められない。

肌は荒れ、
ハリを失い、
透明感が失われ黒ずんでくる。

体内のフリーラジカルが増え、
ホモシステインが増え、
DNAが破壊され、
老化、癌化を促進させる。

今はもう、人間の老化メカニズムが解明されているわけで、
これからは老化を遅らせ
人生をもっと楽しむ時代に入っている。

今では信じられないことだが、
体を粗末にしたり、
命を粗末にしたりすることが流行った時代があった。
薬物乱用や自殺ブームだ。

公害によって水と空気が汚染され、
その環境に慣れてくると
人間はいつしか毒を欲するようになる。
毒はまた毒を求め次第にそのスパイラルに嵌って行く。


今一度思い起こしてみて欲しい。
なぜ太極拳を始めたのか?

太極拳はもちろん
特に気功には浄化作用がある。
濁った心が透明になって行き、
そのことで血もきれいになり、
体もきれいになっていく。

きれいになるということは健康になるということ。
美は健康の上に成り立つものだから。


私としては太極拳を始めたのであれば、
透き通るような心と身体を求めようとして欲しいと思う。

少なくとも私はそれを目指している。

2017年8月5日土曜日

空気に溶け込む太極拳

大会を引退してから2週間とちょっと。
徐々に自分の中に変化が起きてきている。

特に今夜の楊式太極拳クラスでの全套路は最高に気持ち良かった。

「見せる」という意識から解放されると
太極拳はこれほどにも変わるものか?

動けば動くほど肩が軽くなり、
腕が軽くなり、
体が軽くなり、
そして自分の体が空気の中に溶け込んで行く。

まるで気の中をゆったりと泳ぐマンタのように。

昨日、数年間表演武術を習っていたある会員さんが、
套路の中で変わった動きをするから
それはなにかと尋ねたところ、
前の先生にこうするときれいに見えると習ったという。

その動きは武術的な意味を持たず、
勁力を下げ、
技としても使えない動きだった。
私はすぐに直すよう指導した。

美しくみせようとする心に放鬆はない。
持論だが、少なくとも私はそう。

太極拳の楽しみ方は人の分だけあっても良いと思う。
他人のことをとやかく言うつもりは全くない。

しかし、一度でもいいから放鬆の世界を味わって欲しいと思う。
もしその体験ができれば、
今まで広いと思っていた世界が途端に狭く感じ、そのことにショックを受けるだろう。
伝統太極拳の世界は宇宙のように広い。

その宇宙を意のまま自由に泳ぐことが出来るのが伝統楊式太極拳。

もし太極拳の流派に迷ったら、
一番に伝統楊式太極拳を選ぶことを強くすすめる。
規定套路の楊式太極拳ではなく伝統楊式太極拳。
同じ楊式太極拳でも全く違う。

美しく演じようという気持ちを捨てよう。
そうではなく、中から動くことが出来たら、
それがすでに美しいのだ。

楊式太極拳の創始者は無敵だったことから楊無敵と呼ばれていたという。
そして今、伝統楊式太極拳の医学的研究が急速に進んでおり、様々な難病を克服するという研究データが増えつつある。

絶対やって損はなし。
いつでも当会を訪れてみて欲しい。

2017年8月4日金曜日

封印

先日のカルチャーで、参加された方に尋ねられた。

「本当に氣で人を飛ばすことができるんですか?」と。

私は即座に「出来ます」と答えた。

実際は氣で飛ばすというより
気の流れを意識し脱力した状態で打つという感じだろうか。

逆を言えば
脱力することにより氣が流れやすい状態をつくり、
そこにターゲットである部分に意識を送る。
するとそこに氣が流れる。
あとは、それに従うという感じになる。

話の流れからしてそれをやって欲しいという空気になったが
それは避けたかったので今は封印していると伝えた。

体験に来られた方をいきなり吹っ飛ばすことなどできるはずがないし、
武術や武道の心得のない方を飛ばしたりして怪我でもされたら大変。

ある時から自分の勁力が急激に上がったことを自覚した時があり、
その日から散手もミット打ちも自制するようになった。

氣の力は自分の想像の外にあるので、
無意識に相手に大きな衝撃を与えてしまう。

氣の力が大きいことも怖いのだが、
それが無意識の状態で起きるということが怖いのだ。

勁力を増大させるには、力みを抜き脱力することが大切と教えている。
それに「打とうとしないこと」とも教えている。

打とうとすること自体今までの習慣で打ってしまうからだ。
今までの習慣=筋力
ということになる。

逆に大きくなった気の力を抑えるには、無ではなく意識しなくてはならず
又、力を弱めるために筋力を使ってブレーキをかけなければならない。

全くもって逆なのである。

いずれも今は封印している。
皆の健康を願って始めた気功と太極拳。
決して怪我人だけは出したくない。

氣の世界に興味を持ってもらうには、
デモンストレーションとしてその力を見せることも必要だとはわかっているのだが、
今はとにかく封印。

やって欲しいと言われても今はやらないと決めている。