2017年4月1日土曜日

黙念師容 

黙念師容(もくねんしよう)
中国語読みすると、ムーニィェンシーロン

意味は、先生の動きをしっかり見て脳裏に焼き付けておくこと。

私が太極拳を始めたばかりの頃、一番意識したことだ。
その頃は黙念師容という言葉も知らなかったが。

ただただ私は師匠のように動けるようになりたかった一心で、
師の動きを観察しまくった。
休憩中も師匠の動きを観察した。
お陰で、演武だけではなく師匠の癖まで似てきてしまった。
無論それも嬉しいこと。

自慢ではないが、師匠の動きが変わるとそれをいち早く察知したのは他の誰でもなく私だったと思う。

私は師匠を真似たというより、
師匠を自分と思い込みイメージして一緒に動いていた。

そして今も師匠に稽古をつけて頂く時、
稽古の初めから終わりまでひたすら師匠の動きを観察する。

一度の稽古で、太極拳、心意拳、八卦掌、武器術、推手、散手、対打、暗勁練習等・・
あまりにも稽古内容が多く、正直付いていけないし、頭にも入りきらない。
だが、最後まで見ることを止めることはしない。
とにかく必死で師匠の動きを頭に焼き付けようとする。

そして、家に帰ってから師匠の動きを思い出しながら真似てみようとする。
これが割と出来てしまうのだ。

これは決して私の見る力や覚える力が長けているからではない。
幼いころから暗記は大の苦手だ。
ただ、見ようとする力が長けているだけ。
これは能力ではなく努力だと思う。

ほとんどの人がある程度動きを覚えると先生の動きを見なくなる。
自分は出来ていると錯覚してしまうのだ。
ここからが我流街道の始まり。

武術の道からどんどん外れていくことになり、
ちょっとしたズレでも時間の経過と共にそのズレはどんどん大きくなる。

自分で套路の練習だけをしていると余計に危険。
套路だけではズレていることに気付けないから。
そのために稽古という場が提供されている。

推手をして、姿勢の悪さや力みに気づき、
散手をして、技が掛からないということに気付く。
技の使い方ではなく、その技が本当に生きるかどうかということ。

だから、私はこれからも黙念師容を続けて行こうと思っているし
師匠に自分の演武を評価してもらおうなどとも思わない。
(というより見てももらえないのだが・・)

ただただ師匠についていくのみ。