2017年2月28日火曜日

当会が目指す表演

表演とはどういうものだろう?

美しい演武をするのが表演?
それともカッコいい演武をするのが表演?
あるいは派手な動きで人を驚かせるのが表演?

どれも素晴らしいし、
どれも表演だと思う。

しかし当会が目指す表演はちょっと違う。

言葉で言い表すのは難しいが、本当に純粋な演武。
ありのままの演武。
太極拳が太極拳であるがままの演武。

どういうことかと言うと、演じるのではないということ。
演じるというのはある意味嘘の世界。

私は音楽をやっていた関係で周りに芸術家は多い。
そして皆が口を揃えて言うことは芸術は虚偽の世界だと。
確かに絵の世界も映画の世界も現実ではない。

最近の映像技術は本当に素晴らしい。
技術の進歩のお陰で美しい映像を高画質で見ることができる。
CGの技術も素晴らしい。

しかし、どんなに美しくとも、それはあくまでもつくられたものであって本物ではない。
単に綺麗な映像を見て涙が出るだろうか?
しかし美しい夕日を見るととても感動する。

当会が目指したい表演このようなもの。

私は決して技術的なことをあまり細かく指導しない。
どちらかといえばメンタル的なことを話すことが多い。
どんなに発表会の時期が迫っていようとも、苛立った空気は決して出さない。
常に常に柔らかい空気をと考えている。

先ほども話したように
太極拳が太極拳であるがままの演武を目指したいから。

今回で3度目の発表会になるが、これまで行った発表会も大変素晴らしかった。
何故あれほど感動できたのだろう?

それはわからないが、
決して美しさを目指した結果ではない。
チーム全体が一丸となり、心がひとつになった結果だと思う。

2017年2月23日木曜日

生死の境で神力が得られる

当会で行っている気功、太極拳、形意拳はあくまでも伝統に拘っています。

勝手に編集したり、套路を組みなおしたり、
そういったことは一切しません。
発表会での演武は時間の制約があるので止む無く時間内に収めるよう編集はしますが。

いろんな考え方があるでしょう。
古いものより新しいもののほうがいい。
新しいものより古いもののほうがいい。

少なくとも私は後者です。

理由は時代が違うからです。
もちろん今の時代にあった武術を愛好家として楽しむのもいいでしょう。
表演も決して嫌いではありません。
人に感動を与えることができます。

しかし本来武術は人に見せるために生まれたのではありません。
戦の多かった時代、自分の命を守るため、家族を守るために作り上げられたものです。

人は命が掛かっていると鬼才を発揮します。
神力が得られます。
人間の脳を遥かに超える力と知恵を得ることができます。

逆をいえば今の平和な時代では決して生まれないものだったということになります。

歴史博物館ではないが、当時武術はこうだったと、
次の世代に伝えていくために、武術をあらゆる形で表現するのは大いにありだと思います。

しかし、本物の武術としては伝統武術を超えることは決して出来ないでしょう。
聖書を超える聖書を一から作れないのと同様に。

武術は神力によって生まれたものだと、
少なくとも私はそう思っています。

遅いは早い 止まるも早い

太極拳が最も早く上達する方法。

それは
ゆっくり練習すること。

そもそも套路とは鍛錬のために編み出された〝練習方法”
太極拳はゆっくり動くことで、
普段鍛えることの難しい遅筋を鍛え、
軸を鍛え、
丹田を鍛える。

脱力しながら動くことで体全身に気が巡り、気の体をつくりあげていく。

気は実に不思議な物体。

軽くもなれば重くもなり、
柔らかくもなれば硬くもなる。
意によって変幻自在な世にも不思議な物質。

ゆっくりであればゆっくりなほど、これらを作り上げていくことができる。

因みに、更にゆっくりにしていくと?
最終的には止まることになる。

これが站椿功。

逆を言えば套路は站椿功の連続動作。

この意味がわかれば、すべきことが見えてくるはず。

2017年2月21日火曜日

ビデオ学習について

当会では新しく習ったことを思い出す手掛かりとして
套路をいくつかに分けて動画を配信しています。

そして「動画はあくまでも復習用として使ってください」とその都度付け加えています。
逆を言えば予習には使わないでくださいということになります。

本当のことを言うとあまりビデオに頼って欲しくないという気持ちもあります。
なぜなら稽古中「あとでビデオを見ればいいや」という甘えが生じてしまうからです。

稽古に集中しなくなり、その場でしか感じることのできない肝心なことを見落としてしまうことになります。

武術はビデオからは学べません。
だからこそ私も教えながら師から学び続けています。
そして師から注意を受けることは決まってビデオでは学べないことです。

形は意から生まれ、意は形を作り出します。
形だけを見て意を学ぶことはできません。

むしろビデオは2次元。
2次元は現実ではありません。
現実でないものから現実を学ぶことはできません。

3D映画にしても所詮は2次元を重ねたもの。
横から覗いても横は見えません。

いずれもビデオを見る時
2次元で読み取れない部分を自分の頭の中で3次元に変換しようとするわけですが
そこに〝思い込み”が生じます。
その思い込みによって悪い癖を身につけてしまい
武術の功夫を高めていくどころか、体に支障をきたすことすらあります。

ビデオ学習して体調を崩したり怪我をする人は想像以上に多いです。

今やYouTubeなどで多くの情報を得ることが出来、便利な時代になりましたが
それで学ぼうとすることは危険です。
娯楽としてや参考程度に見るのであれば良いと思うが、真似事で武術を学ぼうとすることはおすすめできません。

師から学べることは3次元ではなく4次元。
形だけではない〝なにか”を感じ、
それを学ぶことができるのは直接師から学ぶ以外にありません。

偉そうに語ってしまいましたが
全て自分の経験や失敗から学んだことです。

2017年2月19日日曜日

1+1=?

小学校で初めて習う算数。
1+1

当然答えは2。
が、それはただ覚えてるだけの数字が出てきているだけで
この問題を出された時に頭の中で本当に計算した人がどれだけいるだろう?

だから答えは1+1=2ではなく、1+1=1+1なのだ。

今や計算は電卓やスマホで簡単に計算できる。
だから、なぜそうなるかと考えてもみない。
私は電卓が出回ってきた時代に便利だなと思ったと同時に不安も感じた。

インターネットもそうだった。
便利と引き換えにコミュニケーションや礼儀を知る機会を失い、
犯罪に利用する人も出て来ると。
結果は予想どおりになった。

私はインターネットを最大限に利用しているが、
その反面いつでもこの世から消えてなくなってもいいとも思っている。

そうすることで、人に道を尋ね、そのことで人のやさしさに触れたり、
手紙を書くことで心が通じあったり、
待合せの時間を間違えたりして、何時間もその場で待ったり。
その時に遅れた人は謝り、謝られた方は相手が素直な人であると知ることが出来る。
人と人が触れ合うことで人と人との絆が強くなる。
そういう古き良き時代が帰ってくる。

話は戻るが、武術の世界でも1+1=2だと覚え込んでしまい。
逆に2が1+1で構成されていると知らない人が増えているように感じる。

私がサークルを立ち上げた時、毎回最初の15分は座学を行っていた。
ホワイトボードをつかっていろいろと説明した。
その時毎回説明したことは、太極拳とは中国武術に気功(導引術)の要素を加えたものだと。
いわゆる武術+禅が太極拳なのだ。

しかしどうだろう?
今の武術は禅の要素が省かれ健康体操やスポーツ、あるいは舞踊と化している。

そもそもなぜ太極拳を始めたのだろう?

私が太極拳を始めたのは確かに健康づくりだが、
私が一番知りたかったのは「なぜその時に太極拳を選んだか?」だ。
別にその時でなくても良かったはずだ。
10年後でも20年後でもよかったはずだ。
しかしなぜあのタイミングだったのだということ。
しかもなぜ数ある選択肢から太極拳を選んだのかということ。

この答えを見つけ出すことこそが人生であり
自分が生まれてきた意味だと思う。

太極拳をどのように楽しもうがそれは自由。
しかし、私はあえて伝統太極拳を推進していきたい。

インターネットによるスマホやパソコン、あまりにも便利なものが増えすぎて
人生とは?と考えることなどなくなってしまうのではなかろうか?

そうなって欲しくない。
なぜこの時代に生まれてきて、
なぜ自分が自分として生まれてきて、
なぜ今これを行って、
そして、どこに行こうとしているのか?

生きている間にその答えを見つけることこそが人生の目的だと私は思う。

意味なくして生命は生まれない。
意味があって生まれてきている。
偶然ではない。
宇宙に法則に従って、生まれてきた。

当会が稽古の時に気功と太極拳を分けて行う理由はそれ。
立禅である気功と、動禅である太極拳を行うことで、太極拳が誕生した意味を知ることになる。
本や誰かから得た知識ではなく。

私が感じるのは人類愛。
これ以上話し出すと止まらなくなるので今回はこの辺でやめておく。

ひとつ言えることは
太極拳は相手にとって憎しみをもった自分が映し出される鏡になるということ。

弟子とは

私には今二人の弟子がいる。
ふたりとも自分から弟子にして欲しいと志願してきた。

弟子だからと言って特別扱いはしない。
むしろ弟子だからこそ厳しく接している。
「泣くな」「落ち込むな」「痛がるな」「諦めるな」「自分を信じろ」
いつでも腹を割って話すようにしている。

最初、私に申出てきたとき、
「私なんかで良いのか?」
という気持ちが強かった。

まだまだ修行中の身だし、学ばねばならないことだって山ほどある。
教えられることだってほとんどないし、
世の中には有能で素晴らしい師が大勢おられるのに何故私などに?と。

しかし、二人とも私のことをこう言ってくれる。

表現こそ違うが、
私の武術に対する姿勢や、努力し続けるところに惹かれたと言ってくれる。
又は、自分がずっと追い求めていたものを持っている人が私だとも言ってくれた。
運命的な出会いとも言ってくれた。

その言葉に嘘はない。
目が違う。

今の私はまだまだ未熟そのものだが、
こんなことまで言ってもらえて、断ることなどできるはずがない。
ただただ、弟子たちの期待に応えられる師になれるよう努力しようと。

弟子達は常に私の考えに同調してくれ、
困っている時は協力してくれ、
足りないところを補ってくれ、
そして、些細なことでもお礼の言葉を欠かさないし、
叱ればすぐさま心から謝ってくる。
そして、私の最期を看取ってくれるとも。

私ごときがまだ弟子をとる身分ではないが、
あえて言うなら、
私が選ぶ弟子とは武術の実力云々ではなく、やはり人間性。

どんな時でも私の考えに付いて来てくれる。
これほど心の支えになるものがあろうか。

私はこれまでのブログに何度か書いてきたが、
お礼と謝罪が出来ない人、言い訳をする人とはお付き合いしたくない。
こういう人は頑固で石頭で自分を変えようとしない。
自分を変えようとしない人が武術の腕をあげられるわけがない。

言い訳にやたら時間をかける人がおられるが一体なんのメリットがあろうか?

逆に言えば、私はお礼とお詫びが出来る人、
努力する人を大いに好む。
頑張る人が好きなのだ。

逆に、自分を認めてもらおうと小細工をしてきたり、
裏から手を回してきたり、
自分が人より優れているところをやたら誇張してみたり、
そういう行いはすぐに見破ってしまうし、
このような人は出来る限り避けたい。

心が澄んでいれば汚いものをすぐに感じとってしまう。
これも気功の効果だと思う。

私は必ず人を選ぶ。
来るもの拒まずではない。
来るものを徹底的に選んでいる。

選ぶことは私にとって一番大事な仕事。
もし少しでも選択を誤れば自分の人生を転落させてしまうことになるだろうし
道連れになる者も出るだろう。

大袈裟と言われるかもしれないが、
選択することは私にとってそれほど大事なこと。
決して私は安易に人を選んではいない。

父が最も大事なことは「選ぶこと」と教えてくれた。
そして私もまた半世紀以上あらゆる経験を積んできてそのことが一番大事だと知った。

2017年2月16日木曜日

見せる武術と見せない武術

見せる武術と見せない武術がある。

私は今見せない武術を重視している。
というより、はっきり言ってしまえば今はそれしか興味がない。

これが14年間修行を行ってきて行きついた答え。

見せる武術とは、人に見せて評価を得ようとするもの。
そのため派手な動きが多く、様々な技を駆使し、見るものを圧倒させようとする。

それを行うためには大きな身体能力が求められ
筋トレやストレッチで徹底的に体をつくりあげていく。
そして中には体を壊してしまう者もいるのも事実。

ここで疑問。
武術に怪我はつきものなんだろうか?

私の考えはこう。
本当の武術は怪我しない体をつくっていくことが目的で、
例え怪我をしても自分の力だけで治していく力を身につけるもの。

以前、車のドアに指を挟んでしまい、内出血で指を真紫にしてしまったことがある。
しかし1時間後には紫がピンクになり、2時間後には肌色に戻った。
私はこれが武術だと思っている。

因みに見せない武術とは、人に見られる見られないとうことではなく
自分の動きを読まれてはいけないということ。
本当の武術では動きを読まれること=死を意味している。

キャッキャ飛び回ってる猿と、じっとしている虎とどちらが怖いだろう?
私なら動かない虎には近づきたくない。

子供の頃、飼い犬に噛まれたことがある。
まったく何の前触れもなかった。
大人しくしていると思ったら、いきなり牙をむき出し猛烈に吠えたて顔を噛みつかれた。
あれ以来私は飼い犬であろうと犬が怖い。(そのようなそぶりは見せないが)

見せる武術と見せない武術の違いは、無論、内向重視の鍛錬を行っているかどうかということになるかと思うが、それよりも明らかに違うのは止まる動作。

見せる武術は定式で止まる。
見せない武術は過渡式で止まる。

※定式とは技を決めた瞬間で、過渡式とは定式と定式の間の動作

本当の闘いの場において、定式で止まるなどしたら、それは相手に自分の命を預けるようなもの。
定式とは攻撃した瞬間であり、太極拳などの内家拳では、その状態が一番不利であると教わる。
攻撃するということは相手に手や足を差し出すことであり、内家拳にとってはこれほどありがたいことはない。

先ほど見せない武術では過渡式で止まると言ったが、実際は止まるのではなく溜める。
発勁する前の溜める動作。
たっぷり充電してから、気を発射する。

だから私の太極拳や形意拳は見せる武術の動きとは真逆になっているはず。
定式で止まることはほとんどない。
師匠の動きがまさにそれで過渡式が非常に長い。

武術といってもその楽しみ方は千差万別。
いろんな武術があっていいと思う。

しかし、自ら怪我をしてしまうような武術はどうだろう?
私のような若輩者が口を出すことではないが、それは間違っているといことに気付いて欲しいと思う。(健康志向の強い私として)

やればやるほど健やかに丈夫な体になるのが武術だと、
私はそう思う。

2017年2月15日水曜日

褒められない!

私が約2年間制定拳を習っていた時、
その先生は一度も私を褒めてくださったことはなかった。

正確に言えば一度だけ褒めて頂いたことがあった。
「脚上がるようになったね」
それ一言きりだった。

当時は褒められたい一心で、来る日も来る日も我武者羅に練習した。
本当に狂ったように練習した。

そして、出来なかったことを出来るようにし、それを先生に見せるのだが
何も言ってもらえなかった。
そして2年目にきて遂に私はやる気を失ってしまった。

しかし、その時に得られたものは非常に多い。
あの頃の自分があるからこそ今の自分がある。

今思えば先生には私の性格を見抜かれていたのだと思う。
私の欠点は褒められると調子に乗ってしまうことだから。

後で聞いた話だが、
私のいないところで先生は私のことを頻繁に話題に出し、褒めてくださっていたのだそう。
出来ないことを次にはきちんと出来るように練習してくると。

そして今教える立場になって、ようやくその気持ちがわかった。

意欲的な人、出来る人にはついつい期待してしまう。
だから褒めている暇がないのだ。

まだ行ける。まだ行ける。
という気持ちがあるからどんどん課題を与える。

だから、私はこう思う。
無言こそ最高の誉め言葉だと。

課題を与えられるということは期待されているということ。
それだけ買ってくれてるということ。

因みに私は嘘はつけないタイプ。
出来ていれば出来ていると言うし、
出来ていなければうーんと唸ることになる。

因みに唸るのはどうすれば出来るようになるか考えているから。
この時私の頭の中は大忙しになっている。
単に言って聞かせるのではなく、私がどうアプローチすれば理解が深まるか。
それを考えている。

相手を変えたければ自分が変わること。
これは数多くの失敗から学んだこと。

常につねに良い指導をと思う。

2017年2月5日日曜日

このような人は伸びません

お礼を言わない人
謝らない人

このような人は伸びません。

人の立場に立って物事を考えられない人は自己中心的な人です。
自己中心的な人は自分が変わろうとせずに人を変えようとします。
自分が変わろうとしないということは伸びないということです。

これまで数多くの方と接してきましたが、
お礼を言わない人、謝らない人で
人並み以上に上達をする人をひとりも見たことがありません。

人を傷つけたり不快な思いをさせても平気な人は武術をやる資格ありません。

だから当会では会則にそのことを設けています。

人として生まれてきたのなら人を大切にするのは当たり前。
人は支えあって生きているのだから。

もしなかなか上達せずに悩んでおられるのであれば、その原因はあなた自身にあります。

あなたは素直ですか?
人の立場にたって物事を考えられる人ですか?
武術と礼儀は関係ないことだと思っていませんか?

実は一番大事なことであり、礼儀は相手のためだけでなく自分のためでもあるのです。


善い行いは人に喜びを与え、やがて自分にも返ってきます。
悪い行いは人に悲しみを与え、やがて自分にも返ってきます。

太極拳を通して身体と心を同時に磨いて欲しいと願います。