2017年5月20日土曜日

知ってるつもり

このような諺がある。

〝聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”

私が思ったことは何故こんな諺があるか?ということ。
私はわからないことがあればその場で聞くし、
これこそが人間同士の一番楽しい部分であると思っているから。

今は講師という立場だが、それでも私の姿勢は変わらない。
解らないことは解らないと言うし、生徒に尋ねることすらある。

知らないのに知っているふりをしていて損をするのは
知らずに恥をかくことだけではない。
人との楽しいコミュニケーションが出来ないことを損する。
そして人間関係に溝をつくる。

推手に置き換えると、聴勁という。
聴こうとしなければ聴こえない。
知っているつもりで推手していると相手に崩されると言うこと。

推手はこの諺を具体的に証明する実験のようにも思える。

2017年5月16日火曜日

単純なもの程奥が深い

先程、早朝練習してきた。
ガラ空きの駐車場で、五行棍を練る。
生きてるなぁ!と感じる。

何十回、何百回と同じ動作を繰り返す。
これがたまらなく楽しい。

そういう私は元ベーシスト。
ファンクベースが好きだった。

ファンクとは、いわゆるダンスミュージックだが、
踊りやすくするためにずっと同じリフを弾き続ける。
ずっと同じリフを繰り返しているのに全く飽きない。
むしろどんどん楽しくなる。

同じフレーズを弾き続けるので頭を使うことはない。
頭は空っぽ。
どこを使って弾くか?

丹田。

ベースってもんは頭で弾くんではなく
心で弾くんでもなく
腹で弾く。

そうするとどんなベースよりも、ものすごいパワーを生み出す。

私の武術に共通している。
緻密な套路を覚えるのは苦手だし、好きでもない。
頭を使うことが好きではない。

だから套路を練るよりも五行を練るほうが楽しいし、生きてる感じがする。

それに言えることは
展開激しく複雑なものは誤魔化しがきくが、単純なものは誤魔化しがきかない。

しかも単純なものほど奥が深い。
毎回新たな発見がある。

私が伝統太極拳や伝統形意拳をこよなく愛する理由。

2017年5月15日月曜日

推手あれこれ

数えてはいないが今まで300人以上の相手と推手を行ってきたと思う。
初心者から達人級の方まで。

初心者と達人が明らかに違うのは、自己の制御だろうか。

初心者はまず自分から動こうとする。
そして力で対抗しようとする。

達人は自分から動くことはしない。
相手の動きにぴったり合わせる。
そして気づけばいつのまにか崩されている。

推手では専門用語で聴勁というが、まずこれを鍛えることが重要。
いわゆる相手を知るということ。

しかし相手を知るだけで聴勁が成り立つだろうか。

もっと大事なことは己を知ることだと思う。

推手を行うとよくわかるのは自分の癖で動こうとしてしまうということ。
これを相手に知られてしまうと相手の手中に収まることになる。

なら癖とはなんだろう?

癖とは無意識であり性格であり日頃の習慣。
それならその癖を出さないことはできるだろうか?

日頃の習慣を意識して変えていけば癖を変えることはできる。
しかしもっと手っとり早い方法がある。

無になること。
無は頭も体も完全脱力の状態からなる。
いくら体が脱力していても脳に力が入っていては無になることはできない。

無論、経験未熟な者が無になっても力を出すことはできない。
結局日ごろの鍛錬が必要ということ。
たくさん練習し、たくさん失敗し、たくさん落ち込むこと。

因みに落ち込むことが良くないことと思う方がおられるかもしれないが、
成長過程で落ち込むことは絶対必要。
〝上達したい”という気持ちが強いからこそ落ち込むのであって、
落ち込まないというのは現状に満足しているということだから伸びるわけがない。

話は変わるが、
今まで推手をしてきて一番おもしろいと思った相手は陳式太極拳。

楊式が静なら陳式は動だろうか?
解釈の違いがあると思うので具体的なことは割愛するが、
私の勝手なイメージで言えば、陳式が龍なら楊式は虎。

流派によって勁の使い方が違うのが実におもしろい。

2017年5月13日土曜日

静から動へ 動から静へ

私の太極拳人生は立禅から始まった。

始めてこの世界に足を踏み入れた時、
立禅がなんとも神秘的でどんな効果があるのだろうと、わくわくしたものだ。
あれから15年、今もなお立禅を続けている。

まず姿勢を整える。
太極拳のみならず武術の基本だ。

そして脱力。
そして瞑想。

ただ立っているだけなのに体の中に気が巡りだし、中からじわじわ熱くなってくる。
芯から温まるとは本当はこういうことなのではないかと思う。
そして体が妙にスッキリする。

風邪をひいて熱があがり、汗をびっしょりかいた後というのは体が妙に軽くなりすっきりする。
それを健康な状態で行うわけである。

立禅で得られる汗はスポーツなどでかく汗とは質が違う。
まず、汗をかいているのに全く呼吸が乱れない。
息切れしたり心拍数が上がることもない。
もちろん疲労感もない。
むしろ体がすっきりし軽くなる。

すべてはここから始まる。

私は10年目にして形意拳を本格的に始め、
そして15年目である今、八卦掌の修行を開始した。
八卦掌と言えど、今のところ型をやるつもりは全くない。
ただ、歩くだけ。
型を覚えるのはいつでも良いと思っている。

ここでの気づき。

正しく歩こうとすればするほど立禅の重要性に気付く。
やはり立禅は全ての基本なのだ。

太極拳でゆっくり動きながら気を練り上げ
形意拳で勁の流れを知る。
そして八卦掌で更にエネルギーを蓄える。

私の解釈は八卦掌は歩く立禅。
すなわち動禅。

歩きながら得られる風が心地よく、無心になれるのがいい。

2017年5月10日水曜日

逆らわない

先日から弟子の推手が変わった。
いきなりだ。

本人はずっと推手スランプなどと言って落ち込んでいたが
ようやく感覚を掴んだよう。

しかし、それは私がいつもいつも言ってきたこと。

結局ある程度やり込んでいかないと、
耳からは入っていても理解はできていないのだと思う。
私も今までそういう経験を何度もしてきた。
先生の言ってること理解しようとするが理解できない。

結局どうすればいいか?

いわゆる武術修行に近道などないということ。
基本からしっかり積み上げ、
うまくいかないことや失敗もたくさん経験しなければいけない。
失敗を恐れ、或いは負けることを恐れていては
いつまでもそこから前に進むことはできない。

落ち込んだり悩んだりすることも絶対必要。
私等数えきれないほどある。

私が推手を行う時何を思っているか?

それは、
な~~~にも考えないこと。

弟子は私が教えたことを見事に自分のものにしてくれた。
これがたまらなく嬉しい。
本人ずっと苦悩していただけに。

それにしても私が10年以上かかったことをわずか3年足らずで習得してしまうとは。

弟子といい、会員さんといい、皆素直なのだと思う。
推手も、学びも、決して逆らわない。

素直は無敵なり。

2017年4月25日火曜日

楊式刀

私が太極拳を始めた頃
太極拳に武器があるとは知らなかった。

楊式太極拳を必死で覚えている傍らで
先生や先輩方が木刀をもって楊式刀をされている姿に憧れた。
正直カッコいいと。

学生時代少しだけ剣道をやっていたので、
剣道とは明らかに違うその柔らかい動きにとても興味を抱いた。

それからというもの、
私は楊式刀がやりたいがために楊式太極拳を無我夢中で覚えようとした。
そのために当時通っていた近くの教室だけではなく、
先生を追いかけ遠く離れた教室にも通った。

1年が過ぎ、ようやく楊式刀を習える時が来た。
ところがそれからしばらくして
家の事情によりその地を離れなければならなくなった。

それだけに楊式刀への想いが強くなったように感じている。

新しい地に移り住んでからもずっと一人で楊式刀の練習を続けた。
先生の姿を思い浮かべながら、先生に近づきたい一心で。

そうこうしているうちに数年経ち
私はある目的を果たすため楊式刀で競技に出場することを決めた。

当時たくさんの先生方からアドバイスを頂いた。
本当にありがたいことだった。

その一方、私が教わった楊式刀とはどんどんかけ離れたものになっていった。

先生から教わった楊式刀に手を加えていくことに違和感を感じながらも
目的を果たすために来る日も来る日も練習を繰り返した。
そして私の楊式刀は教わったものとは全く違うものになっていた。

「自分ではない」
そのように葛藤しながら

自分を偽りながら
それでも必死で目的を果たそうとした。
大きな目標を叶えるため、
自分に与えられた仕事だと思って取り組んだ。

そうして、出場毎に着実に順位を繰り上げ
4度目で全国10位に。
成績も入賞レベルにまで達するようになった。
あと、0.01ポイントでメダルに届くまでになった。

しかし既に私は壊れかけていた。
心身共にボロボロになっていた。

競技で高得点を得るための過酷なトレーニングと、
それと
自分を偽ることに。

私がやりたかったことはこれではない

先生(今は師匠と呼んでいる)の楊式刀は、
足取りかろやかで力みのない柔らかい刀さばき
まるで風のようだった。
飾ろうとする意識など皆無にみえるほど、自然で、それがまた美しかった。

競技のために作り上げた楊式刀はもはや楊式刀ではなくなっていた。
演武している自分が嫌で嫌でならなかったし、
何度も吐き気を催した。

競技に求められる美しさはあくまでもつくり込んだ美。

前にも少し似たような話をしたが、
本物の夕焼けとCGで合成された夕焼けとどちらが感動するだろう?

やはり自然には敵わない。
人もまた、自然体が一番美しいと思う。

目的は果たせなかったが、
私はこれで良かったと思っている。

あのまま、メダルを取りに行こうとすれば、
私は自分の楊式に戻れない体になっていたかもしれない。
道を踏み外していたかもしれない。
そう考えるととても切なく恐ろしい。

入賞まで0.01という数字は、私を試させたのだと思う。
自分が本当になにをやりたいのか。

楊式太極拳において〝演技”しようとしたら、
それはもうすでに楊式太極拳ではない。

そうではなく内なる力に耳を傾けそれに従う。

その時に飾らない自然の美しさがにじみ出て来るのだと思う。

美を求めるのではなく、
本物を追い求めた結果が美となって表れる。
少なくとも私はそう考える。

***

今は存分に放鬆の世界を楽しんでいる。
肉体と心の疲れから解放され、体の中に氣が集まり始めている。

氣の正体

ようやく解った氣の正体。

約20年前
連日苦境にさらされ、その時に得た悟り。

が、諦めないで突き進むと
いつしか予知能力が身につく。

数分先、
数十分先、
数時間先のことが見えるように。

そして私を動かす私。

この時の状態こそ、無の状態。

無、
わかりやすくなると考えないこと。
もっとわかりやすく言うと
アホになること。

頭を空にし、
体を極限までリラックスさせる。
体の中をスカスカにする。
その空間に氣が入って来る。

この氣は人間以上のことを可能にする力を持っている。

今日は双辺太極拳を練る時、
可能な限り瞑想し、
そして可能な限り脱力した。
そこに自分を動かす自分がいた。

偉大な力を持つ氣を味方につけるには

体の中を空洞にすること

2017年4月17日月曜日

無名であれども

いかに著名な先生に習っても順序がある。
いきなり奥義を教えてもらえることはない。
奥義というものは本格的に弟子入りして何年も経ってようやく授かるもの。

師弟関係とはお互いのことを知ることが必要だと思う。
弟子は師を理解し、師は弟子を理解する。
それによって、その都度必要なことを授け授かっていく。

お金を払えば教えてもらえるというものではないと思う。
また、お金を払ったからと実力が上がるというものでもないと思う。

一番大切なのは「絆」だと思う。

私の師は決して著名な先生ではない。
しかし実力派の先生であることは確か。

楊式太極拳の本当の凄さを教えてくださる。
あの静かで柔らかい動きの中に無限の力が秘められているということを体で感じさせてくださる。
そして、なにより遠く離れた私のことをいつも思っていてくださる。

出版物を出しているとか、
直系の先生であるとか、
競技会等の優勝者であるとか、
私にとってはあまり関係ない。

決して見せかけではなく本当の実力。
長年かけて築きあげられた絆。

私にとって最高の師であり、たった一人の師である。

2017年4月13日木曜日

競うべからず

太極拳は自分と家族の身を守るために編み出された禅を取り入れた武術。
人と競うために生まれたのではない。

伝統太極拳は体を養い活力が得られる。
競技太極拳は体を酷使し疲労がたまる。

同じ太極拳なのに、そのベクトルはまるで正反対。

伝統太極拳に出会い、伝統だけで鍛錬していた時は、
疲れ知らずの体を得た。
しかし競技に出場するようになり、肉と骨が悲鳴をあげ出した。

練習すればするほど体の中は疲労物質で充満し、
どれだけ栄養をとっても、どれだけ寝ても疲れが癒えることはない。

健康を取り戻し長生きしようと思って始めた太極拳。
このままでは寿命を縮めてしまうと危機感を感じた。
(長年予防医学を勉強し続け、様々な実体験もしてきた私の中での直感です)

そして今は気功中心の太極拳に立ち戻り、すっかり調子を取り戻した。
病気しない、怪我しない、
難病を克服し、怪我の治りを早めることのできる気功太極拳。

競わないということで言えば、推手も同じ。
競おうとするとうまくいかない。
簡単に崩されてしまう。

競うのではない。
許す。
受け入れる。

これにより心がゆるみ身体がゆるむ。

これは単に技術的なことだけを言っているのではない。
人間性も変わってくる。

競うことで生まれる優越感と敗北感。
このギャップにより決して良いとは言えない気を感じてしまうのは私だけだろうか?

太極拳はいわゆる武術なのかもしれないが、私は武道だと思っている。
術ではなく道。
生きる道であると。

2017年4月11日火曜日

揺れる立禅

当会では立禅を重視している。

理由を一言で言うなら、
太極拳を太極拳として完成させるため。

套路で壁にぶつかる。
動きが安定せず、柔らかい動きができない。
その時に立禅に重要性に気付く。

推手で壁にぶつかる。
打てない、いなせない。
その理由もまた正しく立てていないからということに気付く。

散手で壁にぶつかる。
技がかからない。
その理由もまた沈んで立てていないからということに気付く。

逆に考えれば立てなければ動けるわけがないし
動けないものが崩したりいなしたり技をかけたりなんてできるわけない。

脚が開くようストレッチをするのもいいだろう。
高く飛べるよう筋トレするのもいいだろう。
しかし私は立禅をする。

站椿功という言い方もあるが、当会では立禅と呼んでいる。
站椿功は杭のように立つという意味だが、立禅は禅だからだ。

立つだけの練習なら、テレビを見ながらでもできる。
しかしそれで本当に効果が上がるだろうか?

気の存在を信じる信じないは別として、
体に気を自在に通すことが出来るようになると
腕の重さや硬さを自在に変えられるようになる。
気功で鍛えた腕に触れてみればそれはすぐにわかる。

気を通すためには邪念があっては駄目。
頭を空にし、気を静めることで始めて体の中を流れる気を感じることができるようになる。

木の幹に耳をあてて水が流れる音が聞こえると言う人がいる。
そのためには邪念があっては駄目だろう。
耳を澄ませ木の中に意識を送り集中しなければいけないだろう。

そんな風に自分の体の中を流れる気を感じる。
立禅はただ立つだけの鍛錬ではない。

因みに立禅で大事なことは、姿勢を整え、息を整え、意識を整える。
傍から見るとじっとしているようにみえるがじっとしようとしてはいけない。
それは立禅ではない。

じっとしようとすること自体力んでいるわけで、気の流れを妨げる。

その逆。

二輪車で倒れず静止しようとする時ハンドルを小刻みに動かしバランスをとろうとするように、立禅でもそれは同じ。
静止しているかのように見える独楽も実際は回っているのだ。
止まってはいけない。

姿勢を正しながら立っていられる極限まで体をゆるめていくと、自然とゆらぎを感じる。
そのゆらぎに対抗しようとせずにそのまま受け入れる。

これによって〝何か”が変わってくる。

その何かとは、套路であり、推手であり、散手だ。

当会では、気功、套路、推手、散手は四輪車のタイヤだと思っている。
ひとつが欠けてもその車はうまく走れないように
太極拳も太極拳として完成することはない。

このようにして、禅を行うことが強くて健康になれるということ。
少なくとも私はそう信じ修行を続けているし
そのおかげで長年健康を維持している。

2017年4月9日日曜日

太極拳は鬱病を克服できるか?

誰も信じてくれないのだが、私は人前で話をするのが苦手。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、人前に出るとどうにもうまく言葉が出てこない。
人と目を合わせるのが恐く、うまく話せずついつい噛んでしまう。

私がこんなふうになってしまったのには理由がある。

IT革命が起きた1999年
当時私は毎日100人以上の人と接し、
大勢の前で講演したり、
スピーチしたり、
司会を務めたこともある。
場を和ませたり盛り上げるための言葉が果てしなく湧いてきて、
どうにも止まらないほどだった。

今思えばあれは私ではなかったような気がする。
何か強大なエネルギーの塊のようなものが私の中に入ってきて、
そのエネルギーがそうさせていたような感覚だった。

辛いことから逃げ出すのではなく、どんなに辛く悲しくともめげずに立ち向かって行けば、人間、自分を超えた能力を発揮できるようになる。
そのことは当時とても実感した。

しかし、私をこんなふうに変えてしまったのは、良くも悪くもIT革命。
私はITによって地球環境を変えようと決め、まず最初に行った行動が、家から出ないこと。
理由は家から出ると無駄なお金を消費し、しかも移動のために車や電車を使うと公害を発する。
それを抑えるために私は家から出ないと決めた。

そして私は家から一歩も出ずしてかつての2倍の収入、いや1か月で100万円近く稼いだこともある。
今もYouTubuなどでそのような収入を得ている人がいるようだが、私は18年前にそれを経験していた。

確かに私は無駄を一切省き地球環境に貢献したし、十分な収入を得た。
灰色だった空と海がかつての青さを取り戻し、自然を取り戻した。

皆、戦後から20年前までの日本がどのようなものだったか覚えているだろうか?
今は中国の公害がよくとりあげられるが、当時は日本がそうで、公害大国ニッポンと呼ばれたほどだった。
海も川も空も汚染され酷いものだった。

当時私のしたことは微々たることだったのかもしれないが
少なくとも私は2万人の組織でITを促進させるリーダーとして活動した。

しかし、それと引き換えに私は心の病にかかってしまった。

家から出ないということは人と合わないということ。
かつて毎日多くの人と接し輝いていた自分はその光を失い暗闇の世界へ。
街で合う人すべてに笑顔で声をかけることが出来たのに、それが目も合わせられないほどに。
そして次第に人を避けるようになっていった。
体力はどんどん衰え、毎日起こるとてつもない頭痛。
腰痛肩こりも酷く、外に出ると5分も歩けない程体力が衰えていた。

さすがに危機感を感じた私は心の向くまま近くの図書館へ。
そこで目についた本をぱらぱらっとめくってはっとさせられる一文が目に飛び込んだ。
「心と体は繋がっている」というような一節だった。

私は部屋に引きこもり体を動かさなくなってしまったから心も失ってしまったのだと気づいた。
その足で私は近くの公民館へ。
なにか体を動かすことをしなければと。
そこで目に入ったのが太極拳サークルのポスター。

これが私が太極拳を始めるきっかけになった。

サークルの人達は温かい人ばかりだった。
先生もやさしい方だった。
そして今教わったばかりなのに、起勢から先をどうしても思い出せずひとりもがいていた自分がいた。

それから約15年
今は約70人の会員を指導するサークルの代表になり毎日指導を行っている。
確かに私は15年前の自分から比べると変わった。

しかし、まだかつての自分を取り戻していない。

とにかく、恐れず怖がらず皆の前に立って指導しようと。

かなり良くはなってきているが、まだ完全でなはい。
だから鬱病を完全に克服できるかどうかは私にとってのテーマ。
いや、もしかしたら鬱病ではなくかつての自分とのギャップに苦しんでいるだけなのかもしれない。

いずれももう一度あの光を取り戻したい。
そのために修行あるのみだと思う。

2017年4月8日土曜日

稽古着は体の一部

昨夜の形意拳クラスでの稽古は異様に暑かったので上着を脱いで稽古した。
多分、私が半袖で指導するのは4年ぶりだと思う。

なぜ当時、稽古着を着ずに半袖や長袖のTシャツを着ていたかというと、
私はまだ講師ではなく皆と共に太極拳を楽しむ仲間なんだという意識だったから。

皆と接する時も講師というプライドを盾にするのではなく
共に太極拳をする仲間という感じで皆と接した。

私がそんなだったから、親しく接してくれる人もいれば、
それを逆手にとって横柄になる人もいた。
態度が悪いだけならまだしも、周りを巻き込み、悪い空気を振り撒こうとした時はさすがに呼び出してそのことを本人に注意した。

注意すると言っても私は感情的になることはない。
きちんと相手が理解できるように丁寧に説明しながら話した。

それでも逆ギレされ私の元を去って行った。
私はこれも縁だと思っているし、勉強だとも思っている。
態度は悪かったがその方々のお陰で今の私があり、今のサークルがあり、そして今の仲間と巡り合えた。
その方々には心から感謝の気持ちを述べたい。

ところで、私は今は常に稽古着を着て指導をしている。
これが私の仕事着だからだ。
スーツを着たり、白衣を着たり、作業着を着たり、
どの職種にもその仕事に適した服装や制服がある。

私は先生の稽古着に憧れ
10年間Tシャツとトレパンで下積み稽古を行ってきた。
いずれ先生のように稽古着に身を包み、カッコよく指導出来るようになりたいと夢見てきた。
(正確に言えば、演武服の商売をされている先輩にモデルになって欲しいと頼まれ、一時期稽古中その演武服を着ていたことはあるが)

だから、私にとって稽古着を着るのはそれまでお預けにした。
いずれも先生と同じものを着るわけにはいかない。
私は生徒であり、先生に教えを乞う立場だからだ。

昨夜はTシャツ一枚でで稽古していたが、暑さも感じなくなったのでまた上着を着た。
するとある会員さんが、出来れば上着を脱いで欲しいと。
手の動きが見たいからだということだった。
頑張っている生徒の頼みとあらばと、ひとまず要望に応えた。

しかし稽古着は私にとって仕事着。
着るとスイッチが入り誠心誠意指導しようという気持ちになる。
だから今後は脱いで欲しいと言われても多分脱がないと思う。
(要望に応えられず申し訳ないが・・)
やる気スイッチが切れてしまうからだ。

それに稽古着は私にとって体の一部。
刀や剣と同じ。
身に着けているものや手にする物には魂が宿る。

以前、飛び込みの営業の仕事をしていた時は、
ビシッとスーツに身を固め断られても断られてもめげずに頑張って営業を続けた。
そして遂には1日に10件以上の契約がとれるほどまでになった。
社長がとても驚いていた。無論会社では営業成績1位だった。

だから仕事をする時の服装はとても大事だと思う。
稽古着は私にとってそれほど大切なもの。

2017年4月1日土曜日

黙念師容 

黙念師容(もくねんしよう)
中国語読みすると、ムーニィェンシーロン

意味は、先生の動きをしっかり見て脳裏に焼き付けておくこと。

私が太極拳を始めたばかりの頃、一番意識したことだ。
その頃は黙念師容という言葉も知らなかったが。

ただただ私は師匠のように動けるようになりたかった一心で、
師の動きを観察しまくった。
休憩中も師匠の動きを観察した。
お陰で、演武だけではなく師匠の癖まで似てきてしまった。
無論それも嬉しいこと。

自慢ではないが、師匠の動きが変わるとそれをいち早く察知したのは他の誰でもなく私だったと思う。

私は師匠を真似たというより、
師匠を自分と思い込みイメージして一緒に動いていた。

そして今も師匠に稽古をつけて頂く時、
稽古の初めから終わりまでひたすら師匠の動きを観察する。

一度の稽古で、太極拳、心意拳、八卦掌、武器術、推手、散手、対打、暗勁練習等・・
あまりにも稽古内容が多く、正直付いていけないし、頭にも入りきらない。
だが、最後まで見ることを止めることはしない。
とにかく必死で師匠の動きを頭に焼き付けようとする。

そして、家に帰ってから師匠の動きを思い出しながら真似てみようとする。
これが割と出来てしまうのだ。

これは決して私の見る力や覚える力が長けているからではない。
幼いころから暗記は大の苦手だ。
ただ、見ようとする力が長けているだけ。
これは能力ではなく努力だと思う。

ほとんどの人がある程度動きを覚えると先生の動きを見なくなる。
自分は出来ていると錯覚してしまうのだ。
ここからが我流街道の始まり。

武術の道からどんどん外れていくことになり、
ちょっとしたズレでも時間の経過と共にそのズレはどんどん大きくなる。

自分で套路の練習だけをしていると余計に危険。
套路だけではズレていることに気付けないから。
そのために稽古という場が提供されている。

推手をして、姿勢の悪さや力みに気づき、
散手をして、技が掛からないということに気付く。
技の使い方ではなく、その技が本当に生きるかどうかということ。

だから、私はこれからも黙念師容を続けて行こうと思っているし
師匠に自分の演武を評価してもらおうなどとも思わない。
(というより見てももらえないのだが・・)

ただただ師匠についていくのみ。

2017年3月17日金曜日

引力で戦う太極拳

双辺太極拳は引力を最大限に使った武術だと思う。
逆に言えば引力が弱くなる水中や宇宙空間ではどうなのだろう?
恐らく双辺ならではの勁力を使うことはできないだろう。

双辺太極拳ではほとんど力を使わない。
水が上から下へ落ちるように、
滝のように打つ技が多い。
だから私は〝水の太極拳”と呼んでいる。

いずれも力を使わないから全く疲れない。
先日も弟子に稽古台になってもらい、ほぼ2時間ぶっ通しで技をかけまくったが
息一つ切れることなく続けることができた。
無論、技を掛けられるほうはたまったものではなかったと思うが。。

もしこれが剛拳ならどうだろう?
鍛えられた肉体でもって素早い突きや蹴り、側転、宙転、跳躍動作・・
その動きは豪快で見ていて爽快。
正直憧れもした。

しかし40頃から始めた太極拳。
長拳を初めて知ったのは40代後半の時。
剣術と合わせてかなり練習をしたが、どうしてもキレの良い動きが出来ない。
というより、元々私は運動苦手で体力もほとんどなかった。
すぐに息切れし、呼吸困難に陥り、
わずか1~2分の動きでも意識朦朧となり体が動かなくなってしまった。

しかし太極拳なら何時間でも戦っていられる。
しかも相手に大きなダメージを与えることもできる。
これほどエネルギー効率のよい武術もなかなかないと思うし、エコ時代の今にぴったりの武術だとも思う。

ところで地球の力と言えば引力ばかりが取り上げられるが上へ引っ張られる力もある。
地球は自転している。
時速約1700㎞もの猛スピードで回っている。
当然遠心力が働く。
もし地球に引力がなければ、地球上にあるすべてのものは空に舞い宇宙に放り出されてしまうことになる。

いわゆる引力と遠心力のバランスで地球上は成り立っているということになる。
この力を自在に操るのが〝気”であると私は解釈する。

イメージによって気を自在に操り、引力の強さや遠心力の強さをコントロールできるようになる。
これは私が日々の鍛錬の中から自然と感じたこと。

どうしてもっと軽いはずの腕がそれ以上に重く感じるのだろう?
どうしてもっと重いはずの腕がそれ以上に軽く感じるのだろう?

ある時は鋼鉄のようになり、
またある時は煙のように気体になってしまう。

これは地球上に働く力を自在にコントロールしているということになると思う。
自分だけが感じる錯覚ではない。
これはきちんと相手にも伝わる。

やっぱり太極拳は面白い。
これは一生やめられそうにない。

2017年3月14日火曜日

アクションスター

アクションスターで言うとジャッキー・チェンが好きだ。
他にもアクションスターは大勢いるが、もう私の中ではジャッキーが断トツ。

なんというか、人間的に惹きつけられる。
映画だけでなく演技やアクションすべてにジャッキーの人柄ややさしさを感じる。

痛い時は痛いと言い、
敵に勝っても勝ち誇ったような得意顔をすることはない。
寧ろ、敵にも情けを持つ気持ちが伝わる。

映画監督、映画スターとしての才能も大変素晴らしいが、
やはりジャッキーの人間性に惹かれる。
すべてに愛を感じる。

こんな風に感じてるのは私だけではないはず。

ジャッキー・チェンの映画と言えば名作は数あれど、
私が一番嵌ったのは「ゴージャス」という割と古い映画。
とにかくおもしろい。
ジャッキーが最初から強くないのがいい。
なんといったらいいのか、アクションラブロマンスコメディーと言った感じだろうか?
あまりにも阿保らしくふざけ過ぎるシーンもあれど、
なのに最後は感動して泣けてしまう。

私が丁度太極拳を始めた頃の映画だ。


本当に強い者はそれを誇張したり自慢したり得意になったりしない。
決して飾ることなくあくまでも自然体なんだ。

私はそんな武術家になりたいと思う。

2017年3月6日月曜日

股関節に油をさそう

太極拳を始めたばかりの人を見ていて思うこと。
股関節の使い方が固い。

股関節が固いということが、どういうことなのかピンとこないかもしれないが、
股関節の可動域が狭く、
いわゆる、サビついて動きずらくなった駆動部のようにみえる。
(と一概には言えないが)
決して脚が開かないとか上がらないといったことではない。

股関節を柔らかく使えていないとどうなるかというと
曲げないで動こうとするから、動作がギクシャクするのはもちろん、
上体も傾き放題。
当然軸もぶれまくる。
足の伸ばさないといけないところで伸び切らず、
曲げなければならないのに曲がりきらない。

股関節をやわらかく使えていないと、とにかく太極拳の形にならない。
太極拳の形にならなければ、套路を行っても太極拳の動きにならず、
推手では簡単に崩されてしまい、
散手では技がかからないという結果になる。

とにかく何のメリットもないのだ。

股関節に油をさしてみよう。
もちろんそんなことは出来ないが、
先生の動きを見る時、手の動きばかりに気をとられないで体の使い方を見る。

真似ているはずなのに先生と同じ動きにならないのは手だけで真似ようとしてるから。
体丸ごと真似することが大事。

車は安定してまっすぐ進むことができる。
それはタイヤが丸く、
サスペンションとショックアブソーバーが縦揺れを最小限に抑えてくれるから。

自分の体を車に例えてみよう。
上半身を安定させるためには股関節、膝、足首を柔らかく使う。
太極拳の歩法は車輪の如く。

股関節は動かし過ぎても、動かさな過ぎてもいけない。
使い方を教わるより、技がどんなものであるか、
どのように使うか知ることで股関節に使い方を自然に学ぶことだできるだろう。

私はかつて先生方から股関節の使い方がダメだダメだと言われてきたが、
当時はなぜダメなのかさっぱりわからなかった。

でも、推手や散手をすればすぐにわかる。
論より証拠。
考えるよりやってみよう。ということだと思う。

2017年2月28日火曜日

当会が目指す表演

表演とはどういうものだろう?

美しい演武をするのが表演?
それともカッコいい演武をするのが表演?
あるいは派手な動きで人を驚かせるのが表演?

どれも素晴らしいし、
どれも表演だと思う。

しかし当会が目指す表演はちょっと違う。

言葉で言い表すのは難しいが、本当に純粋な演武。
ありのままの演武。
太極拳が太極拳であるがままの演武。

どういうことかと言うと、演じるのではないということ。
演じるというのはある意味嘘の世界。

私は音楽をやっていた関係で周りに芸術家は多い。
そして皆が口を揃えて言うことは芸術は虚偽の世界だと。
確かに絵の世界も映画の世界も現実ではない。

最近の映像技術は本当に素晴らしい。
技術の進歩のお陰で美しい映像を高画質で見ることができる。
CGの技術も素晴らしい。

しかし、どんなに美しくとも、それはあくまでもつくられたものであって本物ではない。
単に綺麗な映像を見て涙が出るだろうか?
しかし美しい夕日を見るととても感動する。

当会が目指したい表演このようなもの。

私は決して技術的なことをあまり細かく指導しない。
どちらかといえばメンタル的なことを話すことが多い。
どんなに発表会の時期が迫っていようとも、苛立った空気は決して出さない。
常に常に柔らかい空気をと考えている。

先ほども話したように
太極拳が太極拳であるがままの演武を目指したいから。

今回で3度目の発表会になるが、これまで行った発表会も大変素晴らしかった。
何故あれほど感動できたのだろう?

それはわからないが、
決して美しさを目指した結果ではない。
チーム全体が一丸となり、心がひとつになった結果だと思う。

2017年2月23日木曜日

生死の境で神力が得られる

当会で行っている気功、太極拳、形意拳はあくまでも伝統に拘っています。

勝手に編集したり、套路を組みなおしたり、
そういったことは一切しません。
発表会での演武は時間の制約があるので止む無く時間内に収めるよう編集はしますが。

いろんな考え方があるでしょう。
古いものより新しいもののほうがいい。
新しいものより古いもののほうがいい。

少なくとも私は後者です。

理由は時代が違うからです。
もちろん今の時代にあった武術を愛好家として楽しむのもいいでしょう。
表演も決して嫌いではありません。
人に感動を与えることができます。

しかし本来武術は人に見せるために生まれたのではありません。
戦の多かった時代、自分の命を守るため、家族を守るために作り上げられたものです。

人は命が掛かっていると鬼才を発揮します。
神力が得られます。
人間の脳を遥かに超える力と知恵を得ることができます。

逆をいえば今の平和な時代では決して生まれないものだったということになります。

歴史博物館ではないが、当時武術はこうだったと、
次の世代に伝えていくために、武術をあらゆる形で表現するのは大いにありだと思います。

しかし、本物の武術としては伝統武術を超えることは決して出来ないでしょう。
聖書を超える聖書を一から作れないのと同様に。

武術は神力によって生まれたものだと、
少なくとも私はそう思っています。

遅いは早い 止まるも早い

太極拳が最も早く上達する方法。

それは
ゆっくり練習すること。

そもそも套路とは鍛錬のために編み出された〝練習方法”
太極拳はゆっくり動くことで、
普段鍛えることの難しい遅筋を鍛え、
軸を鍛え、
丹田を鍛える。

脱力しながら動くことで体全身に気が巡り、気の体をつくりあげていく。

気は実に不思議な物体。

軽くもなれば重くもなり、
柔らかくもなれば硬くもなる。
意によって変幻自在な世にも不思議な物質。

ゆっくりであればゆっくりなほど、これらを作り上げていくことができる。

因みに、更にゆっくりにしていくと?
最終的には止まることになる。

これが站椿功。

逆を言えば套路は站椿功の連続動作。

この意味がわかれば、すべきことが見えてくるはず。

2017年2月21日火曜日

ビデオ学習について

当会では新しく習ったことを思い出す手掛かりとして
套路をいくつかに分けて動画を配信しています。

そして「動画はあくまでも復習用として使ってください」とその都度付け加えています。
逆を言えば予習には使わないでくださいということになります。

本当のことを言うとあまりビデオに頼って欲しくないという気持ちもあります。
なぜなら稽古中「あとでビデオを見ればいいや」という甘えが生じてしまうからです。

稽古に集中しなくなり、その場でしか感じることのできない肝心なことを見落としてしまうことになります。

武術はビデオからは学べません。
だからこそ私も教えながら師から学び続けています。
そして師から注意を受けることは決まってビデオでは学べないことです。

形は意から生まれ、意は形を作り出します。
形だけを見て意を学ぶことはできません。

むしろビデオは2次元。
2次元は現実ではありません。
現実でないものから現実を学ぶことはできません。

3D映画にしても所詮は2次元を重ねたもの。
横から覗いても横は見えません。

いずれもビデオを見る時
2次元で読み取れない部分を自分の頭の中で3次元に変換しようとするわけですが
そこに〝思い込み”が生じます。
その思い込みによって悪い癖を身につけてしまい
武術の功夫を高めていくどころか、体に支障をきたすことすらあります。

ビデオ学習して体調を崩したり怪我をする人は想像以上に多いです。

今やYouTubeなどで多くの情報を得ることが出来、便利な時代になりましたが
それで学ぼうとすることは危険です。
娯楽としてや参考程度に見るのであれば良いと思うが、真似事で武術を学ぼうとすることはおすすめできません。

師から学べることは3次元ではなく4次元。
形だけではない〝なにか”を感じ、
それを学ぶことができるのは直接師から学ぶ以外にありません。

偉そうに語ってしまいましたが
全て自分の経験や失敗から学んだことです。

2017年2月19日日曜日

1+1=?

小学校で初めて習う算数。
1+1

当然答えは2。
が、それはただ覚えてるだけの数字が出てきているだけで
この問題を出された時に頭の中で本当に計算した人がどれだけいるだろう?

だから答えは1+1=2ではなく、1+1=1+1なのだ。

今や計算は電卓やスマホで簡単に計算できる。
だから、なぜそうなるかと考えてもみない。
私は電卓が出回ってきた時代に便利だなと思ったと同時に不安も感じた。

インターネットもそうだった。
便利と引き換えにコミュニケーションや礼儀を知る機会を失い、
犯罪に利用する人も出て来ると。
結果は予想どおりになった。

私はインターネットを最大限に利用しているが、
その反面いつでもこの世から消えてなくなってもいいとも思っている。

そうすることで、人に道を尋ね、そのことで人のやさしさに触れたり、
手紙を書くことで心が通じあったり、
待合せの時間を間違えたりして、何時間もその場で待ったり。
その時に遅れた人は謝り、謝られた方は相手が素直な人であると知ることが出来る。
人と人が触れ合うことで人と人との絆が強くなる。
そういう古き良き時代が帰ってくる。

話は戻るが、武術の世界でも1+1=2だと覚え込んでしまい。
逆に2が1+1で構成されていると知らない人が増えているように感じる。

私がサークルを立ち上げた時、毎回最初の15分は座学を行っていた。
ホワイトボードをつかっていろいろと説明した。
その時毎回説明したことは、太極拳とは中国武術に気功(導引術)の要素を加えたものだと。
いわゆる武術+禅が太極拳なのだ。

しかしどうだろう?
今の武術は禅の要素が省かれ健康体操やスポーツ、あるいは舞踊と化している。

そもそもなぜ太極拳を始めたのだろう?

私が太極拳を始めたのは確かに健康づくりだが、
私が一番知りたかったのは「なぜその時に太極拳を選んだか?」だ。
別にその時でなくても良かったはずだ。
10年後でも20年後でもよかったはずだ。
しかしなぜあのタイミングだったのだということ。
しかもなぜ数ある選択肢から太極拳を選んだのかということ。

この答えを見つけ出すことこそが人生であり
自分が生まれてきた意味だと思う。

太極拳をどのように楽しもうがそれは自由。
しかし、私はあえて伝統太極拳を推進していきたい。

インターネットによるスマホやパソコン、あまりにも便利なものが増えすぎて
人生とは?と考えることなどなくなってしまうのではなかろうか?

そうなって欲しくない。
なぜこの時代に生まれてきて、
なぜ自分が自分として生まれてきて、
なぜ今これを行って、
そして、どこに行こうとしているのか?

生きている間にその答えを見つけることこそが人生の目的だと私は思う。

意味なくして生命は生まれない。
意味があって生まれてきている。
偶然ではない。
宇宙に法則に従って、生まれてきた。

当会が稽古の時に気功と太極拳を分けて行う理由はそれ。
立禅である気功と、動禅である太極拳を行うことで、太極拳が誕生した意味を知ることになる。
本や誰かから得た知識ではなく。

私が感じるのは人類愛。
これ以上話し出すと止まらなくなるので今回はこの辺でやめておく。

ひとつ言えることは
太極拳は相手にとって憎しみをもった自分が映し出される鏡になるということ。

弟子とは

私には今二人の弟子がいる。
ふたりとも自分から弟子にして欲しいと志願してきた。

弟子だからと言って特別扱いはしない。
むしろ弟子だからこそ厳しく接している。
「泣くな」「落ち込むな」「痛がるな」「諦めるな」「自分を信じろ」
いつでも腹を割って話すようにしている。

最初、私に申出てきたとき、
「私なんかで良いのか?」
という気持ちが強かった。

まだまだ修行中の身だし、学ばねばならないことだって山ほどある。
教えられることだってほとんどないし、
世の中には有能で素晴らしい師が大勢おられるのに何故私などに?と。

しかし、二人とも私のことをこう言ってくれる。

表現こそ違うが、
私の武術に対する姿勢や、努力し続けるところに惹かれたと言ってくれる。
又は、自分がずっと追い求めていたものを持っている人が私だとも言ってくれた。
運命的な出会いとも言ってくれた。

その言葉に嘘はない。
目が違う。

今の私はまだまだ未熟そのものだが、
こんなことまで言ってもらえて、断ることなどできるはずがない。
ただただ、弟子たちの期待に応えられる師になれるよう努力しようと。

弟子達は常に私の考えに同調してくれ、
困っている時は協力してくれ、
足りないところを補ってくれ、
そして、些細なことでもお礼の言葉を欠かさないし、
叱ればすぐさま心から謝ってくる。
そして、私の最期を看取ってくれるとも。

私ごときがまだ弟子をとる身分ではないが、
あえて言うなら、
私が選ぶ弟子とは武術の実力云々ではなく、やはり人間性。

どんな時でも私の考えに付いて来てくれる。
これほど心の支えになるものがあろうか。

私はこれまでのブログに何度か書いてきたが、
お礼と謝罪が出来ない人、言い訳をする人とはお付き合いしたくない。
こういう人は頑固で石頭で自分を変えようとしない。
自分を変えようとしない人が武術の腕をあげられるわけがない。

言い訳にやたら時間をかける人がおられるが一体なんのメリットがあろうか?

逆に言えば、私はお礼とお詫びが出来る人、
努力する人を大いに好む。
頑張る人が好きなのだ。

逆に、自分を認めてもらおうと小細工をしてきたり、
裏から手を回してきたり、
自分が人より優れているところをやたら誇張してみたり、
そういう行いはすぐに見破ってしまうし、
このような人は出来る限り避けたい。

心が澄んでいれば汚いものをすぐに感じとってしまう。
これも気功の効果だと思う。

私は必ず人を選ぶ。
来るもの拒まずではない。
来るものを徹底的に選んでいる。

選ぶことは私にとって一番大事な仕事。
もし少しでも選択を誤れば自分の人生を転落させてしまうことになるだろうし
道連れになる者も出るだろう。

大袈裟と言われるかもしれないが、
選択することは私にとってそれほど大事なこと。
決して私は安易に人を選んではいない。

父が最も大事なことは「選ぶこと」と教えてくれた。
そして私もまた半世紀以上あらゆる経験を積んできてそのことが一番大事だと知った。

2017年2月16日木曜日

見せる武術と見せない武術

見せる武術と見せない武術がある。

私は今見せない武術を重視している。
というより、はっきり言ってしまえば今はそれしか興味がない。

これが14年間修行を行ってきて行きついた答え。

見せる武術とは、人に見せて評価を得ようとするもの。
そのため派手な動きが多く、様々な技を駆使し、見るものを圧倒させようとする。

それを行うためには大きな身体能力が求められ
筋トレやストレッチで徹底的に体をつくりあげていく。
そして中には体を壊してしまう者もいるのも事実。

ここで疑問。
武術に怪我はつきものなんだろうか?

私の考えはこう。
本当の武術は怪我しない体をつくっていくことが目的で、
例え怪我をしても自分の力だけで治していく力を身につけるもの。

以前、車のドアに指を挟んでしまい、内出血で指を真紫にしてしまったことがある。
しかし1時間後には紫がピンクになり、2時間後には肌色に戻った。
私はこれが武術だと思っている。

因みに見せない武術とは、人に見られる見られないとうことではなく
自分の動きを読まれてはいけないということ。
本当の武術では動きを読まれること=死を意味している。

キャッキャ飛び回ってる猿と、じっとしている虎とどちらが怖いだろう?
私なら動かない虎には近づきたくない。

子供の頃、飼い犬に噛まれたことがある。
まったく何の前触れもなかった。
大人しくしていると思ったら、いきなり牙をむき出し猛烈に吠えたて顔を噛みつかれた。
あれ以来私は飼い犬であろうと犬が怖い。(そのようなそぶりは見せないが)

見せる武術と見せない武術の違いは、無論、内向重視の鍛錬を行っているかどうかということになるかと思うが、それよりも明らかに違うのは止まる動作。

見せる武術は定式で止まる。
見せない武術は過渡式で止まる。

※定式とは技を決めた瞬間で、過渡式とは定式と定式の間の動作

本当の闘いの場において、定式で止まるなどしたら、それは相手に自分の命を預けるようなもの。
定式とは攻撃した瞬間であり、太極拳などの内家拳では、その状態が一番不利であると教わる。
攻撃するということは相手に手や足を差し出すことであり、内家拳にとってはこれほどありがたいことはない。

先ほど見せない武術では過渡式で止まると言ったが、実際は止まるのではなく溜める。
発勁する前の溜める動作。
たっぷり充電してから、気を発射する。

だから私の太極拳や形意拳は見せる武術の動きとは真逆になっているはず。
定式で止まることはほとんどない。
師匠の動きがまさにそれで過渡式が非常に長い。

武術といってもその楽しみ方は千差万別。
いろんな武術があっていいと思う。

しかし、自ら怪我をしてしまうような武術はどうだろう?
私のような若輩者が口を出すことではないが、それは間違っているといことに気付いて欲しいと思う。(健康志向の強い私として)

やればやるほど健やかに丈夫な体になるのが武術だと、
私はそう思う。

2017年2月15日水曜日

褒められない!

私が約2年間制定拳を習っていた時、
その先生は一度も私を褒めてくださったことはなかった。

正確に言えば一度だけ褒めて頂いたことがあった。
「脚上がるようになったね」
それ一言きりだった。

当時は褒められたい一心で、来る日も来る日も我武者羅に練習した。
本当に狂ったように練習した。

そして、出来なかったことを出来るようにし、それを先生に見せるのだが
何も言ってもらえなかった。
そして2年目にきて遂に私はやる気を失ってしまった。

しかし、その時に得られたものは非常に多い。
あの頃の自分があるからこそ今の自分がある。

今思えば先生には私の性格を見抜かれていたのだと思う。
私の欠点は褒められると調子に乗ってしまうことだから。

後で聞いた話だが、
私のいないところで先生は私のことを頻繁に話題に出し、褒めてくださっていたのだそう。
出来ないことを次にはきちんと出来るように練習してくると。

そして今教える立場になって、ようやくその気持ちがわかった。

意欲的な人、出来る人にはついつい期待してしまう。
だから褒めている暇がないのだ。

まだ行ける。まだ行ける。
という気持ちがあるからどんどん課題を与える。

だから、私はこう思う。
無言こそ最高の誉め言葉だと。

課題を与えられるということは期待されているということ。
それだけ買ってくれてるということ。

因みに私は嘘はつけないタイプ。
出来ていれば出来ていると言うし、
出来ていなければうーんと唸ることになる。

因みに唸るのはどうすれば出来るようになるか考えているから。
この時私の頭の中は大忙しになっている。
単に言って聞かせるのではなく、私がどうアプローチすれば理解が深まるか。
それを考えている。

相手を変えたければ自分が変わること。
これは数多くの失敗から学んだこと。

常につねに良い指導をと思う。

2017年2月5日日曜日

このような人は伸びません

お礼を言わない人
謝らない人

このような人は伸びません。

人の立場に立って物事を考えられない人は自己中心的な人です。
自己中心的な人は自分が変わろうとせずに人を変えようとします。
自分が変わろうとしないということは伸びないということです。

これまで数多くの方と接してきましたが、
お礼を言わない人、謝らない人で
人並み以上に上達をする人をひとりも見たことがありません。

人を傷つけたり不快な思いをさせても平気な人は武術をやる資格ありません。

だから当会では会則にそのことを設けています。

人として生まれてきたのなら人を大切にするのは当たり前。
人は支えあって生きているのだから。

もしなかなか上達せずに悩んでおられるのであれば、その原因はあなた自身にあります。

あなたは素直ですか?
人の立場にたって物事を考えられる人ですか?
武術と礼儀は関係ないことだと思っていませんか?

実は一番大事なことであり、礼儀は相手のためだけでなく自分のためでもあるのです。


善い行いは人に喜びを与え、やがて自分にも返ってきます。
悪い行いは人に悲しみを与え、やがて自分にも返ってきます。

太極拳を通して身体と心を同時に磨いて欲しいと願います。

2017年1月28日土曜日

最近のあれこれ

今日で140回達成。
目標は300回。

体のコンディションを調整しながら行っているので目標達成は難しいだろうか。

しかし、当時の私はこんなものではなかった。
競技太極拳の頃はそのために1000回は練習した。

地獄のような練習プログラムを自分で組み、それを毎日こなした。

会う人会う人が応援してくれた。
周りすべてが良い人ばかりだった。

とはいうものの中には冷やかす者もいた。

が、何を言われようが関係ない。
自分が決めたことは最後まで全うするのみ。

嫌がらせを受けたこともあるが、そんなことで動じることもない。
気が済むだけやればいい。
時間を無駄にするだけのこと。

今日、練習中にある人と会ってしばらく話し込んだ。
某連盟で太極拳三段の方。
とてもきさくで良い方だった。

何度も私の動きや姿勢、軸のことなどを褒めてくださる。
自分の中ではまだまだなのだが。

あまり自分では意識してないのだが、
思えば私が以前通っていた道場では先輩方全員姿勢が良かった。
まずそれに驚かされた。

その姿勢の良さが一番如実に表れたのは推手の時だった。
圧倒的に強い。

姿勢が良いと強いということを知った。

そんな先輩の後姿を見て私も頑張ろうと思った。

話は戻るが、
今日、練習を終えクタクタになって自宅に帰る途中、道端で弟子のFさんに会った。
私と目が会うなり、直立姿勢で包拳礼。
Fさん、とてもいい目してた。

良い弟子と出会えたと思えた瞬間だった。

弟子の期待に応えるためにも更に頑張らねばと。

因みに、私が主催する会は、良い人ばかり。

陰で人の悪口を言う人は一人もいない。
露骨に無視したり、
嫌がらせや意地悪する人も一人もいない。
無論、派閥もない。

というより、そういう人を私は許さない。
武術家以前に人間として失格。

皆、お互いを認め合い、称え合い、励まし合い、助け合い、そして一人一人が陰で努力している。

本当に理想的な会だし、
皆のことを誇りに思う。

2017年1月25日水曜日

発勁如虎

「はっけいじょこ」

読んで字のごとく発勁は虎の如くという意味。

今年に入ってから打ち始めた形意拳。
十二形拳、閃電手、その他諸々。

やればやるほど心地よい疲労感と爽快感。

そして肩がどんどん軽くなる。
気功体操をするより今の私は形意拳のほうが体がほぐれる。

崩拳を打ち出す前、
パワーを溜める。

これを蓄勁という。

天地と一体化し、パワーをチャージする。
フル充電状態になったら一気に下腹(あたり)から打ち出す。
この打ち出す感覚が実に気持ちいい。

拳が大砲の弾のように発射され、
それに腕が付いていくかのよう。

形意拳をやり込むと、脱力の重要性がもっともっと分かるようになる。

拳は打つものではなく、打ち出されるもの。
虎が一気に獲物に襲いかかるように。

放鬆することは武術的に大切なことだが、
それよりなにより、放鬆は気持ちいい。

肩のこる武術から離れ、今はそれが何より楽しい。

2017年1月23日月曜日

心が支配する勁力

勁は気によって作り出される力。

そして気を生み出すのは意。

その意を生み出すのは心。

心が意を生み、
意が気の流れをつくり、
その気が勁を生み出す。

勁力を強くするには心を強くすること。

その心を鍛えるにはどうすればいいのだろう?

鍛錬しかない。

日々鍛錬。

当会で行っているのはそのための、気功であり、套路であり、推手であり、散手。

単に筋力を強くしたいなら筋トレをすればいい。

しかし勁力は違う。

筋トレではなく心トレ。

心を鍛えるために鍛錬を行う。


因みに勁力というのはなかなかの厄介者。

筋力は安定しているかもしれないが、
勁力は心が支配しているだけに、その時の心の状態に依存する。

辛いことがあっても、
うまくいかないことがあっても、
くよくよしない。

常に自分の可能性を信じ、一歩一歩前進あるのみ。

一個一個積み上げたものは簡単には崩れないし、強固なものになる。

大事なことは信じること。

信念山をも動かす。

焦りは禁物。

日々鍛錬しかない。

2017年1月21日土曜日

今という時間は二度と帰ってきません。

後で後悔がないよう。

今を大切に生きる。

当会は常に進化しています。
その進化の過程を共に楽しめるのは今。

それでもあなたは映画の結末だけを観たいですか?

今を大切に。

2017年1月18日水曜日

無こそ最強なり

今日、弟子の前で形意拳のある套路を披露した。

しかし自己採点は決してよくない。
そしてその良くない原因もわかってる。

それは、
いいところを見せようとしてしまったこと(笑)

私もまだまだだなと思った。

いいところを見せようとすること自体が
禅でもなければ武術でもなくなっている。

良い時の自分は、何も考えていない。
自分の身に自分を任せている。

無極式(直立状態)から三体式(形意拳の構え)に入る時、
無の状態でならなくてはならない。

私の感覚で言うなら、
無極の状態から太極に入る時にふわーっと自分の体が気化するような感覚になり、
広げた手を下ろしていくと、またスーッと気化した体が元に戻り、
それと同時に゛なにか”が体に入ってくる。

後はその体内に入ってきたものに、やりたようにやらせる。
私の体を使って。

もし出来ない動作があったとしたら、それは練習しかない。
なりたい自分に従い、それを克服する。
そしてそれが出来る自分になってあげる。

その何者かのために。

だから、演武と言うものは立った時に決まるといっても過言ではない。
少なくとも私の中では。

決して、カッコいいところを見せようなどと思わないこと(苦笑)

演武が始まればわかる。
人間の域を超えない力任せの演武になるから。

繰り返すが、
無にならなければ、そのパワーは入ってこない。

競争心、闘争心、虚栄心、
こんなものはゴミ箱行き。

こんなものを持っていると折角のパワーが入ってこない。

無こそ最強なり。

2017年1月17日火曜日

多芸は無芸

多芸は無芸という諺がある。

私の好きな言葉。

その一方、器用貧乏という言葉もある。

実は私は20代の頃、
自分で言うのもなんだが、雑学も割と豊富で仕事も趣味も割となんでも器用にこなすことができた。
そのことで周りからはよく関心されたものだが、
その反面恐ろしいほど貧乏だった(苦笑)
財布の中身はいつも小銭ばかり。
器用貧乏という言葉がこれほど実感できたことはない。

いろいろこなせてしまうから何でも自分でやってしまう。
その結果、自分の仕事が増え、辛くなり、結局長続きせずに辞めてしまう。
だからいつまでたっても手に職がつかない。

そして30代からは変わろうと努力した。
どう努力したかというと、不器用になろうと。
真剣にそう思った。

器用は憧れられるが愛されない。
下手をすれば妬まれることにもなりかねない。
しかし不器用は違う。

不器用と言っても努力しない不器用ではなく努力する不器用。
何をやっても不器用で下手なのだが、
ひとつでもずば抜けた才能の持ち主がカッコいいと思った。

本気で憧れた。
それからというもの、私は毎日のように念じた。
不器用になりたい不器用になりたいと・・

するとどうだろう?
本当に不器用になってしまった(笑)

それまで出来たことが出来なくなった。
知識がどこかにふっ飛んでしまい、絵も字も工作も歌もなにもかも下手になった。
滑舌も悪くなり、喋りもかみかみ状態に。

この時に思った。
人間の凄さを。
願えば叶うということをこれほど実感したことはない。

因みになぜ私は不器用になりたかったかというと、
一番は、自分が器用だと他人の不器用さに苛立ちを感じてしまうから。
こういう自分が嫌だった。

しかし不器用になるとなんと素晴らしいんだろう。
人の不器用さに苛立ちを感じるどころか愛らしささえ感じるようになる。
そして人を理解する力が豊かになり
同時に人を愛することができるようになる。

これこそが私のなりたかった人間像。

器用さと引き換えに大切なものを手に入れた。

さて、ここで本題だが、
これは私の武術にしてもそう。

多くの武術を学ぼうとは思わない。
多くの武術を出来る人を凄いとは思うが全く憧れない。
私の好きなタイプはその流派しかできないけど、達人級の能力を持っている人。

私はそういう武術家になりたい。

私が目指す武術は静かな武術。
楊式太極拳と河北形意拳。

多彩にたくさんの技を使えるより、必殺技をひとつ持っていれば良いという考え。
そのためには立禅と楊式太極拳と河北形意拳だけで十分と考える。

河北形意拳も五行拳だけで良いと思っている。
そもそも形意拳は五行拳しかなかったのだから。

楊式太極拳の十三勢と五行拳、
これだけでも十八になる。

私にとっては多すぎるぐらいだ。

十二形拳も練習しているが、それは技を習得するためではなく、
どちらかといえばウォーミングアップに近い。

覚えた套路や技をどんどん削いで行き、最後には一つにしたいと思っている。

磨き抜かれた゛ひとつ”は全てに勝るのではないだろうかと。

2017年1月16日月曜日

引力と仲良く

今年に入ってからまだブログを書いてないことに気づいた。
書きたいことはいろいろあるが、
ひとまず今回は引力について感じたことを書こうと思う。

地球には引力がある。
引力があるからこそ体が丈夫になる。
引力が人間に与える恩恵は大きい。

しかし体が衰えてくるとこの引力が人間に様々な支障を与える。

体力の衰えと共に腰が曲がってきたり、
頭を支えきれず首が下がってきて肩こりが生じたり、
歩くのが辛くなり、体重を支えきれず体の節々が痛み出す。

体だけではない。
肌も引力に従い、弾力を失った肌は下へ下へと垂れて来る。
老化現象の始まりだ。

私は過去に大きな交通事故でむち打ちになり、その後遺症は今も尚続いている。
整形外科医にかかった時に先生に言われたことは、「肩こりは引力との喧嘩」と仰られた。
確かにそうだ。

引力によって支えきれなくなった体をなんとか支えようと筋肉を使う。
短時間ならまだいい。
起きている間ずっとその筋肉を使わなければならないのだ。
コリが生じて当然。

辛いが仕方ない。
この体と付き合っていくしかない。

しかし逆に考えれば、首を少しでも傾けると酷い首の痛みと肩の痛みに襲われるから、首を真っすぐにしようとする。

首を真っすぐにすることを虚霊頂頸(きょれいちょうけい)という。
この虚霊頂頸を普段の生活から心がけると、首の痛みや肩こりから解放され、
それだけでなく生活そのものが楽になる。

なぜなら首を真っすぐに伸ばすことで軸が真っすぐになるからだ。
軸が真っすぐになれば、余分な筋力を使わずに済む。
小さな力で動くことができるようになる。

因みにこれは太極拳では絶対必要なこと。
太極拳では化勁を使えなければ太極拳とは言えない。
太極拳では相手の攻撃を受けずに流す。
この時に軸が重要になる。

今日の散手の時間では「撫でる」という表現を使ってみた。

この化勁を使うと、自分はほとんど力を必要としない。
それなのに相手を崩すことができる。

戦おうとしたり、対抗意識を燃やしたら失敗する。
太極拳は中国で生まれた最高の護身術。
戦うために編み出された武術ではない。

当会のことをネットで「戦えるのか?」と書き込んでいる方がおられるが、
一体誰と戦おうというのか?
太極拳は喧嘩の道具ではない。

というより戦おうとしている精神そのものがすでに太極拳ではない。

技を習得するために何年も立禅を行い、
天地と繋がり、
悟りを得、
人間として生まれてきた意味と目的を知る。

これを解脱という。

この境地に至って初めて、
戦わずして相手の戦意を喪失させることが出来ると私は思っている。

太極拳で得られることは、美しい演武やカッコいい演武ではない。
それはあくまでも過程であり、目的ではない。

今までにない感動の歓びが得られる境地に至ることこそが目的であり
それを広め、多くの人々とその境地に向かうことこそが世界平和に繋がると信じる。

そして、
その世界に至ると「争う」ということそのものが完全消失する。

これは私の過去の体験談であり、
今度は武術というジャンルでその境地に向かう修行を行おうとしている。

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書いているうちに書きたいことと違う内容になってしまった・・
またこの続きは次に機会に書こうと思う。