2017年12月29日金曜日

意力が威力に変わる

昨日午前、稽古納めを終え、
その後弟子との今年最後の稽古を行った。

弟子の意気込みは増すばかりで、それと同時にどんどん勁力を上げている。
速い突きはことごとくかわし、あらゆる攻撃に対しての柔軟性も身につけ始めている。
いなす力だけではなく、発勁力も確実に上げている。

私は基本、相手の稽古台になる時は自分の勁力を試すことはしない。
最終的に勁を勁で返すことはやってみせるのだが、
それまでは感覚を掴んでもらうための相手役に徹するようにしている。

勝負をしているのではなく
稽古をしているのだから当然と言えば当然なのだが。

散手での発勁は、あの小さな体からは考えられないパワーがこちらに伝わり
踏ん張らなければ簡単に吹っ飛ばされる。

話を聞くと、学生時代、勉強も運動も苦手だった上に大人しかったため
人に見下されたり馬鹿にされたりすることが多かったらしく
それだけに「強くなりたい」という気持ちが人一倍強かったようだ。

その念願は今の時点でも十分叶っていると思う。
彼女は本当に強くなった。

そんなこんなで彼女には速い突きは通用しなくなってきたので、
次なる段階の稽古を始めた。

そして私もようやく腰を据えて推手ができるようになってきた。

まず推手で大事なことは、姿勢と脱力。
姿勢の良さは強さに比例し、姿勢の悪さは勁力を下げる。
姿勢が悪いと、相手に隙を与え、いなすことも出来ず、打つこともできない。
姿勢は大事。

次に脱力。
力んでると相手に攻撃の機会を与えることになる。
打たれまい、崩されまいと頑張るのは逆。
力を使おうとすると、それを相手に利用されてしまいそしてその力で今度は自分が崩されてしまう。

打たれまい、崩されまいという意識は太極拳では全く役に立たない。
そんなものはドブに捨てよう。

大事なことは、自分という存在を固体としてみないこと。
液体でもない。
気体でもない。

あるのは魄だけで、相手の魂を感じ、
そして起きていることを素直に受け入れ、それを自分の魄に任せる。
そんな感覚。

意が氣を作り出し
氣が勁を生む。
勁はパワーであり、その威力は無限大。
その力は筋力を遥かに凌ぐ。

太極拳が益々おもしろくなる。

太極拳を踊りやスポーツとして楽しむのは自由だが、
本当は皆、不思議な力を手に入れたいと思っているはず。

アニメやゲームだけの世界に終わらず、
それをリアルで体験できるならこんなにおもしろいことはないし、
少なくとも私は生涯かけてやりたいと思う。


2017年12月28日木曜日

欧米人が伝統に拘る理由

ふと思ったのだが、
欧米人が制定拳を行っているをほとんどみたことがない。

一方、伝統拳では白人や黒人などの外国人が多い。
これは太極拳に限らず日本の伝統武道に関しても同じことが言える。

(これはあくまでも私の経験上であり決して全てではない)

アメリカは自由の国。
自由を愛するが故に常にクリエイティブなことにチャレンジする。

一方、ヨーロッパはその国々を見ればわかるとおり
歴史や伝統を重んじる民族(国)が集まっている。

こう考えると、これらの国々の人々に制定拳が合わないように感じるのは気のせいだろうか?

そもそも
制定拳のルーツは?
なぜ制定権が生まれた?
その理由は?

私が知る限り制定拳の名人や達人というのを聞いたことがない。
制定拳で天下を取ったとい話も聞いたことがない。
それもそのはず、制定拳は護身武術としてつくられたものではないからだ。

江戸時代、武士が国を治めていた時代は終わり刀を取り上げられ、
その後剣術、剣道として伝統が受け継がれた。
太極拳もまた、文化大革命の時に武術の要素を省き健康体操として世に広めるため政府の指令によってつくられた。

しかしだ、
伝統武術を伝えて行こうという動きは人目には触れなくとも確実に受け継がれようとしている。
YouTubeなどで見られる武術はごく一部で、そのほとんどが表面的なものに過ぎず、私の知る限り伝統を受け継ぎながらも更に進化させるべく修行を積む者は決して少なくない。

いずれも日本は欧米と比べるとそのほとんどが制定拳の武術愛好家。
太極拳発祥の地である中国も同じく、かつて名手だった著名な武術家も代を受け継ぐごとに表演武術に成り代わってきているように思う。

太極拳に対する一般的なイメージは「健康体操」か或いは「踊り」 と思っている人がほとんど。
どちらでも構わない。
しかしそれはあくまでも太極拳の副産物であり主なるものではない。
太極拳の目的は己を鍛えることにあると思うから。

人間が病気にならず健康でいられるのは、常に体内で免疫細胞が病原菌と闘っているから。
その闘いに敗れると、それを病気や死と言い、逆に勝てば健康と言う。
いわゆる闘わずして生き残る道はないということ。

だから武術として行う太極拳こそが最強の健康法であると私は信じるし、
その証拠としてこれまで数々奇跡的な体験をしてきた。

今後日本はどうなるのだろう?

制定拳を行うのは、太極拳を始める入門としては大変優れていると思う。
そして次のステップとして最強の健康法を手に入れるためにも伝統太極拳を始めて欲しいと思う。

人間は医療の進歩と共に、人間自身も進化している。
あらゆる病原菌に対する抗体を持ち、犠牲者を出しながらも進化している。

ここまで私が話した理由、
察して頂けるだろうか?

武術は敵から自分や家族を守るために生まれたが、
自分自身と闘うことでも武術は大変優れる。

だから、
少なかろうが、
受けいれられなかろうが、
有名でなかろうが、
元来の武術としての太極拳を伝えて行きたいと思っている。

2017年12月22日金曜日

禅に戻る

太極拳は元々、道教から生まれた武術だと言われる。
いわゆる元は禅であったということ。

禅とは瞑想することで悟りを得るための業で
瞑想とは無我無心の状態のこと。

又、悟りとは煩悩(ぼんのう)から解放され神と繋がること。(全知全能の状態)
更に、煩悩とは自分の心を不安定にする要素(欲望や妄想)

あるダンサーが太極拳を見て舞踊だと言ったという。
それは舞踊化した太極拳を見てそう思ったのだろう。
本来、太極拳は禅であり、護身武術なのである。

仮に私が太極拳の套路を練る時に何を意識するかというと
軸と脱力と気の流れだ。

なぜこれらを意識して動くかと言うと、
套路は高次元護身武術である太極拳の鍛錬方法の一種であり踊りではないから。

あえて高次元と言ったが、
それは単に見た目の動きだけを重視しているからではないからである。

ヨガも最近ではパワーヨガやホットヨガなど様々な種類があるが、
私が学んだヨガは自己の能力を最大限に引き出すためのスピリチュアルヒーリングであり
柔軟性を高めるための体操ではない。

私の知る限り人間の持つ霊的センターである7つのチャクラを開発することが目的である。
最終ステージである7つ目のチャクラが開いた時に悟りを得ると言う。

ヨガを世に広めるために、ファッション性を取り入れたり、
美容やダイエットなど多くのニーズに応えるため、
本来のヨガから気軽に楽しめるヨガへと多様化してきたことを見ていると、
武術もまた同じ道を辿っているように見える。

先月、師の元で稽古させて頂いたが、
師は決して私の演武が上手いとか下手といった表現をされることはない。

その代わり言ってくださることは、
「丹田が出来てきた」といったいわゆる内面的なこと。

私は太極拳を美しく演武出来るように修行しているのではなく
丹田を鍛え、丹田を開発するために修行している。
だから師のお言葉は実に嬉しい。

ヨガも太極拳もチャクラや丹田を開発していくということでは共通している。

共通している点は・・
第2チャクラ=下丹田(かたんでん)
第4チャクラ=中丹田(ちゅうたんでん)
第6チャクラ=上丹田(じょうたんでん)

ヨガは会陰である第1チャクラから開発していくが、太極拳では下丹田から開発していく。

更に太極拳では天地人(てんちじん)という考えがあり、
その3つの丹田と更に天と地を繋ぐ。
ヨガでも同様に7つのチャクラと天と地と繋がることがテーマとなっている。

太極拳ではその基本を立禅で鍛え、立禅から学ぶが、
坐禅やヨガの瞑想もそれと同じものだといえるだろう。

実は今回私がお話したかったのは
「太極拳は一体なにであるか?」ということ。

太極拳もまた多様化し舞踊やスポーツとして親しまれるようになってきた。
しかし本来の太極拳は踊りでも運動でもない。

太極拳を普及させるために様々な方法でアプローチするのは良いことだと思うが、
その根源や目的意識を見失ってはいけないと思う。
これが私が伝統太極拳に強く拘る理由であり、いずれ伝統が見直される時期が来ると信じている。

太極拳は禅に戻る。

それは物質世界に飽きた人類が精神世界に戻ろうとしている流れに沿うものであり
今後多くから求められることになるからである。

2017年12月16日土曜日

背中がきれい?

昨日、Kさんの個人レッスン中に、
「先生は背中がきれいですね」と言われた。

背中がきれい?

最初ピンとこなかったが、話を聞いているうちになんとなく意味がわかってきた。

いわゆる背中がピンと伸びてるというだけでなく
その中にゆるみを感じるということらしい。

言われてみれば、私の背中は硬かった。
もっと遡れば姿勢も悪かった。

子供の頃、小児喘息で、発作が起きた時にその辛さを少しでも和らげるため
丸めた布団の上においかぶさるようにし、そして背中をまるめる。
どうやらこの癖がそのまま残ってしまったようだ。

それが太極拳を始めてから姿勢が良いと人から言われるようになった。
しかし今から思えば最初の頃の姿勢は決して良くなかった。

私が本格的に姿勢を正そうと思ったのは
先輩方の真っすぐな背中を見てからだった。
もう、それだけでスゴイと思った。

デキる先輩は姿勢がいい。
演武がカッコいいだけでなく、推手も圧倒的に強い。

それからだ。
本格的に姿勢矯正に取り組みだしたのは。

これが意外と苦労した。
なぜなら姿勢を正そうとするとどうしても力みが生じてしまうからだ。

肩を上がらないようにするのもそうだった。
今のように自然と肩を落とすことはできず、力を入れて肩を下げていた。
しかし今思えばそれで良かったのだ。

姿勢を良くするためには長年の悪い姿勢を直さなくてはならないわけだから
単にゆるめるだけではそうはならない。

鏡を見ながら格闘の日々が続く。
どうすれば先生や先輩のように姿勢が良くなるのか?

物理的に体のあちこちを突き出したり引っ込めたり・・
あるいは、背中にトンボのような羽がついていて、それを下に下ろしているようにイメージをしてみたり、
或いは背中がどろどろ溶けていくようにイメージしてみたり・・
立禅を行う時は、前を向いたり横を向いたりしていつも姿勢チェックをしていた。

鏡を見ながらの練習をすすめない先生もおられるようだが、
私は絶対鏡を見ることをすすめる。

私は美容の仕事をしていた時、女性にいつもこうアドバイスしていた。
「鏡をみなさい」と。
見たくても見たくなくてもとにかく鏡を見る。
そしてその変化をしっかり観察する。
そして次に大事なことは「変化に気付くこと」
変化に気付くことができればやる気につながる。
やる気になってしまえば、どんどんきれいになっていく。

これは姿勢改善も同じ。
人間嫌なものは見たくないもの。
しかしそこから逃げていたらいつまでたっても改善されることはない。

そしていつまで鏡を見続けたか?
もちろん姿勢が直るまで。
いや、それでもやめなかった。
気を許すとすぐにまた元の悪い姿勢に戻ってしまうからだ。

だから、姿勢が直ってからも、時折チェックすることを欠かさなかった。

それで結果どうなったか?
姿勢が良くなると套路も推手も散手も全て良くなる。
まるっと良くなってしまうのだ。

太極拳と言えば、ゆるめることとかやわらかく動くことをよく言われるが、
真っ先にやらなければならないのは姿勢。
姿勢がすべてを良くしてくれるからだ。

姿勢が良くなってしまえば、あとはゆるめることに専念すればいい。
そうすると背中の真ん中をすぅーっと氣が通るようになる。
今度はその「氣」が背中を自然に真っすぐにしてくれる。

太極拳の始まりはここからなんだ。

2017年12月15日金曜日

50歳からの太極拳

昨日の教室で最近入会された方の歳を尋ねると70歳とのこと。
また、現在80歳の方もおられる。
どちらも男性である。

20代の方も80代の方も男女問わず一緒に気功を行い、
太極拳で型を練り、
推手を行い、
散手を行っている。

因みに推手とは太極拳の最も基本的な技術を身につけるための二人で行う太極拳で
散手とはいわゆる技の練習のこと。

この20代も80代も一緒になって
推手や散手で対練が出来るのが太極拳のおもしろさだと思う。

例えば、腕相撲なら高齢者は若い人に敵わないだろう。
しかし推手となると話は違う。
なぜなら力を使う方が不利になるからだ。

もし相手が太極拳初心者なら力で勝つことができる。
しかし伝統の太極拳を幾年か嗜んでいる人なら、素早い突きもことごとくいなされてしまうだろう。

太極拳で大事なことは、
力を抜くこと。
そして柔らかくなること。

女性や高齢者に太極拳が向いていることが頷ける。

私が太極拳を始めたばかりの時、
どうやらガチガチだったようで、まずそのことを先輩から指摘された。

太極拳は見た目も闘うというより、まるで踊っているかのように見えるのに、
さらに力を抜くようにと教えられたことが私にとっては驚きだった。
「これで一体どうやって戦うんだ?」と。

実際、先生に技を掛けられると、空を打たされ宙を舞うことになる。

もう、これまで何度も書いてきたことだが、
私が太極拳に対し強烈な興味を持ったのはこのことが大きい。

弱そうに見えるのに強い。
カッコいい。

太極拳は50歳からと先輩に教わったが、
実際50半ばになってみてその意味がようやくわかってきた。

良く言えば力が抜けてきたということになるが
いわゆる体を動かすことがめんどくさくなっているということ。

かつて喧嘩っ早かった自分が今は喧嘩するのもめんどくさい。
パワーが有り余ってるから遠回りばかりしていた自分が
今ではいかにラクにできるかと考える。

余計なことに気を取られることなく、
必要なことだけに目を向けられるようになったとも言えるだろうか。

太極拳で散手を行う時も早くて華麗な技よりも、
ほとんど動かないで相手を崩す方法を選んでしまう。

先日、ある人に下勢(かせい)の使い方を聞かれたので、やって見せたが、
正直言うと面倒だった・・(苦笑)
しゃがんで、立ち上がって蹴るなんていう大技は力ある若い人に任せて、
私はラクをして相手を崩せる単鞭(たんべん)や提手上勢(ていしゅじょうせい)などを最近好んでる。

こんなことを言うと、
まるで練習せずにラクして強くなりたいと思ってるように思われるかもしれないが、
そうではない。
ラクに技を掛けられるようにするためには地味な練習が必要。
それが立禅であったり、基本功であったり。

特に私の中では立禅は最高に楽しい。
ただ立つだけの鍛錬だが、得られることは実に多い。
動いている時には気づけないことに気づくことができる。

先程、立禅を行いながら思ったことは、
「これだけでもいいのでは?」ということだった。

その意味を話すと長くなりそうなので、ひとまず今回はこの辺で。

2017年12月10日日曜日

飛んでいる矢は止まっている

ゼノンのパラドックスに「飛んでいる矢は止まっている」という説があるが、
これは時間という概念からその一瞬は止まっているということを示している。

実際に飛んでいる矢を早いシャッター速度で撮影すれば静止して見える。
当たり前と言えば当たり前なのだが。

これとはまた意味が違うのだが、
私は太極拳の練習をしている時、いつもこの矢のことを思い浮かべる。

いわゆる、その一瞬一瞬は止まっている矢のごとく、
立禅(站椿功)の連続であるということ。

太極拳はゆっくり動く。
その意味はゆっくり動かなければ鍛えられない筋肉を鍛え、
極限まで力を抜きゆっくり動くことで氣の力を強めることができるから。

それに太極拳の動きは常に円であることから、
早い動きで練習してしまうと円ではなく直線に近づいてしまうことにも気づくだろう。

円の動きをしっかり体に染み込ませていくには
ゆっくり動くのが最良の方法であることもわかる。

本日、当会で3度目の検定試験を行った。
1度目、2度目と比べると全体的にレベルが上がったと確信した。

特に嬉しかったのは、かつて何度言ってもゆっくり動くことをせず、
まるで早く終わらせてしまいたいと言わんばかりに速くて雑な動きだった人が
今回の試験ではとてもゆっくり丁寧に動こうとしたこと。

私はいつも言う。
「早く上達したかったらゆっくり練習すること」

しかし、何度言っても早く上達したいからと早く動いてしまう。
そして、いつも同じところで同じ間違いをしてしまう。

もうこれは仕方のないことなのだと思った。
せっかちな性格がそのまま出てしまうということ。

そこで私はゆっくり動くことから、静止することをすすめる。
立禅というのは決まったポーズとは限らない。
自分で立禅をつくってしまっていいのだ。
自分の苦手がわかったら、その形の立禅を行えばいい。

少なくとも私はこうして自分の苦手を克服してきた。

止まっている矢のごとく、静止する鍛錬を行う。
そもそも站椿功(立つ鍛錬)は、最初に站椿功があったのではなく
正しい動きを身につけ、勁力を上げるために生まれた鍛錬法であると。

動いてしまうとついつい筋力に頼ってしまうが、
静止すれば立つための筋力だけで済むので、沈む感覚を養うことができる。

こんなふうに、太極拳をやり込んでいけばいくほど、立禅(站椿功)の重要性に気付く。

頭ごなしに「立つ練習をしなさい」と指導するのではなく
「なぜ立つことが重要なのか」と自分で気づくことが大事だと思う。

2017年11月29日水曜日

近づいて来てくれること

来月10日に、当会では3度目の検定試験を行う。

1回目、2回目に比べ受験者は減ったものの、
それぞれ皆の意識が高まり、それに伴い確実に実力が上がっているのがわかる。

太極拳では体を十分ゆるめリラックスすることが大事だが、
師からは脱力だけではなく緊張することも大事だと教わった。

確かに緊張を味方につければ普段以上の力を出すことができる。
このことは武術に限らず様々な分野で経験してきた。

試験を受けようとすることで変わる意識は、やはり自分に厳しくなることだろうか。
弱点を放置せず徹底的に克服しようとする。

それに集中力が高まる。
人間集中すれば高い能力を発揮することができる。
試験という目標を決めることで自分の能力を最大限に引き出すことができる。

いわゆる「やればできる」ということ。
やれば出来るのにやらないのは実に勿体ない。
上を目指す人にとっては時間を大幅に節約することができる。

普段なら何度教えても出来ないことが、その場で出来たりする。
これは教える立場としてはとても嬉しいこと。


私は皆とやりたいことが山ほどある。
あれも、
これも、
一緒にやりたいと。

だが、今やっていることをほったらかしにして先に進むわけにもいかない。
先生自身が今やりたいことを生徒にやらせるのはそれは先生のエゴでしかない。
逆に生徒のやりたがることを自由にやらせるのもエゴ。

やさしい先生と思われたい。
自分も生徒も信じることが出来ない。
私の中ではそれは先生失格。

本当のやさしさは生徒の言いなりになることではない。
本気で生徒のことを思うならば
正しい武術を身につけてもらうため、
足元からしっかり固めるための地味な稽古を指導することになると思う。

基礎も出来ておらず浮足立った状態で套路ばかり覚えても
それはカッコだけの演武に過ぎず、技も氣も練ることができない。

だから、早くここまで来てくれと心の中で叫んでいる。
近づいてきてくれることは、私にとっての喜びでもあるから。

2017年11月24日金曜日

早過ぎる回復力

何かあるごとに気功をやっていて良かったと思うこと。

それは、体調不良や風邪、怪我の治りが驚くほど早いこと。

ここ数ヶ月、仕事によるストレスで精神的に滅入っていたせいか
先日うかつにも体調を崩してしまった。

最初、数日間筋肉痛ぽい腰痛が続き、
その後、突如として発症した酷い眩暈と今までにない激しい耳鳴り。

それに強い吐き気が加わり、
レッスン終了後、堪りかねて幾度となく嘔吐を繰り返した。

その日の夜はサークルでの指導があったので
体調不良に耐えながらもなんとか指導。
呂律が回らず、眩暈で独立歩の時に倒れそうになったがなんとか持ち堪えた。

そしてその日は早めに寝た。

翌朝、眩暈と吐き気は治まっていたが、今度は頭痛が始まった。
この日の午前はサークルで指導し、午後からはしっかり体を休めることにした。

その翌日。
ほぼ完全に体調が戻った。

数日間はこの状態に耐えながら仕事をしなければと思っていたが、
あまりにもあっけなく治ってしまったので自分でも驚いてしまった。

症状からすると長引きそうな状態も、最悪だったのは一日だけ。
しかもその日は最悪ながらも2つの仕事をこなしている。

骨折は5日で完治。
臓器損傷は3日で完治。
内出血は2時間で完治。
打撲は瞬時。
激しい眩暈と嘔吐を伴う風邪も1日で。

因みに、
これらは気功によって治したのではない。
普段行っている気功によって治癒力が上がり回復が早くなったということ。

人間の治癒力は無限のパワーを持っている。
最高の名医は自分に中にあると、改めて感じた。

2017年11月16日木曜日

太極拳の技と氣のはなし

今日はKさんのプライベートレッスンの指導を行った。

「私、納得しないと先にすすめないタイプなんです」とご本人。
それはそれでとても良いことだと思う。

私もかつてそうだった。
太極拳の型を見ているとまるで踊っているかのようにか見えない。
いつ?どこで?どんな技を使っているのがさっぱりわからない。
しかし先生に技をかけてもらうと一瞬で自分の体が宙を舞い床に叩きつけられる。

このギャップこそ、私が太極拳に最も興味を抱いた点だ。

それに、技を見せないのが太極拳の技であることも後にわかった。

そんなKさんを指導して間、私は質問攻めに。
「これはどういう技なんですか?」
「これはどこを打ってるんですか?」
などなど。

それに対し私は、
「この両拳で相手が突き出した腕の骨を砕き、
右拳で肋骨を折り、
左指先で相手の目か喉を突いて、
両掌から気を発射し心臓を破裂させ、
最後にそのまま吹っ飛ばす・・」

周りにいた人たちはこんな会話を聞いてどう思っていただろう。
私は指導に夢中で聞かれたことに答えただけなのだが
こんな残酷な話を平然してしまってる自分を後になって気づいた。

いずれも、太極拳には様々な技が含まれている。
日本武道でいう、空手、柔道、剣道、合気道、相撲
これらすべての要素が太極拳に入っている。

これを8つに整理したものが、太極八法と言われるもの。
掤、履、㨈、按、採、挒、肘、靠
(ほう、り、せい、あん、さい、れつ、ちゅう、こう)

掤で相手の攻撃をさばき
履で崩す
㨈で打ち込み
按で飛ばす
採で相手を掴み
挒で相手の動きを制し
肘で骨や関節に打撃を与え
靠で体当たりする

先程あげた日本武道の攻撃方法がすべて入っている。

更に太極拳の練習を行う前には必ず気功を行う。
気を練ることを練功というが、これによって力学上の技だけではなく
気を発射するという技が加わる。

太極八法の技にはまたそれを防御する技もある。
力学対力学の戦いになるが、その選択を瞬時に行わなければならない。

これは頭から指令を送っていたのでは間に合わない。
だからこそ普段からしっかり体を鍛え技を練る。
それによって頭ではなく勝手に動く体をつくりあげていく。
理屈ではなく、練習あるのみということになる。

しかし気を発射することに関しては受ける側は防御する術がない。
気は肉体だろうがコンクリートだろうが金属であろうがなんでも貫通してしまう。

これを防ぐ方法なないのだろうか?

氣による攻撃を防ぐ方法は・・
それもまた氣である。
また、氣で負ったダメージを治すのも氣しかないと言われる。

いわば気功によって
攻撃だけではなく防御力をも身につけることができる。
更に気功治療にも使え、
気功により免疫力、治癒力が上がるので怪我だけでなくあらゆる病気をも治してしまう。

先程私は太極拳に興味を持った理由は、見た目の華やかさとは裏腹に恐ろしい技が隠されている点と述べたが、
今、私が伝統太極拳を広めようとしている理由は、上記のことが理由である。

病をこの世から完全に失くすことは出来なくとも
病を未然に防ぐ方法、病を早期に見つけ治す方法を皆が身につければ、
人はもっともっと人生を楽しめると思うからだ。

これこそが私が生まれて30年間病で苦しんできた理由であり
健康の尊さを知ることができた私の役目だと思っている。

2017年11月15日水曜日

丹田氣圧

丹田に氣がたくさん集まってくると、
体が張り詰めたような感覚が得られる。

何で張り詰められるかは、よくわからない。

空気のような・・
水のような・・
はたまた光のような・・

丹田の氣の圧力が上がると、体全身の膨張率が均一になる。
学校で習ったパスカルの法則だ。

体全身が氣で満たされた感覚が得られ始めると
それがどんどん膨れ上がり皮膚で持ちこたえられなくなり
やがて体から氣が漏れ出す。

この状態に至ると、心に大きな変化が起きる。
全く恐れのない感覚。
全く不安のない感覚。

確かにこの状態で推手をすると、相手が動く前から動きを読むことが出来るし
どのような形で打ってこられても軽々といなすことが出来る。
それもそのはず、相手が打ってくるのが予め解っているのだから。

この状態になるには、
たっぷりと身体をほぐし、
たっぷりと立禅を行う。

「今日はもうしんどいからやめよう」と思ったらそれでおしまい。
氣で満たされた感覚を得るのはその先にあるから。

頭のてっぺん(百会)からパワーがどんどん入ってきて、
全身があたかも光の塊のような感覚を得る。

丹田の氣圧がマックス状態になると起きるこの光膨張現象。

こんな話をすると頭がおかしくなったのではないかと思う人もいるだろう。

でも考えてみて欲しい。
人間の体は何で出来ている?

筋肉?
ではその筋肉は何で出来ている?
タンパク質?
ではそのタンパク質は?
アミノ酸?
アミノ酸は?
リボソーム?
リボソームはリボンのような形をしており、
ぎっしり詰まっていると思っている筋肉そのものだってスカスカなのだ。

更に量子的に見ると、
それさえも原子核の周りに電子が回っている原子構造の集大成。
まるで太陽の周りを公転する地球のよう。

その原子核と電子の距離にしても、
仮に原子核が直径1㎜としたら電子までの距離は大体50mと言われる。
もうホントにスカスカで、
人間が透けて見えないのが不思議なほど。

なぜ透けて見えないかは引力と斥力が関係していると言われる。
ちょっと難しい話になってしまうので、話を戻すが
とにかく、人間は宇宙そのものであるということ。

だからこそ宇宙と繋がることが出来る。
その方法のひとつが禅である。

私が何故武術を続けているかというのは、
演武が上手くなりたいとか、
喧嘩に強くなりたいからではない。

まだ見ぬ人間の可能性をとことん追求したいからである。

2017年11月7日火曜日

氣の重さ

今、気功をたっぷりやってみた。

スワイショウに時間をかけ、軸から生み出されるパワーを味わう。
とても気持ちがいい。

立禅では様々な氣の巡らせ方があるが、
いつもの如く、天地人を意識した大周天て氣をめぐらせる。

足裏から天へエネルギーが突き抜ける感覚。
天から体内にエネルギーが入り込む感覚。
またそれが足裏に落ちる感覚。

立禅で両掌を向かい合わせるとすぐに氣が集まってくる。
氣のボールには幸福感や勇気などのやわらかくも強烈なエネルギーを掌で感じる。
このボールには不安や恐怖感など一切ない、
ただただ、ひたすらパワーを感じる。

幸せが自分の手の中にあるなんて、おもしろいし、
なんだかメルヘンチックだ。

これを、体の中に取り込むとエネルギーが注ぎ込まれ元気を生み出す。
まるで新たな魄を得たような感覚。

からだが氣のパワーで満ちた状態で体調を崩すことはない。
仮に崩したとしてもすぐに治る。
ぶつけたり転倒したりした痛みや怪我もわずかで済み、しかもすぐに治る。
この氣の塊は世界最強の治療薬と言いたい。

太極拳を行っていて体調が悪くなるということは間違った鍛錬法を行っていると言うこと。
すぐに中止し、正しい気功法、鍛錬法に正して欲しいと思う。

それに、指導していていつも思うことは、
稽古をサボってばかりいる人はしょっちゅう体調を崩している。

もし、ドラッグストアに副作用の全くない何にでも効く万能薬が売っていたとしたら絶対買わないだろうか?
気功や太極拳を十分実感している人なら私が何を言わんとしているかわかるはず。

ところで立禅と太極気功を行っていて感じること。
いわゆるその氣の重さである。

鉄の塊を持っているような重さではなく、
それはまるでふわふわの綿のようにやわらかいのに
不思議なことにズッシリとした重みを感じる。

これは一体なんだろう?

ここで感じたことは、
氣のひとつの捉え方として重力波なのではないかと。

確かアインシュタインの相対性理論では重力は光をも曲げる力を持っていると覚えているが
もし、自分自身でこの重力を生み出すことが出来るのだとしたら
人間はドエライいものを作り出すことができると言うこと。

実際に勁力を測定する実験が行われた例があるが、
氣の力によって生み出された勁にはとてつもない破壊力があり、
3センチぐらいの距離から打ち出した拳で100㎏程のコンクリートの塊を吹っ飛ばすパワーが確認されている。

形意拳の達人であった郭雲深が崩拳で壁をぶち破ったとの逸話があるが
まんざら嘘でもなさそうだ。

以前、氣は水であり、煙であり、光であり、電気であると書いたことがあるが
重力波でもあるという仮説。

重力をも生み出すことの出来る人間の可能性に益々興味が湧く。
この世界は実におもしろい。

2017年11月4日土曜日

武者修行

先日の武者修行で得たこと。

4時間ぶっ通しの稽古で得たものは、とてもではないが言葉では言い表せない。

帰りの新幹線と電車の中でその日の稽古を振り返り
思い出す限り師から教わったことを書きだすこと約3時間半。

しかし書いたことはあくまでも言葉やイラストに過ぎず
最も自分の中で衝撃を受けた感覚はどうしても言葉にできない。

解ったことは、
自分が知ってる内家拳は氷山の水面下約数センチ足らずの部分だと感じたこと。
その奥深い世界は師と手を合せして始めて知ることになる。

去年もショックを受けたが、今回もまたショックを受けた。
それほど想像を絶する世界。

これまで何度も書いてきたことだが、
手を合わせてみなければわからない感覚と言うのは
今後どれほどITが発達しても人からでなければ決して得られないもの。

一生決して使うことのない殺人技を教わり、
それを使えるようにしておくことの大事さ。

よくわからないが、自分にとって必要なことだけはなんとなくわかる。

更にもっともっと修行を積まねばと思った。

2017年11月1日水曜日

疲れを知らない太極拳

昨夜の稽古の時、
60代のHさんがとても嬉しそうにこんなことを話してくれた。

「今日、山の辺の道を歩いてきました」
「20キロ歩きましたが全然疲れなかったし、こうして今日も稽古に来てます」
「太極拳やっぱりすごいです」と。

こういう話を聞かせてもらえると、
4年半前この会を立ち上げて本当に良かったと思える。

思えば私も太極拳を始める前、長年の在宅ビジネスでめっきり体力が衰え
20キロどころか、数百メートル歩いただけでも息切れし、
しかも足が立たなくなりその場にしゃがみこんでいた。

一日平均15時間パソコンの前に座りずっと仕事。
現実と仮想の区別さえつかなくなりそうになっており
毎日起きる酷い頭痛、腰痛、肩こり。

当時30代だった私は60代のHさんに体力で完全に負けていたことになる。

いずれもこのままでは良くないと思い始めた太極拳。
それからみるみる体力を取り戻した。
そして精神力も上がってきた。

頭痛や肩こりからも解放され、老化しまくっていた私の体は若さを取り戻した。
ビジネスも上向きになりサラ金の借金生活から、日本と海外の二重生活が出来るまでに。

それから2年後には幼い頃からの夢だった飛行機の操縦をバンクーバーの空で体験したりもした。
自分で握る操縦桿で空を飛ぶ。
小学生の頃の夢が30年以上経って叶った。

太極拳が私に与えてくれたものは健康だけではない。
単に風邪をひかなくなったとか、そういうレベルではない。
ここに書きだしたらキリがないぐらいのものを得た。

だから、太極拳によって「変わった」という話を聞かされるのはすごく嬉しい。

その一方、昨日もある人から辞めるとの連絡。
無論辞めるのは本人の自由だが、
太極拳で手に入るものを知らないから簡単に辞めることができるのだと思う。

健康、お金、時間、友達、強さ、心のゆとり・・
そして太極拳でしか得られない空間との一体感を得られるスピリチュアルな世界。

太極拳をラジオ体操感覚でおこなうのもよし。
しかし、太極拳で得られるものはそんなものではない。
普通の人生では決して得られない世界に入ることができる。

これまでと見える世界が変わって来る。
悪いことも辛いことも風のように去って行き、次々と起こる輝かしい未来。
あらゆる柵から解放され、自分の歩む人生が一筋の光のように見えてくる。

これこそが禅に求められる世界なんだと思う。

辞めるのは自由だが、大きな財産を目の前にし簡単に諦めてしまって良いのか?
「人生なんてこんなもん」なんて思ったら終わり。

一度きりしかない人生、
まだ見ぬ世界を知るため
登れるところまで登りつめたいと思う。

2017年10月29日日曜日

地球一周

今日自由練習会で弟子と震脚の反復練習を行った。
本人も気づいていたようだが、
他の会員さんが見ててもやはり音が全然違うという。

「そりゃ、震脚だけでも今まで10000発打ってきたんだから違って当然」と答えたが、
よくよく計算してみたら20000発は打ってることがわかった。

私は今自分が行っている課題に対し苦手をつくりたくない。
苦手は当然いくつも出てくるのだが、それを克服するための練習法をその都度編み出し、克服出来るまで何度でもそれを繰り返す。

三体式だけでも200時間以上はやってきたし、
竜形でブレずに立てるよう、そのための站椿功を60時間行った。

立禅は500時間以上は行ってきたし、
今後もずっと続けていく。

今、毎日平均30分ぐらい走圏(歩く鍛錬)を行っているが、
まず最初の目標は東海道横断。
現在距離にして300㎞ぐらいだから約3/5歩いた計算になる。

そして次に日本横断。
約2700㎞
そして地球一周。
約40000㎞
10年ぐらいはかかるだろうか。

太極拳を始めてから15年になるが、やればやるほど基本功を徹底的にやりたくなる。
新しい套路に興味がわかない。

せいぜい後2~3ぐらい習得したら
その後は徹底的に基本功に時間をかけたい。

新しい套路ばかり追いかけていた頃に比べ
今は断然自分の中に沸々とパワーを感じるようになってきている。
決して人に対して出すことのないパワーを体の中に封じ込めて行く作業が楽しい。

引っ張られる感覚。
沈む感覚。
中から体が熱くなる感覚。
掌が燃えるように熱くなる感覚。
空気に粘りを感じる感覚。
空気と同化するような感覚。

ドラえもんの道具に空気中で泳ぐことのできる道具があったが、
まさにあのような感じ。

単純な鍛錬にこそ、本物を知る鍵があると。

2017年10月28日土曜日

力を抜けば重さを感じる

当会で毎回行っている抜筋骨は太極拳を始める上でとても重要。
筋肉と関節をゆるめなければなにも始まらない。

なぜなら太極拳は「ゆるむこと」と「柔らかくなる」ことが求められるから。

まず、ゆるむことに関して。

逆に筋肉を硬くすると気血の巡りを阻害する。
動きが遅くなる。
十分な力を出せなくなる。

普通なら反対ではないかと思うだろう。
しかし、〝過ぎる”筋力は太極拳では役に立たない。
極限まで体をゆるめると感じるのは体の重み。

ベッドに入り眠りに入る瞬間完全脱力状態になる。
力が入っていては眠りに入れない。
いずれもこの状態の時、体の重みを感じる。
すーっとベッドに埋もれていくような感覚になる。

太極拳はこの重みを利用する。
そしてこの重みを感じるようになるためには、力を抜かなければならない。
これが勁力(筋力ではない力)を上げるためのステップとなる。

次に、関節をゆるめること。
関節をゆるめるとはどのようなことだろう?
これは柔軟性のことではない。

太極拳の歩法は「車輪の如く」と言われるが、車に例えて考えてみよう。
車は大変乗り心地が良い。
なぜだろう?
自転車に比べ圧倒的に快適だ。
長時間乗っていても疲れない。

その理由は、4つの車輪に独立したサスペンションとショックアブソーバーがあるからだ。

サスペンションは衝撃を和らげる。
ショックアブソーバーは跳ねを抑える。
だから道が凸凹でも快適な走りができる。

人間で言う関節をやわらかくするとはこういうこと。
太極拳で大事なのは立身中正。
背筋をピンと伸ばして直立させて動く。
そのためには関節を柔らかくしなければならない。
もし関節を硬くすれば、姿勢は左右前後に傾くだろう。

直立させる理由は、天と地の軸を感じるためであり、
これにより上に引っ張られる力と下に沈む力を同時に感じることができる。
太極拳ではこの状態こそが無敵の状態。

私は稽古の時にうるさいほど姿勢を正すよう指導するが、
太極拳で一番大事なのは型を覚えることではなく姿勢を正すことだからだ。

出歩如猫(しゅつほじょびょう)と言われるが、
太極拳の歩き方は猫のように歩く。
猫の歩き方を観察していると、実に関節を柔らかく使っている。

関節を柔らかくするということは、前屈や開脚が出来ることではない。
やわらかく動けるかどうかということ。
こうして柔らかく動くことによって、始めて天地の軸を感じることが出来
それが安定した動きへとなり、気のパワーを十分に流すことが出来る状態になる。

型を正しく行おうとする前に、
十分体をゆるめ姿勢を正して真っすぐ立つ。
これは英語で言えばアルファベットを覚えるのと同じぐらい重要。

当会が稽古の初めに筋トレやストレッチではなく
抜筋骨と立禅を行う理由である。

2017年10月21日土曜日

腹から動く

ある先生から太極拳は腹から動くと教わった。

「腹から動く??」
その時は意味が解らなかった。

そもそも腹から動こうとして動けるものではない。

腹から動こうとしている間は腹から動けなかったが
それでもそれに近づきたい一心で毎日練習に励んだ。
腹から動くなんてなんだかカッコいい。

練習に練習を重ねそれが次第に自信に変わっていった。
その時、腹から動くことなど意識していないのに、
いつしか腹から動くようになっていた。

といっても楊式太極拳なので、
陳式太極拳のように明らかに腹から揺すって動くような動きではない。

どう見えるのかと言うと、体の隅々まで気が行きわたっており、
尚且つ、それがオーラとなって見えてくる。
この部分をエーテル体というらしい。

エーテル体とは気の体であり、気で出来たベールのようなもの。
師曰く10センチぐらいの厚みがあるのだそう。

実際、師に自分の脚を蹴るように言われ、思いっきり蹴ってみた。
ビクともしなかった。
その脚は金属のように硬く、ゴムのような弾力があった。
この脚で蹴っても蹴られても痛い。
なにしろその脚は金属なのだから。

話が反れないうちに戻すことにする。

結果的に腹から動くには練習しかないということ。

何年も練習を重ねていると実力と共に自信もついてくる。
そうすると気が沈んでくる。
気が沈んだ状態の時、頭は空になっている。
この状態が腹から動くということ。

スピードトレーニング的なことはないにしても
ちょっとしたコツはある。

肩の力を抜こうとするのではなく、意識を仙骨に持って行ってみる。
或いは会陰(股間の中心部)に持って行ってみる。
それでもまだ足りないと感じるなら足裏まで意識を落とせばいい。

肩の力を抜こうすること自体がすでに気が上がっている状態。
気は意識したところに集まる性質があるからだ。(これを意気相連という)

だから、抜きたいところではなく
重くしたいところに意識を向ければいい。

あと、もう一つは練習を楽しむこと。
楽しいという気持ちは丹田で感じるもの。
中途半端な練習ではなく気持ちよくなるまでやってみる。

あれやこれやごちゃごちゃ考え事しながら練習しない。
やることを決めてそれに没頭する。
本来、太極拳にインターバルは必要ない。
太極拳そのものがインターバルのようなものだから。

いずれも続けて練習していると
ランナーズハイに似たような現象が套路や推手などで起きてくる。

ハイな状態は腹に気が沈んでる状態だから
結果、腹から動いているということになる。

2017年10月20日金曜日

見る 感じる

前にもブログで書いたが、
ある程度型や套路を覚えてくると、先生の動きを見なくなる。
いわゆる「出来てるつもり」になってしまう。

どちらかというと見るより見て欲しいという気持ちが強くなるのだろう。
そして後で自分の動画を観て愕然とすることになる。

先生の動きを見なくなると、そこからは我流街道まっしぐらになる。
そして時間が経てば経つほどそれを修正するのが難しくなる。

套路の順番を覚えただけでは太極拳を習得したことにはならない。
その我流の動きに技は存在するのか?ということ。

毎回、稽古で私は皆の前に立ち気功から始め、套路を通すわけだが、
私は皆の前では常に手本となるべく動きをしようと心掛けている。
自分の太極拳をやっているのではない。

先生の動きをよく見ている人は上達が早い。
逆に見ないで自分で動こうとしてる人はなかなか上達しない。

私は先生の動きをいつもよく観察している。
先生にいつも「よく見てるな」と感心された。

私にとっては当然のこと。
折角先生が目の前でお手本を見せてくださっているのだから
見ないで稽古してたのでは全く意味がない。

動画で見るのと生で見るのとでは全然違う。
それは単にいろんな方向から見れるということだけではなく
その場の空気を感じることができる。

私が武者修行に出るのは動画では決して得られないものを師から学ぶため。
どんな高画質な映像で見ても、その場の空気や感覚は決して得られない。
それはいつも師が仰ることでもある。

引力を感じる

地球には引力がある。
当然、地球の裏側も同じように地球の中心に向かって引力がある。

もし地球が月のように引力が弱かったら、
歩いたり跳んだりするのにラクだから良さそうに感じるだろうが
恐らく太極拳はできないだろうと思う。

なぜなら太極拳は地球の引力を最大限に利用した武術だからである。

沈むからこそ発することができる。
もし引力のないところで人を突けば自分も後ろに吹っ飛んでしまうだろう。

二人で太極拳の技を掛けあうとき、相手に負けまいとすると力が生ずる。
力が生ずると体は固くなり、その状態で相手に攻撃を加えようとしたら
太極拳にとっては格好の獲物になる。

力を使うこと自体が引力に逆らおうとしている。
一方、太極拳は脱力して引力を最大限に生かそうとする。
「人間の力VS地球の力」ということになる。

逆に太極拳にとってもっとも苦手な相手は脱力して柔らかい相手。
技の掛けようがない。
というより太極拳の武術を長年行ってきた者が人を襲うことはあり得ない。
修行とは悪を払い善を引き寄せる行いだからだ。

話を戻すが、
脱力すればするほど、引力を感じる。
地球を感じる。
そしてあたかも自分が地球の一部になったような感覚になる。

いわゆる、人は引力を自在にコントロールできるということ。
力を使えば引力を弱くできるし、
力を抜けば引力を強くすることができる。

太極拳では相手の攻撃に対し対抗しようとすることはしない。
逆に受け入れる。

映画「少林サッカー」や「カンフーパンダ2」でも、
相手の猛烈な攻撃に対し最後に逆転できた技は太極拳の化勁だった。

闘おうとしない。
受け入れる。

引力に逆らおうとしない。
受け入れる。

こうすることで太極拳の意味がわかってくると思う。
(まだわかりかけたばかりだが)

無駄な力を抜くことで感じる引力は、人をも変える。
地球は、まるで大きな磁石のように人間や物質を引き寄せてるが、
それと同化することで自分にも引き寄せる力が働いてくる。

これがリラックスすることの大事さだろうか。

2017年10月19日木曜日

推手は目から学べない

昨日、弟子と推手をしていた感じたこと。

自分と動きが似てきた。
いつからか弟子の動きが、こちらの動きに逆らわず受け入れるようになってから
変わってきたとは感じていたが、
まるで自分自身と推手をしているようだ。

そうこうしながらこんな会話をした。

こればかりは決して本や動画では学べないことだとは思わないか?と。
彼女は頷いた。

もっと言えば、手を合わせなければ決して学べないこと。

15年前と違って、最近では武術に関する書籍やDVDなどがたくさん出版されている。
推手に関してもいくつかの書籍が出ている。

私も数冊か買って読んでみたが
どれもパラパラっとめくっただけで、あとはずっと本棚に眠っている。
専門用語だらけでさっぱりわからないし、
推手のあの緻密な動きや感覚を文字に表すのには限界がある。

中でもひどいのは推手の手の動かし方だけが書かれてる本もあった。
この教科書通りに動きを覚えたからといって推手が強くなるとは到底思えない。
というか100%無理だ。

推手は理屈ではない。
インスピレーションなんだ。

それに推手は決して独習できない。

確かに推手のテクニックはあるが、テクニックは所詮テクニック。
そのテクニックを上回るテクニックだってある。
結局どんなに勉強してもキリがないということ。

実際昨日弟子とやってみた。
掤で責めてきたら掤で返す。
挤には挤。
按には按だ。

要するに頭で動こうとしていたら、
技をかけたつもりが逆にかけられてしまうことになる。

それに対応するには?
フィーリングとインスピレーション。

要するに即興が出来なくてはダメだということ。

前にもブログに書いたが、
私の推手は楊式太極拳の創始者である楊露禅から伝わったもの。
楊露禅から楊健候、楊澄甫、そこから傅鍾文先生へ、
更にその弟子から弟子へと受け伝えられ、そして私に伝わってきた。

当時既に中国では健康体操化していた太極拳の中で
傅鍾文先生は最後の武術家と称されるほどの達人だったとのことだが、
私はそこから数えると曾孫弟子ということになる。(正式弟子入りはしていないが)

何が言いたいかというと、
先程、私は弟子と推手をしていた自分自身としているように感じたと話したが、
いわゆるこういうリレーを楊露禅からずっと受け伝えられてきたということ。
それは理屈ではなく感覚として。

私は推手をする時にちょっとしたアドバイスもするが
弟子と推手する時はほとんど喋らない。

テクニックではなく、何故崩れたか?ということを自分で学んで欲しいと思うから。

私は学生時代勉強も運動も全然ダメだったが、
唯一のとりえは美術と音楽だった。
美術も音楽もフィーリングが大切でインスピレーションで行う。

結局、自分の感覚に素直な人が武術に向いてると思う。

2017年10月15日日曜日

土踏まずで踏む

今、距離にして約5㎞程走圏で歩いた。
今回のテーマは土踏まずで歩くこと。

手はだらりと垂らしたままひたすら歩く。
手の動作が入ると歩きが疎かになるからだ。

今までは姿勢を正すことをテーマにしてきたが、
そろそろ歩法も整えて行こうと。

八卦掌での歩きは蹴りの練習でもあるから、爪先を伸ばした状態で前に蹴るように歩く。
そして土踏まずから着地する。

よく足裏全体で着地するというが、
それをあまり意識し過ぎると動きがどうしても硬くなる。
足の動きが硬くなると全体に響いてしまう。

土踏まずから着地しようとすることは気持ちがいい。
疲れた時に土踏まずを指圧すると気持ちがいいが
人間は気持ちのいいことは率先してやりたくなる。

土踏まずから着地しようとすれば自然と正しい歩法になる。

あとは頭頂(百会)に意識を向ける。
頭頂(百会)と土踏まず(湧泉)を意識すると天地とつながる。

あとは宇宙のようにひたすら回る。
するとパワーがダウンロードされる。

2017年10月12日木曜日

裏の套路

昨夜、弟子達と一緒に楊式気功のすぐ後に、
休まずそのまま楊式太極拳大架式を約30分ぐらいかけて練った。

套路を演じたのではなく
完全に套路を感じて練った。

動く気功。
いわゆる動禅。

「練る」とはこのことを言うのだろうというほど、
空調が効いてる中でありながらも体中からいつも以上に汗が噴き出て来た。

弟子の一人が套路をやり終わったあと、
爽快感と疲労感が入り混じったなんとも言えない表情をしていた。

タイトルを「裏の套路」としたが、
いわゆる表ではないということ。
人様に見せる套路ではないということ。

人目や自己陶酔を完全にシャットアウトした時、
初めて見えてくる世界。
それが内面の世界。

いつかのブログに書いたが、
皆が知ってる太極拳は氷山の一角に過ぎない。
海面下に肉眼では見ることのできない果てしなく巨大な世界がある。


すぐ隣で子供たちが威勢よく声を出しながら剣道をしていた。
そして自分たちが套路をやり終えた後、
剣道の先生がわざわざこちらに立ち寄って来てくださり
とても申し訳なさそうに、
隣で騒いでいて邪魔にならないかと気にかけてくださった。

私は「全く気になさらずに」と答えたが
それでも申し訳なさそうだったので、
「寧ろもっとやって頂いて構いません。
それが気になるようなら修行が足りないということですから」と伝えた。

そういうと、とても驚いた表情をされ、
「なにをされているのですか?」
「太極拳ですか?」と。
私は頷いた。


完全に内面の世界に入ってしまえば周りの音など全く気にならない。
聞こえるのは内なる声だけ。

今日は弟子達と少しでもその世界を感じれたことが幸せだった。

私は普段やりたいことの1割も出来ていない。
本当にやりたいことは、
サプライズではないが、皆の楽しみのためにとってある。

だからこそ頑張って続けて欲しいと思ってる。

套路を覚えることをゴールにして欲しくない。
套路を覚えることはゴールではなくスタートなんだ。

2017年10月6日金曜日

動中求静

太極拳十要の中ひとつに動中求静(どうちゅうきゅうせい)という言葉がある。
動いていても静を求めよということ。

私は学生時代とても大人しく、目立たない存在だった。
人と話すのが苦手だった。
自分が話したことで人を傷つけてしまったらどうしようと、
そのことばかり気にしてしまって言葉が出てこないのだ。

今でも根本的にそれは変わらないのだが、
学生時代よりは人と話ができるようになっただろうか。

まあ、そんな私なので話すのが苦手な人の気持ちがよくわかる。
大人しい人、口数の少ない人ほど物知りで、物事を冷静に見る力がある。
いわゆる心がリラックスした状態だから頭も体もリラックス状態。
物事を冷静に的確に判断する力がもっともある状態と言える。

このチカラは太極拳にはとても重要。

私が営業を頑張っていた時も、契約をたくさんとれた時は、
体は弾み動き回っているのだが、その反面内面はとてもリラックスしている。

先程話したように物事を冷静に判断できる状態。
相手が次に何を言ってくるかすべてわかる。
だから、その言葉に対し相手にどういう言葉を投げかければ
喜んでくれるか予め準備することができる。
いや、準備するというより、勝手に頭が準備してくれ、勝手に口が動いてくれる。

無論経験積まずにこのことは起きない。
経験の上に成り立つこと。

太極拳の場合はまずゆるんで立つことか始め、
次に套路を覚える。
そして推手と散手も同時に学習していく。

こうすることで始めてこの4つの関連性が見えてくる。

いずれもどの鍛錬法でも静を求められるということ。

立禅の時に雑念があってはならない。
套路を行う時も雑念があってはならない。
推手の時も同じ。
散手の時も同じ。
すべて「静」でなければならない。

先程も話したようにこの時こそ人間が一番力を出せる時だからだ。

指導している時、時折ぱっと後ろを見ると
力を使って手を動かしている人をみかける。
私は力を抜くようにと指導する。
実は力を抜いて欲しいのではなく、
力を使おうとする心をやめて欲しいとお願いしているのだ。

早く上達したい。
早く套路を覚えたい。
誰でもそう思うだろう。

しかしそういう焦る気持ちから太極拳を学ぶことはできない。
太極拳は単に体を動かす運動でもなければスポーツでもないからだ。

常に「静」を求める。
もし、「何度やってもうまくいかない」と苦しみもがいている自分がいるなら、
一度練習の手を休め呼吸を整え心を落ち着けてみよう。

その壁だと思っていることは本当に壁なんだろうか?
ただの妄想に過ぎないのではないのか?

実は壁だと思ってた壁は自分が勝手に作り出したものであり、
元々、壁などないということに気付くと思う。
あとになってみれば、「なんでこんな簡単なことが出来なかったんだろう」と。

動中求静

人間が一番力を発揮できるのは「静」の状態。

普段から静を求める人は太極拳が向いているし
太極拳が上達したいなら静を求めてみよう。

2017年10月5日木曜日

不安と付き合う

会の代表となって今まで様々なプレッシャーを抱えてきたが、
4年半経った今でもそれは変わらない。

かといってそのことに対し自分に嘘をついたり他人に嘘をつくこともない。

不安なら不安というし、
心配なら心配という。
緊張していれば緊張していると言うし、
自信がないのなら自信がないと言う。

これは私にとっての言葉のスワイショウのようなもの。

不安な自分を隠したり、
緊張してるのに緊張してないふりをしたり、
そうするより、
ありのままを口に出して言うことで不思議と気分がスッとラクになる。

ありのままを口に出すといっても人を傷つけるようなことは言ってはいけない。
自分がラクになりたいがために人を傷つけることをしてしまうと、
そこから毒がどんどん広がっていってしまう。

今の私にとっての不安は、
今週末控えてるイベントのこと。
それに今後の会の運営のこと。

こんなふうに不安な時は無暗にそれをかき消そうとしたり、
自分を偽ろうとしたりしない。
不安な時は不安のままでいいと思ってる。
なぜならその時になればなんとかなるから。

今までなんとかならなかったことは一度もない。
その証拠に今元気に生きてる。
やさしい仲間もたくさんいる。
お金は少ししかないが、それでも幸せは毎日起きている。

そもそも不安になるのは期待があるから。
微塵にも期待がなければ不安など起きない。

その不安をありのまま受け入れてあげれば、
期待している自分がその時になんとかしてくれる。

それが努力したものに与えられるご褒美だと思ってる。

逃げて何事もなかったかのように平静を装うより、
不安を抱えながら頑張ってる姿のほうが絶対カッコいい。

少なくとも私はそういう人が好きだし、そういう人を目指そうと思う。

ヤルと決めた以上は精一杯頑張ろう。
なんとかなるさ。

2017年10月3日火曜日

許す。動く。

最近どういうことか?

これまで実績作りのために頑張ってきた試合も引退し、
そして表演も当分休み、
15年前私に楊式太極拳の素晴らしさを教えてくださった師につき
本格的な武術修行を行おうとしていた矢先である。

交通事故から約5日で肺の穴は塞がり、
漏れていた空気も吸収され、
そして7日で骨折した肋骨の痛みが消え、
全身血だらけだった体もすっかり傷が塞がりきれいになった。

左太腿左側面が血種となり、広範囲にわたってどす黒い真紫になっていたが、
それさえも今はほぼきれいな肌色に戻った。

当時私は痛みに耐えながらも指導に向かおうとしていたが、
会員さん達が「しっかり休んでください。自分たちだけでやってみます」
と言うその言葉に私は救われた。

自宅療養中も「早く復帰したい」とそのことばかり考えていた。
そして復帰したら今まで以上に頑張ろうと。

しかしどうしたことか・・ かつての力が出ない。
昨夜、会員さん達の前でもお話したが、
「まだ本調子ではないのでその点理解して欲しい」と。
皆納得しれくれた。

体はもうほとんど回復しているのだが、
どうも心がついてこない。

心が不安定だから套路を行っていても普段絶対やらないような間違いをしたり、
普段絶対崩さないようなところでバランスを崩したり。
なにかやっぱりおかしい。

今、私はまさに15年前の弱っていた自分に舞い戻ってしまったようだ。
10日間の自宅療養は確かに私にとって必要だったし、
お陰で早く回復させることができた。
しかし、気力がまだ上がってこない。

そして、私が今感じていることは「辛いことをしたい」だ。

確かに、今年始めってから、新クラスを設けたり、様々なイベントを試みたり、
当会初めての日帰り合宿も行った。
ようやく一仕事終えたと思ったら次々と新たな仕事に着手しなければならない。

空いた時間に夜な夜なクタクタになるまでポスティングを行ったり、
実績作りたのために今年最後の試合への挑戦もあった。
もう本当に息つく暇もなかった。

いずれも気力が落ちてしまっているその自分に対し
更に気が落ちてしまうと言うマイナスのスパイラル。

そして、先程導かれるように
今年のNARAフェスティバルの後半動画を改めて観た。

今の自分の状態からは考えられない・・
なんというか・・
動画を観て「凄いな」と感じてしまった。
そして動画に写っている皆の笑顔を見ていると、
いろいろあったが、すべてを許そうという気持ちになった。

すべて水に流して、また一からと。

そうすると、不思議なことに、気持ちがすぅーっと楽になった。
良くないこともあったが、良かったことはそれ以上にたくさんあった。
それでいいじゃないかと。


先日、部屋の中で距離にして6キロほど走圏で歩いた。
これもよかった。
なんとも言えない爽快感とパワーが入ってきた。
次は10キロに挑戦してみよう。

自閉気味で鬱だった15年前から私がパワフルに仕事が出来るようになったのは
太極拳で体を動かすようになってから。

体を動かす。
そしてすべてを許す。

これが今の自分にとって必要なことだと思った。

2017年9月30日土曜日

気功の中に太極拳がある

太極拳は太極拳の中に気功があるのではなく
気功の中に太極拳がある。

なぜそんなことが言いきれるか?

それは長年気功と太極拳を平行して行ってきた中で
受け伝えられている歴史との伏線を感じることが多々あるからである。

言い伝えによると、太極拳は仙人である張三豊が編み出したと言われる。
道教の陰陽五行説から生まれたのが太極拳であると。

特に最近太極拳の修行を行いながら陰陽説の原理を感じることが多い。
どこをとっても陰と陽で解釈できる。
陰と陽は常に一体であり、バラバラになってはいけない。

太極拳の鍛錬を行うにあたって、いくつか重要なことがあるが
例えば、分虚実、上下相随、内外相合、動中求静
などは陰陽一体でなければならないことを示す言葉だ。

太極拳では虚と実を明確に分けること。
上下の動きがばらばらになってはいけない。
呼吸に合わせた動き。
動いていても常に気を沈めること。

これが出来ていないと、套路では動きがギクシャクし、
推手では軸がぶれ、散手では技が掛からない。

五行思想に関しては形意拳の五行拳だけではなく、
太極拳にも当てはめることが出来る。

太極拳は、
流れ落ちる水であり、
燃え上がる火であり、
そびえたつ木であり、
ある時は金のように輝き、しかも強く固く、
そして大地(土)と繋がる。

こう考えると太極拳は地球(宇宙)そのものであることがわかる。

だから、太極拳は套路だけを覚えれば良いというものではない。
套路は鍛錬法の一部であり、本来の太極拳の目指すところではない。

気功の中に太極拳を入れて修行を行っていると、
どんどん歴史を遡り、源に辿りつくように思えてならない。

海のように広い大河も、元はと言えば小さな湧き水から始まっている。
修行とはその源流を探す旅なのかもしれない。

川の流れに逆らって登りつめると、
そこに禅の世界があるように思う。

最終的には無に帰るということ。

2017年9月29日金曜日

年齢ではなく経験

月日が経つのは早いもので、私も産声をあげてから半世紀が過ぎた。
とはいうものの、学生時代はともかく、私はこれまで様々なことに挑戦してきた。

これまでブログにも散々書いてきたのであえて省略するが、
人間の価値は何で決まるだろう?

年齢?
学歴?
経験?

もちろんどれも大事だと思うが、
私が今まで様々な人と接してきて感じたことは、
経験豊富な人ほど謙虚で、
そうでない人は長く生きていることだけを自慢しようとする。

歳が若くとも自分のやりたいことや事業で成功している人は大勢いる。
学歴がなくともプロになっている人は大勢いる。
若くして他界された人で偉人は大勢いる。

しかしどんなに年齢を重ねてもそれが直接実力とは結び付かない。

確かに歳をとらねばわからないこともある。
物事への感じ方や人との接し方もかわってくる。

しかし、年齢だけを自慢する人になるのではなく
過去の栄光にすがり、その実績だけを自慢するのでもなく
今の自分に明確な夢がありそれに向かって努力しようとしているかどうかだと思う。

私はこういう人と出会うと、年齢や学歴問わず素晴らしいと思うし尊敬する。

1日は誰にとっても24時間。
その24時間をボーっと過ごしても、たくさんの仕事をこなしても同じ24時間。
1日1つのことだけしかやらない人もいれば、10をこなす人もいる。

同じ年齢なら10倍の経験を積んでることになる。

なにがいいたいか?

太極拳を始めるのに、年齢や性別、学歴など関係ないということ。
いつから始めてもいい。
当会では79歳から始められた方もおられる。

太極拳は拳歴だけでは決してわからない。
結局、明確な目標を以てどれだけ努力しているかということになる。

1日10分しか練習しない人もいれば3時間練習する人もいる。
この差は大きい。
決して拳歴だけではわからないということ。

1日の使い方が上手な人は、
もしかしたら今死んでも悔いが残らないと思っている人が多いと思う。

モーツァルトは35歳でこの世を去ったが、数多くの名曲を残し、
そしてモーツァルトを超える天才作曲家は今に至っても現れない。
仮にその倍の70歳生きたとしてもモーツァルトを超えることは出来ないと言うこと。

自分にとって生きがいを見つけ、それにとことん没頭してみる。
私はこのような生き方が一番カッコいいと思う。

怒るか笑うか

私は指導する時、基本怒らない。
怒るという波動には相手の気を苛立たせたり、
萎縮させたりする力がある。

では笑うとどうなるか?
笑う門には福来るというが、
笑うという波動には広がる力があり、
相手に悔しい想いをさせることもあるが
さほど気にすることないんだという安心感も与えることができる。

私が指導している時どんなことを考えているかというと、
動きを見ながら「きっとうまくいく」とずっと念じている。

どれだけやってもダメでも、それでも念じ続ける。
正直物凄いパワーを消費する。
それでも私は念じ続ける。
お陰で稽古後はヘトヘトだ。

しかしそれでも私は人の可能性を微塵にも疑いたくない。

ある会員さんが「笑わないでください」と言った。
「厳しくしてください」という人もいた。

それはそれで大したものだと思う。
しかし逆を言えば笑われたくなければ、やればいいだけだ。

因みに叱ってくださいと言った人に共通していたこと。
動きが硬い。
きっと過去に厳しく叱られながら指導を受けてきたのだろう。

先程も言ったが、怒る波動には緊張感を与える力があり、それが力みとなる。
心が委縮し、失敗を恐れ、完璧を目指そうとするが、
どこかびくびくしなければならなくなる。

こんな状態で気がスムーズに流れるだろうか?

私が笑うのにはきちんと意味がある。
馬鹿にして笑ってるのではない。

笑うことには緊張感を解く力がある。
そのことで気血の巡りがよくなり、免疫力を上げる力もある。

緊張を解くことで、筋肉や関節が緩み柔らかい動きが出来るようになる。
そうして太極拳の動きになっていく。

数年前の話だが、家族4人である喫茶店に入った。
そこのウエイトレスさんが新人なのか、トレンチを持つ手がぷるぷる震えていた。
トレンチの上には注文したコーヒーがのっていて、
今にも振動でコーヒーがこぼれそうだった。

私はそれを見て「大丈夫ですか?」と笑いながら言った。
するとウエイトレスさんはニコッと笑い、
その後手の震えが止まり上手にコーヒーをテーブルに置くことができた。

私はその後家族に怒られた。
「ああいう時は笑ったらあかん」と。
しかしあのままこちらも緊張して心配しながらじっと見ていたらどうだっただろう?
きっとウエイトレスさんはもっと緊張し
コーヒーがこぼれソーサーはプールになっていただろうと思う。

笑うといってもバカにして笑うのではなく愛情をもって笑うということ。
同じ笑うでもそこに愛があるかどうかということが言いたい。

話を戻すが、
実際に私は太極拳の指導で怒らずに笑い続けた。
するとどうだろう?
結果どんどん柔らかい動きになり人間性まで変わってきた。
70年以上治らなかった姿勢が良くなってきた人もいる。

これからも、笑わないでくれと言われても私は笑う。
ばかにして笑っているのではない。
微笑んでるんだ。
「あなたは出来る」と念じながら。

目の前にいる相手はいない

今、怪我によって出場できなくなった私の代わりに
弟子に技を教えイベントで実演できるよう指導している。

自分が技をかけるのとは違い指導するのはなかなか難しい。
しかし見ていると全て自分が経験してきたことであり、
かつての自分を見ているようだ。

例えば太極拳の擠勢。(打擠ともいう)
両手を合わせるように重ね、相手を打つ。

これを始めてやろうとした時、相手はうんともすんとも動かなかった。
一体これはどうやって使うのか??
全く解らなかった。

そして何か月か経った時に、だんだん打てるようになってきた。
そして数年が経ちその威力が増してきた。
そして遂には相手を何メートルも遠くへ飛ばせるようになった。

いずれも最初はなかなかうまくいかない。
そこでいくつかのことに気付く。

立禅の重要性。
歩型の重要性。
套路の重要性。
推手の重要性。

これらがきちんと出来ているかどうかを一発でテストすることができる。
いわゆるこれらがきちんと出来ていれば技は掛かるということ。

もうひとつ。
技は掛けようと思うと掛からない。

掛けようという意識の中にすでに力みが生じてるからだ。
それは相手にも伝わってしまう。

だから、
どうするか?ではなく、
どうしたいか?ということ。
現実を見るのではなく未来を見る。

目の前に相手がいる。
そうすると誰もが相手を倒そうとするだろう。
自分が相手より体格や腕力が勝っていれば倒すことはできる。
しかし逆なら?

倒そうとしても逆に倒されてしまうだろう。
壁を殴ったり体当たりするようなもの。

そもそも目の前にいる相手は本当にいるのだろうか?

もし〝いない”と思うことが出来れば、相手の体格や力など考えることもない。

例えば相手が大男なら「無理じゃないか?」と思ってしまうだろう。
そう思ってしまった時点で技は掛からない。

まず結果を先に作る。
あとは無心でそこに向かうだけ。

昔フィーリングという言葉が流行ったが、
技はフィーリングでやるもんなんだ。
少なくとも私は。

2017年9月28日木曜日

中から?外から?

ある人が私に行った。
内功をしっかり練ってから套路を覚え技の使い方を研究したいと。

それはそれで人それぞれだから私は何も言うつもりはない。

しかし、私は中からより外から派だ。

まず形を作ってから中に魂を吹き込む。
これは何にでも通じると思う。

音楽活動をしていた時もそうだ。
まず曲をつくる。
何度も演奏し練習する。
そのうち魂が宿る。

仮に魄によって曲を作り詩を作ったとしても、
演奏するテクニックがなければそれを表現することはできない。

確かに曲はハイな状態の時に天から舞い降りてくる。
しかし演奏がダメなら天からの贈り物を表現することは出来ない。

絵も同じ。
デッサン力なくして、自分の心を絵に描写することはできない。

武術も同じ。
まず立禅で正しい姿勢を身につける。
そして套路によって正しい動きを身につける。
今度は途切れないよう連綿と動けるように套路を練る。
次に気を練りながら套路を練る。
最後に相手がいることを想定し気を流れを感じながら技を練って行く。

この流れが一番スムーズだし、
それになにより楽しいと思う。

まずはグラスを用意する。
そしてそこにおいしいジュースを注ぎ込む。
逆はあり得ない。
実に単純なことだ。

これはほんの一例だが、太極拳はまず形から覚えるのが良いということ。

ただ、だからといって形ばかりでも意味がない。
太極拳の修行とは形を覚え内面を練っていくことにある。
こうして初めて〝生きた太極拳”になる。

少なくとも私はそのようにやってきたし、
これからもそれは変わらない。

2017年9月22日金曜日

世界一美しい護身術

太極拳は世界一美しい護身術といいたい。

いや、太極拳に限らず他の武術も武道も美しい。
というより「強いは美しい」のだ。

美しい花にはパワーがある。
美しい絵にはパワーがある。
美しい音楽にはパワーがある。

逆を言えばパワー(強さ)があるから美しくなる。

その中でも太極拳の動きは独特の美しさがある。
日常生活で跳んだり回ったりすることはあっても
太極拳のようにゆっくりスローモーションのような動きをすることがあるだろうか?

楽しかったり、機嫌が良かったり、元気だったりすると、心が踊りだし、体も踊る。
しかし太極拳の動きは意識しないとあのような動きにはならない。

あえて言うなら、
子供が寝ているそばを歩くとき音を立てないように歩く。
恐らく太極拳の動きになっていると思う。

或いは、薄氷の上を歩く時も同じ。
氷を割らないように歩こうとすると、自然と太極拳の動きになる。
田んぼや泥沼で泥がはねないように歩く感じと言ってもいいだろう。

足腰に負担を掛けずに、自ずと体幹を使って動こうとする。

早く覚えたい一心で速く動こうとする人がいる。
私は「ゆっくりゆっくり」と促す。
それでもどうしても速くなってしまう。

速く動こうとすると当然使う筋肉は速筋。
しかし太極拳で使うのは遅筋。
使う筋肉が違うから速く動いては決して太極拳の体はつくられないし
太極拳の動きにはならない。

決してイライラしないこと。
当会ではイライラ禁止にしている。
イライラは何も生み出さない。
心が乱れ動きも乱れる。
動きが乱れるから更に心が乱れる。
なにもいいことはないのだ。

なかなか覚えられなくとも、目の前にある石段を一段だけ上ろうとしてみる。
その一段を上ることが出来たら、次の一段をと。
決して一気に駆け上がろうとしない。
躓いて怪我するのがおちだ。

スピードの出し過ぎは事故の元と言うが、
それは交通事故だけではない。
仕事でもなんでも早く動くと良くも悪くも痛い目に遭う。

私の経験からすると、急速な事業展開を試みた時、周りの反感を買い、
袋叩きにされたことがある。
出る杭は叩かれるのだ。

電話で呼び出され、現地に着くと若い男たちが7~8人。
よってたかって殴られた。
反撃することも出来たが、私は自分がビジネスリーダーである立場であるため問題を起こすことはできない。
結果、なすがままだった。

無論、平気でいられるはずもなく悔しくて悔しくてならなかった。
しかし歯を食いしばって耐えた。
36歳の時だった。

その後ペースをゆるめ、足元を固めながら事業展開した。
1年後、私のビジネスは成功しハワイ暮らしができるようになった。

余談だが、
ハワイ(正式にはオアフ島)はサンゴ礁が盛り上がってできた島。
島全体がパワーアイランドで、ただ住んでるだけでもモリモリと元気が出てくる。
澄み渡ったコバルトブルーの海と空。
常に爽やかなトレードウインドーが吹いて、
毎日のように降るミストのような小雨により美しい虹が頻繁に見られる。

ハワイに行くと持病が治ると言う知人もいたが、
私もハワイで風邪ひとつひいたことがない。

数人に殴られたご褒美がハワイだったということ。


さて、
今回、件名を美しい護身術としたのは
昨夜、サークルの体験に来られたお二人から伺った感想をそのままひとつにまとめてみたらこうなった。

お一人は、私の演武を見て、とても素晴らしいと褒めてくださった。
もうお一方は、大切な人と歩いていて絡まれた時に対処する方法を身につけたいとのことだった。

どちらも太極拳を始める動機としてぴったりだと思った。
なぜなら、太極拳は世界一美しい護身術だからだ。

闘うために生まれた武術ではなく
守るために生まれた武術。

太極拳は
健康を守り、
自分を守り、
大切な人を守るすばらしい護身武術なのである。



いつもご愛読してくださっているAさん、
この度は素敵な本と美しいグラスありがとうございます。
とても気に入りました。

それに頂いたringoさんのスーパームーンの写真葉書に一目ぼれしてしまい
ブログのヘッダーに使わせて頂きました。
すごいパワーを感じます。
しばらくはこのスーパームーンのパワーを借りて頑張ろうと思います。

2017年9月19日火曜日

6分後から始まる世界

現在イベントのために短い套路の練習を平行して行っている。

当会では、イベント用に楊式太極拳の14勢、28勢や双辺太極拳の14勢などをそれとして練習を行っている。
これらは競技用套路ではなくあくまでも伝統套路。

3~6分以内の短い套路である。

人間が集中して聴いたり見たりできる時間は大よそ5分。
第一印象が決まるのは最初の4秒と言われる。

だから表演用套路は6分以内にまとめられている。

そして礼を含む最初と最後が大事だと私はいつも指導するが、
人に与える印象が4秒で決められてしまうからだ。

だらだらと不揃いに出てきて、まばらに始まったのでは、もうそこで価値をつけられてしまう。
逆にどんなに良い演武をしても最後の礼に節度がなければ、
最終的にだらしなく見えてしまう。

「挨拶が大事」といつも私は言ってるが、
目が会ってから4秒でその後の関係や共有する時間が決まるからである。
私の営業経験から言うならば、
最初の4秒で契約がとれるかどうか決まるといっても過言ではない。

話を演武時間に戻すが、
演劇やクラシックミュージックのように変化があるものなら別だが
そうでなければ見ているほうは飽きてしまう。

私が作曲している頃はいつも4分前後になるように作っていた。
軽音楽で5分以上は正直キツイ。
いわゆる太極拳なども同じで、大きな変化がなくゆったりと連綿としているので5~6分というのは見ているものを飽きさせないギリギリの時間なのである。

しかし
太極拳の醍醐味は6分経過してから始まるといいたい。
もし健康目的で太極拳を始めるなら5分や6分では太極拳本来の気持ち良さは得られない。
それは実際に伝統套路を体験してみればわかる。
(わかるまでには時間はかかるが)

いずれも、これが私が徹底して伝統套路に拘る理由である。

熟練してくると、最初の1秒から気持ち良くなれるようになるが、
それは毎日毎日20分以上の伝統套路を行ってきた結果であり、いきなり1秒では決して気持ちよくなることはない。

伝統楊式太極拳では、最初は比較的優しい技で構成されている。
そして体温が上昇し、関節がゆるみ、緊張が解けて来た約6分以降から
分脚や踵脚などの難易度の高い技が出て来る。
それが終わると今度は低い姿勢の技が出て来る。

片足を上げるより、低い姿勢の方が高齢の方にとっては辛い。
低い姿勢が辛いのではなく、しゃがんだり立ったりが辛いのだ。
しかし24式太極拳(簡化太極拳)ではまだ体が温まらない間に踵脚と下勢という辛い動作が連続して出て来る。
6分以内に収めるためやむを得ない構成なのだろうが、健康目的で太極拳を行うには無理があるように思う。

車にも暖気運転というものがあるように、寒冷時にいきなり車をスタートさせるとエンジンに負担がかかる。
ましてもやいきなり急な上り坂を登ろうとしようものならノッキングしエンジンが止まってしまう。(インジェクターが採用された今の車はそんなことはほとんどないが)

套路も同じ。

演武しながらゆっくり体を温めていく。
温まると関節や筋の緊張がほぐれてくる。
すると体全身の気血の巡りがよくなる。
次第に体がゆるみ、
沈む感覚と空間に溶け込むような浮遊感覚が同時に得られる。

丁度その頃に、蹴り技や低い姿勢の技へと流れて行く。

伝統楊式太極拳には難病を克服するなど海外でも様々な研究実績がある。
しかし24式太極拳にはこれといった事例がない。

24式太極拳を否定しているのではない。
24式太極拳を覚えたらそのルーツである伝統楊式太極拳を習うことをおすすめしたいのである。

24式太極拳は表演や競技、検定には丁度良い時間につくられてある。
しかし恍惚とした気持ち良さを感じたり、更に上を行く健康づくりを考えるなら伝統楊式太極拳を強くおすすめする。

演武時間が20~25分と長いので表演には向かないが、
この時間でなければ決して得られない素晴らしい世界があるということをお伝えしたい。

2017年9月18日月曜日

呼吸する太極拳

最近の天文学では、宇宙は小さな粒のような宇宙が
ビッグバンによってできたという説が薄れてきているらしい。
宇宙は膨張と収縮を繰り返しているらしい。

今の大宇宙も最大限に膨張すると今度は収縮し、
目に見えない程の小さな粒になり、またそこから膨張するのだそう。

ところで自宅療養10日目の今日、
10日ぶりに気功と太極拳を行ってみた。

改めて気功も太極拳もとても気持ちが良いということを再認識した。
そして全套路をやり終え、良い汗をかいた。

そして、この10日のブランクは私にとって大きな利益をもたらした。
「休むことも練習」と言われるが、確かにそうだと思った。
無論始めて間もない初心者がいきなり10日も休んでは駄目だが・・
最初はどんどんやったほうがいい。

ところで何を発見したかというと、
太極拳もまた宇宙と同じように膨張と収縮を繰り返しているということ。

虚の状態(後ろ体重)で収縮し、実の状態(前体重)で膨張する。
必ずしも虚と実がそうであるとは限らないが大雑把に言えばそんな感じだ。

ゆっくりと息を吸いながら体重を後ろに下げる。
いわゆる化勁の部分。
たっぷり腹に吸い込み、気のボールが収縮するようにイメージする。

次に息を吐きながら体重を前に移す。
発勁である。
腹から押し出すように息を吐きだし、気のボールが大きく膨張するようにイメージする。

収縮と膨張の繰り返し。

砂の粒のように小さく収縮し、
山をも包み込むほどの大きく膨張する。

小さな粒になれば自分が打たれることはない。
消えたも同じ。
しかしその後大きく膨張し拡散(爆発)する。

師が演武し始めると、「実」の部分で大きく膨らんで見えるのは
こういうことだったのだということに気付いた。

大きく見せようとするのではない。
気を放つのだ。

師に打たれても痛くもなんともないのに、
気がつけば吹っ飛ばされ壁に叩きつけられる。

かといって、打ってもいないのにじわじわと痛みが襲ってくる暗勁。

やっぱり楊式太極拳はおもしろい。

2017年9月17日日曜日

事故はなぜ起きたか?

その後も徐々に回復に向かっており、
あとは左股関節の痛みだけが残っている。

いずれも動けない今、
今回の出来事を振り返ったり
本を読んだり、
今後のことを考えたり。

今回の事故は何故起きたのか?
ということを考えてみた。

いくつか答えがあがってきた。

ひとつは前回もお話したように、
この事故がなければ私はこの先でもっと大きな事故に巻き込まれていた。
だから災難ではなく私は救われたと思っている。

あと、救急で運ばれてから1週間と2日が経つが
私はサークルを立ち上げてから、こんなに休んだことがない。
休んでもせいぜい1日。

今まで心身共に溜まっていた疲れがすっかり癒え、
今までにないやる気がふつふつと湧き出している。

この身体的な事故が起きるまで心の事故続きだった。
私が大切に思い、そしてその人の将来を楽しみにしていた人から
次々と退会届が私の手元に届いた。

一人二人ならまだしも、この2か月間で6人。
自然退会ではなく退会届が送られてきた。

もちろん覚悟はしていた。

実は私は過去事業で500人のビジネスパートナーに一斉に辞められたことがある。
理由はそのグループリーダーの急な意欲喪失。
残念でならなかったし、売上的にも大打撃だった。

いずれも今回の退会者の続出はそれに比べればかすり傷。

その後は月収50万から数万円へ。
無論生活できるわけもなく
サラ金にまで手を出さなくてはならないまでに陥った。
時間問わず容赦なく取り立ての電話が鳴り響く毎日。
私はそれ以来電話の着信音が完全トラウマになってしまった。

事業が破綻し首を括る者もいるだろうが、私はそう簡単に諦めない。
その後また一からグループを作り直した。
ひとりひとり誠意をもって声をかけていった。

すると今度は誠実な人ばかりが集まり始めた。
売上はどんどん上がり、グループ人数こそ少なかったが、意欲的なパートナーが増え
売上も急上昇。
その後、破綻前よりも収入が増え月収70万円に。

実は私の事業意欲は交通事故から始まった。
交通事故は本当に怖いし後々まで心の痛みが残る。
幸いにも死者が出なかったが、それでさえも奇跡。
一度死にかけた者は強いというが、それは本当だった。
私のその交通事故から1年ほどで、最初の事業に成功した。

今度の交通事故も実はある程度予期していた。
辛いことが続くと更に辛いことが起きる。
何度も経験してきた。

しかしピンチはチャンス。
今後、会はもっともっと素晴らしくなるというビジョンが見える。

それとあともう一つ。

武術に対する考えが少し変わった。
いや目標はなにも変わっていないのだが
今行っている武術に対する捉え方が変わった。

本当に武術が誕生した理由が解った気がした。
それは今まで何度となく唱えてきたことだが、
「つながること」

これが私の最終目的。

最近ネット環境もどんどん進化して、
クラウドや、それを共有できるコンテンツも出始めている。

化学は目に見えないものを解明しようとしているが、
化学はようやく神の域に近づき始めた・・
いや、言い換えれば、同じ方向に向かおうとしていることがわかる。

人間はインターネットによって全世界がつながった。
わからないことがあればウィキペディアで調べればすぐにわかる。

しかし、インターネットが発明される前から人類は皆繋がっていたのだ。
何百年、何千年も前から。
ウィキペディアがなくとも、人間は全人類の知性を手に入れることができる。

別に信じなくてもいい。

少なくとも私はそれを経験してるし、
世の中のしくみが全て理解でき、そして未来に起きることすら予知できた。

雨が降ると思うと降りだし、止むと思えば止む。

高速で料金を支払おうと思ったら、きっちりその小銭が料金分だったり、
時計や距離メーターを見るといつもぞろ目。
ぞろ目以外の時は見ないのに、なぜぞろ目の時だけ見るのか?

欲しいと思えば、数日中に一銭も使わず手に入ってしまう。
不思議なのは私がそれを欲しいと絶対知らない人からそれが届けられる。

相手が話す前から話すことがわかる。
だから相手がどんなにビックリするようなことを言っても驚かない。

初対面なのに合う人全てが懐かしいと思ったり・・
相手は自分で自分は相手という感覚。

こんなことが連続して起きるものだから、毎日が鳥肌立ちっぱなしだった。

とにかく話つくせないほど不思議な体験を今まで何度もしてきた。

話が長くなってしまったが、私は今後も太極拳も形意拳も八卦掌もやっていくが、
どの流派も気功を重視して行こうと思う。

これら内家拳はすべて気功を元として生まれた流派であり、
気功なくしてこれらの武術は成り立たない。
それでも、力とテクニックで武術をしようとする方もおられるようだが、
それはそれで人それぞれ捉え方が違うのは当たり前のことだし、
私は私の思う内家拳を極めて行こうと思う。

皆が幸せになれる武術。

人生をもっと楽しく、
そしてもっと幸せになれるということを証明しながら実践していきたい。

そんなことをこの9日間考えていた。

私に何ができるか?
出来ることから始めて行こう。

2017年9月15日金曜日

治癒力

人間は自分の体を自分で治そうとする力がある。

病気や怪我をした時いつも思う事。
ここからが勝負

物心ついたころから小児喘息で闘病生活31年。
その後も決して体は強い方ではなく、しょっちゅう風邪で体調を崩したり
アレルギーを起こしたりしていた。

その私が気功と太極拳によって変わった。

今回の交通事故で、肋骨を骨折し、肺に穴が開き気胸になってしまった。

しかし、5日後の再検査の時には肺の穴は塞がり、
漏れていた空気も吸収されすっかり元の肺に戻っていた。
通常1~3週間かかる気胸がわずか5日で治った。

肋骨骨折は辛かった。
しかし丁度7日目になる今日、骨折による痛みが消えた。
体勢を変えたり、寝たり起きたりする時の痛みがなくなり、
咳やくしゃみ、鼻をかむ時も激痛だったが、それさえもなくなった。

肋骨骨折は通常3週間はかかると言われるが、それが1週間で治った。

私は武術を始めてから、丈夫な体になることが絶対大事だと思ってきた。
そうでなければ武術をやる意味がない。
武術は敵と戦うためだけではなく、自分自身を強くするための行だと思うからだ。

まだ、左大腿骨頸部打撲と血種による痛みが残っているが、
これも早期に治したいと思っている。

今日母から電話があった。
私の怪我をとても心配しているようだった。

その時、滅多に褒めない母が私のことを凄いと言ってくれた。
私の生徒たちのこと。

私のことを心から心配してくれ、
食料などのお見舞い品を届けてくれ、
しかも私がいなくとも、しっかり稽古し、
それをわざわざ報告してくれる。

「あんたは生徒から慕われてるんやなぁ」と。

母から褒めらことなど滅多にないだけに恥ずかしかったが、
嬉しかった。

私はサークルを立ち上げた時から志は変わってない。
私は太極拳の技術だけを教えるだけの講師でもなければインストラクターでもトレーナーでもない。
なんといったら良いのかわからないが、
皆のことを家族のように思ってる。

喜び合ったり、
感動し合ったり、
時にはぶつかりあって辛いこともあるけど
一人一人のことをいつも真剣に考えている。

今まで稽古を一日も休みたくないと思っていたから
決して倒れないと自分の中で誓っていたが、
いざ、こうして、動けなくなった時、
皆が心配してくれ、励ましてくれたり
あらためて良い仲間達に出会え幸せだと思った。

私はまだ自由に動けなくとも
今回のことでたくさんパワーをもらえました。
ありがとう。

2017年9月11日月曜日

ありがとうございます

このブログを始めて4年と4ヶ月が経ちました。
丁度、サークルを立ち上げた月と同時期です。

いつも私のブログをご購読いただきありがとうございます。
お陰様で12万アクセスを超え、
ここ最近は1日平均120アクセスとなっています。

いつも拙い文章で申し訳なく思っていますが、
これだけの方がご購読いただいているということはやはり嬉しいです。

また、時折ご愛読いただいている方からのメッセージも嬉しく読ませて頂いております。

今回、たくさんある中から特に嬉しかったメッセージを紹介させていただきます。

「陰ながら応援しています。太極拳に関する書籍も買って読んだりもしましたが、soyokazeさんのブログが一番分かりやすく、効果てきめんでした。おかげさまで、自分の太極拳を見直すいいきっかけになりました。本当に感謝しています。」

今日、お見舞いメッセージを頂いた時にくださったメッセージですが、
とても励みになりました。

私はまだまだ武術家と言えるレベルではなく一愛好家に過ぎませんが、
本物の武術を求め毎日修行しています。
その修行の中で得られらこと感じたことをありのままに書き綴っています。
その中で私の考えや太極拳に対する取り組み、姿勢、感じたこと等、共感してくださる方が多くおられるというのは大変光栄なことです。

プロフィール欄でもお伝えしている通り、
「その時に感じたことを忘れないよう書き留めておきたい」
という、いわば私の修行メモのようなものです。

思うことを好きなように書かせて頂いて頂いていますが、
それだけに気分を害される方も多いのではと感じています。
しかし、周りに気を使い過ぎて本当のことを書けないならブログを書く意味はないとも思っています。

私と同じように真剣に武術修行をされている方に共感して頂けることは何よりも嬉しく励みになります。

これからも本物を求める修行と続けたいと思いますので
今後共おつきあい頂けると嬉しく思います。
いつも本当にありがとうございます。

2017年9月9日土曜日

歩きたい歩けない

昨日、個人レッスンの指導に向かうためにバイクを走らせた。

間もなく現地に到着というところで、
2台前に走っていたトラックが方向指示器を出さず徐行し始めたので
停車するのかと判断し、反対車線に対向車がないことを確認し追い越そうとした瞬間、
トラックは方向指示器を出さずいきなり右へ横断。

完全に通行を遮られる形になり、
私は衝突を避けるために咄嗟にブレーキ。
しかしホイールベースが長い割にタイヤの小さいビッグスクーター。
さほどスピードが出ていなくとも急ブレーキをかけるとすぐにタイヤがロックし横倒れになりスピンする。
私はバイクから放り出され、頭を含め全身を強く打った。

痛みのあまりにしばらくそこから動けなくなり、意識朦朧状態。
近くにいた人がすぐに警察と救急車を呼んでくれた。

そのまま救急車で最寄りの病院に運ばれる。
さっそく傷の手当と採血、そしてCTスキャン、レントゲン。
体の各部を強く打ち、傷による出血。
左大腿骨上部は血種によって大きく腫れていた。
検査結果は肋骨骨折と外傷性気胸とのこと。

いわゆる肋骨が折れてそれが肺に突き刺さり、
穴が開いたところから空気が漏れるといった症状である。
悪化すると空気がどんどん外に溜まり、
その空気が肺を圧迫し肺が潰れてしまうという恐ろしい病気。

体を動かそうとしたり、息をしようとすると胸に激痛が走る。
病院に運ばれてようやく軽傷ではなかったことに気付く。

いずれも不幸中の幸い。
もしあのままトラックに衝突していれば命はなかったかもしれない。
そう思えば傷は軽く済んだと思えた。

いずれも医師の指示により絶対安静と言うことで
このまま入院し明日また再検査とのことだった。
私は車椅子に乗せられ病室へと向かう。

病室に入ってしばらくすると二番弟子が心配して駆けつけてくれた。

入門したばかりの頃は「また厄介なのが入ってきたな」と思ったものだが、
彼の良いところは自分の悪いところをすぐに直そうとするところ。
今では熱心に修行に励み、私のことをとても慕ってくれ、いろいろと世話もしてくれる。

とにかく見舞いに来てくれたことがすごく嬉しかった。
事故は怪我だけでなく心の傷も残る。
しかし弟子の顔を見てずいぶん気持ちも和らいだ。

しばらくして弟子が帰り、ベッドに横たわるとまたもや胸に激痛。
しかも肺から空気が漏れるような音が聞こえる。
看護師さんにベッドをリクライニングのように上げてくれ、
半分座るような形で寝ることになった。

消灯時間過ぎても痛みでなかなか寝付けない。
ベッドの上で身動きとれない自分が情けなくて仕方なかった。
この時一番に思ったことは「歩きたい」だった。
このところ毎日、歩く鍛錬を行っていたので、体がそれを欲しがってならない。

おいしいものを食べたいとか、
どこかに行きたいとかではなく
自分の一番したいことが「歩く」ことだった。

とにかく今の願望は一日も体を早く治して、歩く鍛錬を行いたい。


それにしても最近トラブル続き。
サークル内での人間関係の縺れや退会者の続出。
一人二人ではなく何人も立て続けだと流石に滅入る。

何故、あれほど頑張っていた人達が太極拳を途中で辞め、
私や仲間達から去ってしまうのか?
一人一人の将来をとても楽しみにしていただけに、とにかく残念でならなかった。

そして、そのとどめを刺すかのように今回の人身事故。
踏んだり蹴ったりとはこのことを言うのだろう。

しかし、今回のことは良い兆候として私は考えている。

丁度20年前だろうか?
以前にも同じことがあったからだ。
今とは違い、その時はあるビジネスで頑張っていた時だったが
何人もの仲間に裏切られ、そのとどめが高速道路の交通事故。
死んでいてもおかしくなかったほどで、新聞でも取り上げられたほどの大事故だった。

上を目指すと必ず起きること。
それは様々な障害。
何もしなければ起きないこと。

しかし活発に動いているとあらゆるトラブルに巻き込まれる。
これは上に行くための修練であり、ここで挫折したら終わりと言うこと。
試されているわけだ。

その中でも交通事故は最高の代償と言われる。
自分が大きくなるためにはそれなりの代償を払わねばならない。
だから今回の交通事故は起きるべくして起きたと思っている。

私が死にかけたのはこれで3度目。
今は体のあちこちがまだ痛いが
これが治った頃には私は大きく変わっているように思う。

そして今したいこと。
武術修行。
どんな辛い修行でも死ぬことにくらべたらかすり傷。

今回のことで私は間違いなく目標に向かって確実に階段を上っていると確信した。

2017年9月8日金曜日

形のない心意拳

最近はひたすら歩く鍛錬中心に練習を行っているが、
昨日は約1時間以上歩き続けた。

歩くスピードにもよるだろうが30分で4㎞歩いた計算になるらしく
となると8㎞歩いたことになるのだろうか?

いずれも最後の方は重い足を引きずるような形での走圏になった。

型の練習よりも歩くことに重点を置いている。
歩けなければ型が安定しないとすぐに感じたからだ。

ということで、八卦連環掌も一通り覚え、
あとは5年、10年かけてじっくり練り込んで行こうと思う。

武者修行の前にもうひとつ、練習しておかねばならない。
心意拳。

ここ数年ずっと形意拳を行ってきたが、最近心意拳がやたら気持ちいい。
そしてこれなら一生できると思った。

心意拳の動きは極めてシンプル。
しかも太極拳のようにゆっくり動く。
いや太極拳よりもゆっくりかもしれない。

動きや形の問題ではなく、どう流すか?ということになる。
ひたすら同じ型を何度も何度も繰り返す。
しかし飽きることはない。

同じ心意拳でもそこから派生した流派で六合八法拳というのがある。
六合八法拳のまたの名を水拳と言うらしいが、
意を用いて氷、水、気体などに変化できることからそのように称されたらしい。

一方、その源流である心意拳のイメージは山だろうか。
地震によって断層に亀裂が入り山が動く。
そんな風に感じた。

一歩一歩呼吸に合わせゆっくりずっしりと歩く。
実に男らしくてカッコいい。

心意拳は陳式太極拳にも影響を与えたと伝えられているが
その歴史は古く、ある意味太極拳のルーツともいえるかもしれない。

ここ最近気づいたことは、
武術がつけ継がれていく度に内功と外功が入れ替わりながら伝わってきているように感じた。

内功中心で修行するものは外功を求め、
外功中心で修行するものは内功を求める。

ゆっくり動くと早く動きたくなり、
早く動くとゆっくり動くたくなる。
人間心理から考えるとそうなるのが自然ではないかと。

こんなふうに歴史を考察してみるのもおもしろい。

いずれも今は形のない世界が実に楽しい。

2017年9月6日水曜日

逆らわない受け入れる

私にとって推手はテクニック(技術)ではなく
メンタル(精神)が8割を占めると考える。

確かにテクニックでいなしたり崩したりも出来るだろう。
しかしその技術がどこまで通用するだろう?

今まで仲間との練習でいろいろ研究してきたが
私の場合、新しい方法を使って相手を崩すことができると、
私はすぐにそのテクニックを相手に教えるようにしている。

要するに手の内をすぐに明かすということ。
なぜならそのテクニックに依存したくないからだ。

テクニックだけにすがってしまうと、予期せぬ攻撃が来た時に対処できない。
無論またそのテクニックもあるのだろうが、
こうなると山のようにテクニックを覚えなくてはいけない。

暗記は私の大の苦手ジャンル。

私が使えるテクニックは数えるぐらいしかない。

聴勁化勁発勁
粘連随拈綿走
引進落空
四正四隅
長勁尺勁寸勁分勁零勁
明勁暗勁
大極十要
捨己従人

などと推手にまつわる用語だけでも数限りなくある。

しかしそれらを全部まとめると、ひとつの答えが出てくる。

その答えが、タイトルに書いたとおり
「逆らわない受け入れる」だ。

逆らわず受け入れることが
テクニックを超える最高のテクニックと私は考える。

推手の時間、いつもいつも口癖のように、
「逆らわない受け入れる」と言う。
しかし、少しでも押そうとするとほとんどの人が逆らおうとしてしまう。
そしてそれが表情にもしっかりと表れる。

無駄な力を抜くことが難しいように
逆らわず受けれいるといことも難しいようだ。

どちらも、いわゆる力を使わないという意味では同じ。
なぜか人間は本能的に力を使う方を選択してしまう。

無駄な力を抜き柔らかくなるということは、心を柔らかくしなければならない。
心が体を動かしているからだ。
心を柔らかくするとはやさしい心を持つこと。

今日、何度教えても逆らおうとする弟子に対し、
手を掴むことを禁じてみた。
さらに力を使って対抗しようとすることも禁じた。

さあ、なにが出来るか?

力を使えないのだから
受け入れるしかない。
その時に始めて、化勁の意味を感覚的に知ることになる。

弟子はどうやら感覚を掴んだようだ。
表情も全く違う。

今までは「崩されてなるものか!」としっかり顔に書いてあったが、
それがとても柔らかい表情に変わった。
実に楽しそうだった。

今まで様々なテクニックを教えてきたが、
それでもこちらが少しでも打ち方を変えると、
とたんに険しい顔になり力で対抗しようとする。

どんなにテクニックを覚えても
心が変わらなければ推手の上達は頭打ちになるということ。

推手は頭でやるものではない。
心でやるものなんだ。

2017年9月5日火曜日

ゆっくり動けないものは速くも動けない

私が太極拳を始めて間もない頃先輩から教わったこと。

今は他界され天国に召されたが
先輩が教えてくださったことは今でもずっと心に残っている。

速く動きたいと思うならゆっくり動くこと。

これは私がピアノやベースなどの楽器をやっていた頃に何度も経験したこと。
速くて難しいパッセージを弾こうとする時、速く弾こうとすると速く弾けない。
しかしゆっくり練習していると、同じ時間をかけてもゆっくりの方が圧倒的に速くすらすら指が動くようになる。
楽器をやっていた頃速く上達したい気持ちでどうしても速く弾こう速く弾こうとするのだが、どんどん指に力が入り、次第に肩がこりだす。
全くもって悪循環だった。

ということは?

一見ゆっくりで弱弱しささえ感じる太極拳はその速く動くための鍛錬であることがわかる。
むしろ速く動く練習をしている者よりも速く動けるようになる。

私はまだまだだが、他の太極拳の先生方の動きを見ていると、ゆっくりなのだが、信じられない程速い動きができることを何度か目にしてきた。
その動きはもう目では追えないほど。
手が何本にも見える。

また、緩み方を知らなければ力を出すことも出来ない。
私は普段から力まず緩むことを徹底指導しているが、
それは緩んだ方が大きな力を出せるようになるからだ。
逆を言えば小さな力で済むということ。

それでもまだ筋力に頼ろうとしている人もいる。
その気持ちもわからないでもない。
しかし、もっと速くもっと大きな力を身につけるためには、
今までの習慣を捨てなければならない。

完全に力を抜いてしまったら立てないではないか?
と言われそうだが、確かにそうだ。

ある日ある年配の会員さんに「力を抜いて」と言ったら、
いきなりくにゃあ~っとなってその場崩れそうになるほどよろめかれた。
まるでミニコントでもやってるような場面だったが、
力を抜くというのは無駄な力を抜くということであって、完全に力を抜くことではない。

このムダは省くことを脱力と言う。
どうか誤解のないよう。

そして無駄な力が抜けた時に、
最終的には体を支えるための最小限の筋力となる。

こうならないと入ってこないものがある。

気のパワーだ。
気のパワーはゆるんだ状態の体に入ってくる。
体の中にスキマを作ってやらねばならないといういこと。

頭もそう。
頭の中でごちゃごちゃいろんなことを考えていると、決して悟りは得られない。

悟りとは宇宙と繋がること。
習ってもいない知識が頭の中に入って来る。
大きな感動と共に恐れが消滅し喜びに満ちた状態になる。
会う人すべてを理解でき、すべての人を愛することができるようになる。
どんなに勉強しても決して得られないこと。修行あるのみ。

太極拳を10倍楽しもうと思ったら、
まずは無駄な力を省くこと。
この脱力を繰り返し最後に鬆開(しょうかい)という境地を目指す。

私はこのムダを省くため、今、ひたすら立ち、ひたすら歩いてる。
するとどんどん肩が軽くなり、体が軽くなり、
そして中から燃えるようなエネルギーが生み出されるのを感じる。

とはいうものの、まだまだ力んでしまうこともしばしば。
更に修行に励もう。

2017年9月3日日曜日

勁力の目覚め

今日は仲間と6時間に及んで練習した。

その時の会話だが、
人は太極拳の成長段階において、勁力を意識したり、
勁力が目覚めだすと
下手になったように感じる。
いや、実際下手になる。

実はこれはとても大事なこと。

試合を引退してからというもの解放感とともに
自分の中身が劇的に変化してきた。
見た目にはわからないと思うが、明らかにかわってきている。

筋肉を鍛えるための站椿功をやめ
低い架式で演武するのをやめ
ストレッチもやめた。

ただただ、水になり、風になろうとしている。

この過程の中で、一度下手になったような感覚を味わった。
いや、実際下手になった。

体を筋肉で支えようとすることをやめたからだ。

お陰で両足で立っていてもぐらぐらしたり
片足になろうものならぐら~っと倒れそうになる。

生徒からも
「先生、今日ぐらついておられましたが大丈夫ですか?」と言われる始末。

多分こうなるだろうなとは思っていたが案の定だった。

勁力を開発するにはちょっとした勇気がいると思う。
今までやってきたことを捨てて体の使い方を一から変えなくてはいけないから。

逆に今までのやり方にしがみついていると
勁力が目覚めることはないと思う。

すべてを完全にオフにした時
「さあ、どうする?」ということ。

こんにゃくを縦にして立てようとするようなもの。

そんな話をしながらも、
仲間と推手である実験をしてみた。

実験内容は師の許可を得ていないので秘密だが
推手で相手を崩す方法は力の出し方やタイミングだけではないということ。

意識を180度切り替えると、
力を使わず意のままに崩すことができる。

以前、推手交流会である先生が河原に生えている草をむしり取り
その細い茎の先端を私の手に当て力を加えてきた。
ここで驚いたのは、手には確実に力が伝わってくるのに
その茎がまったく折れなかったということ。

勁力というものがどういうものかを知るほんの一例だが、
この世界はとてつもなく深く、そしておもしろい。

それにこのチカラは心と身体をほぐしゆるめてくれる。
そして小さな力で大きな力を使うことができるようになり
武術に限らず生活や仕事にこのチカラを生かせるようになる。

当会ではこのような勁力を身につけるための練習を毎日行っている。

まとめとしては
大きな力を身につけるために、
下手になることを恐れないこと。

2017年8月30日水曜日

筋トレをやめれば太極拳は強くなる

太極拳を行うために筋トレを行う教室があるようだが、
私が教わってきた伝統太極拳で筋トレを行ったことは今まで一度もない。

そもそも何のための筋トレなのだろう?

套路を練ることそのものが筋トレであり、
套路のために筋トレを行うことは、筋トレのために筋トレをするようなもの。

腕立て伏せや腹筋、
バーベル上げ等。

その筋肉を一体何に使うのだろうか?

力では敵わない敵から身を守るために生まれた太極拳であるのに
筋力を鍛えることは全く真逆の鍛錬法である。

もしそれが、少林拳や査拳などの筋力で戦う外家拳であればわかる。

しかし太極拳では筋トレを行うべきではない。
筋力を鍛えれば筋力を頼ることになり、
逆に勁力を鍛えていくことができなくなるからだ。

私は簡化太極拳より伝統太極拳をすすめている。
理由は伝統太極拳には太極拳に必要な鍛錬すべてが含まれているからだ。

簡化太極拳は伝統楊式太極拳のダイジェスト版のようなものであり本編ではない。
だから現在簡化太極拳を練習されている方は、
そのルーツである伝統楊式太極拳を習得することをすすめる。
そうすることで初めて太極拳の本当の意義を知ることになる。

話を戻す。

結論として太極拳を始めるならば伝統太極拳を行うべき。
先程も述べたが、伝統太極拳には太極拳のすべてが詰まっているからである。

筋トレを行ってはならない。
筋力に頼る動きをして本物の太極拳には決してなり得ない。
コアを鍛えることもできない。

無駄に筋肉をつけると経絡を詰まらせ気の通りを阻害する。
それに過剰な筋トレは体内の活性酸素を増加させ老化を促進させる。
活性酸素は肌のハリ艶にも影響し、肌荒れやしわを増加させる原因になる。

長寿である仙人でムキムキの人をみたことがない。
私に伝統太極拳を教えてくださった先生方は
体格も小柄でやせ細っているのに想像を絶するパワーを持っておられる。
そのパワーは筋トレやストレッチで得られるものではない。

もう頭で考える太極拳をするのはよそう。

太極拳は理屈ではない。

じっくり時間をかけて伝統套路を通して行けば、
それによって得られるものを自然と知ることができる。

2017年8月29日火曜日

軸を鍛えると歳をとらない

現在当会ではほぼ毎日稽古を行っている。
これまで270人以上の方が当会の稽古に参加されたが、
その中で特に興味深く感じたことをひとつ。

これまで様々な職種や趣味をされている方が参加された。
中でも他流の武術家や格闘家、それにダンサー。

元々、体を動かすことに興味のある方達だから、太極拳に取り組む姿勢もとても熱心。
無論、これまであまり体を動かしたことのない方も一生懸命稽古に取り組んでおられる。

私が不思議に思ったのは、ダンサーであればずば抜けた平衡感覚を持っていると思っていた。
ところが太極拳を始めてみると、皆さんなかなか思うようにバランスがとれず苦労されている。
何故だろう?

これまで私が接してきたダンサーはジャズダンス、バレエ、ヒップホップ、ブレイクダンス、フラダンス、フィットネスダンス、創作ダンスなどなど。

特にバレエは片足で立つことが多いわけで並大抵の平衡感覚ではないと思う。
しかし太極拳では何故かうまくバランスがとれない。

これを独楽に例えてみよう。
回転の速い独楽は安定して長時間回ることができる。
まったくぶれない。
しかし、回転の勢いがなくなってきた独楽はぐらぐらと揺れだし間もなく倒れる。

自転車や単車も同じ。
走っていると自然と直立し、速度が遅くなるとバランスをとるのが難しくなり、足で支えなければ倒れてしまう。

いわゆるこれら、遠心力や推進力がバランスを助けているということ。

しかし太極拳では、回さない独楽を立てようとするようなもの。
走っていない自転車を立てようとするようなもの。
圧倒的に難しいのだ。

逆を言えば、だからこそ他のスポーツやダンスでは得ることができない軸を鍛えることができる。

この軸を鍛えると力を使わなくとも力を出せるようになる。
仕事や生活での作業が圧倒的に楽になる。
老化と共に頻繁に起きる転倒も起きにくくなる。
なぜ転倒してしまうかは筋力の衰えと共に体を支える力が弱まってしまうからだ。

太極拳で鍛える筋肉はまさにその軸を支えるコアマッスル。
しかもそのコアマッスルを最小限にしか使用しない。
太極拳で立つ原理は筋力だけではないからだ。

立つ時は、地球に働いている遠心力と引力を意識して立つ。
いわば天と地と繋がっているとイメージする。
意識するとその恩恵を得ることができる。

木や植物には筋肉がない。
しかし、まっすぐ立っている。

木や植物には根があるからだが、人間も大地に根を張ることができる。
イメージ力を使うわけだ。

脚を上げようとするとバランスがとれなくなり体が揺れ、そして倒れてしまう。
これに関しても脚を上げようとするからいけない。

太極拳は武術であり踊りではない。
脚を上げるのではなく蹴り技であることを思い出して欲しい。

上げると蹴るでは全く違う。
しかも太極拳の場合の蹴りは、力で蹴るのではない。
脚の筋肉をゆるめ、体全身を十分にゆるめ、そして、意を用いて脚を蹴り出す。

上げるのではなく広がるという感じだろうか。

いずれも太極拳で鍛えられるのは体を支えるためのコアになる筋肉と、
そして意を用いて勁力を使うようになれるということ。

どのようなジャンルの達人でも、その神技ともいえるような動きに力を使っているようには見えない。
力を使うのではなく力を使わない方法を知っているのだ。

筋力には限界があり、勁力には限界がない。
神技と言えるような領域に至るには、筋力に頼っていてはいけないということになる。

鍛えるのは筋力ではなく、イメージ力である。

2017年8月28日月曜日

回転には意味がある

当会では套路練習を行う前に必ず気功を行う。
気功は大きく分けて四つ。

払う、集める、練る、発する。

「払う」は邪気を払う。
一見ごく普通の体操のように見えるかもしれないけど
体を緩めているだけではなく邪気を払っている。
コップを空にしなければ新しい水は入れられない。
従ってコップにたまった汚い水(邪気)を払うことから始める。

「集める」はパワーを集める。
どこから?
それは天と地から。
マンガの世界のようだが、体を十分にゆるめ静かに立禅を行っていると
体内にパワーがどんどん入ってくるのがわかる。
太極拳はこの力を使う。

次に「練る」。
うどんも、そばも、パンでも練れば練る程強くなる。
氣も同じ。
練れば練る程強くなる。

最後のその氣を「発する」。
氣を発する時は力を使ってはいけない。
氣は力を使おうとすると弱まり、力を弱めようとすると強くなる。
筋力と勁力は反比例するのだ。

太極拳がおもしろいのは筋力ではなく勁力を使うところ。
腕相撲が強い人は太極拳の推手で勝てない。
力で押そうとしたり、スピードで倒そうとしたりしても、
スルリとかわされ、空を打つことになる。
これを化勁という。

さて、
今回話したかったのは、邪気を払うこととパワーを得ること。
当会ではまず抜筋骨から始める。
体をゆるゆるにし、邪気を払う。
邪気を払わなければパワーは得られない。

次にパワーを集め蓄える。
十分パワーが溜まると、自分の体がエネルギーに満ちた発光体のような感覚が得られる。
これが抜筋骨と立禅で得られること。

八卦掌で行う走圏も同じ。
左周りに歩くと邪気を払うことが出来る。
心の痛み、辛さ、ストレス、
体の痛み、倦怠感などを
左回りに歩くことで取り除くことができる。

逆に右回りに歩くと今度はパワーを集めることができる。
天と地のパワーだ。
ゆっくりぐるぐる回っているだけで、心が元気になり体が元気になる。
嘘だと思うならやってみよう。

八卦掌で回るのは相手をかく乱したり、後に回り込んだり、
攻撃を避けたり、不意打ち攻撃を加えたりするためだけではない。
八卦掌そのものが気功であるということ。

こんなふうに当会では、演武の美しさばかりを追求するのではなく
悪いものを払い、良いものを取り込むための行として太極拳を始めとする内家拳の練習を行っている。

これは太極拳愛好家に限ったことではなく
万人が望んでいることだと思う。

2017年8月25日金曜日

裸足で歩いてみる

最近はすっかり家練。
自宅で仕事することが多いから
仕事の合間にいつでも練習できるのがその最大のメリット。
しかも、仕事の合間に練習を入れることで更に仕事が捗る。

ずっとパソコンと向き合ってると
いつのまにかキーボードを叩く指に力が入り、
肩が凝り、
目が疲れ、
頭が痛くなってくる。

そもそもこれが辛くて始めた太極拳。

最近の練習は八卦掌の走圏がメインになってるが、
シューズを履くのをやめ、裸足で練習するようにした。

裸足のメリットは、気持ちがいいのもあるが、
それよりも大きなメリットは、足のどの部分に体重がのっているかわかること。

立禅の時は足裏全体に体重をかけるわけだが、
それがよくわかる。
シューズを履いていてもわかるが、もっとよくわかる。

それによく言われる平起平落(へいきへいらく)の意味もとてもよくわかる。

爪先から着地するとふくらはぎに無駄な力が入り、
踵から着地すると体幹や脳に衝撃が伝わる。

太極拳はゆっくり動くから踵から着地すればいいのだが、
形意拳や八卦掌の場合、踵から着地すると疲れやすい。
だから無意識に足裏全体で着地しようとするが、これがいい。

足裏全体で着地すればいくら歩いても疲れない。

それに、足の小指側の側面で立ってしまうという人がたまいいるが、
実は私もそう。
O脚だからだ。

だから意識していないと、ついつい足の側面で立ってしまう。

しかし裸足なら、これを意識しやすい。
床の感覚がダイレクトに伝わるから、おのずと足裏全体で着地しようとする。
O脚矯正にもよさそうだ。

ひとまず裸足でひたすら歩いてみよう。

2017年8月23日水曜日

捨てる

今のところに移り住んで7年が経った。

当時は様々な家具や照明を買いあさり自分の好きなインテリアに。
奈良での新生活、楽しかった。
毎日、手製のおいしい料理をつくり堪能した。

しかし良かったのはほんの半年程度。
今はひたすら物が増え、どの部屋も倉庫状態に。

生活意欲はもちろん、仕事の意欲も落ちてきた。

堪りかねようやく最近コツコツ片付け始めた。
お陰で練習場だったリビングはグンと広くなり、
ゆったりと円軌道を歩けるようになった。

あとは仕事部屋も片付けよう。
寝室も、書斎も、洗面所も、風呂も・・

捨てなければ片付かない。
片付けなければ新しいことに出会えない。
逆を言えば、捨てれば新しい自分に出会えるということ。

武術もたくさん捨てて来た。

簡化24式太極拳
42式総合太極拳
32式剣
42式綜合剣
功夫体操1、2
入門長拳
剣術
功夫扇
五歩拳
八極拳
通背拳
陳式太極拳
呉式太極拳
孫式太極拳
小林太祖長拳
形意剣

これら全部捨てた。

今後、形意棍も捨てる予定。

理由は、ひとつを極めるのに一生掛かるのに、
これら全部極めるのは無理だと判断したから。

それに、様々な武術を携わってみて、
結局最初に始めた楊式太極拳と双辺太極拳に立ち戻った。
これこそが自分が生涯かけてやりたい武術であり、
極めたい武術だと悟ったからだ。

それを教えて下さったのは我が師。
私の迷いを消し去ってくださった。
師匠の楊式太極拳は本当に素晴らしい。

因みに太極拳と言うと何をイメージするだろう?
やはり、あのゆったり柔らかい套路だろうか。

私は違う。
私の楊式太極拳のイメージは「風」

風を起こし、風を操れるようになりたい。
それが私が楊式太極拳を極めたい理由。

そういえば、昔アニメで赤胴鈴之助というのがあったが、
大好きだった。
最後に身につけた技は剣術ではなく風を起こし風を操ることだった。
子供の頃、風を起こせたらどんなにいいだろうと強く夢を抱いた。

そして今本気で風を起こすための修行を行っている。

二兎を追うものは一頭も得ず。
多芸は無芸。

套路コレクションはもう終わり。

私は風を起こせるようになりたい。

2017年8月22日火曜日

立つ練る歩く

太極拳を始めとする「氣」を用いる拳法を内家拳と呼ぶ。

内家拳は体格差のギャップを埋めてくれる素晴らしい拳法。

体が小さいから。
体力がないから。
弱虫だから。

全く関係ない。

私は太極拳によって心身共に丈夫になり病気もほとんどしなくなったが
中学生までの私は先程の3つ全部が当てはまった。

体はクラスで一番小さく、背の順も一番前だった。
だから背の順が嫌いだった。

体力もなかった。
幼いころから小児喘息を患い、疲れやすく激しい運動をすると動悸が激しくなり、
喘息が発症すれば息が出来なくなり、
酷い発作があまりにも辛く、そんな自分が哀れて泣いたこともよくあった。

弱虫でもあった。
喧嘩を売られればやり返すのだが、やっぱり怖い。
大人しく体が小さいというだけで、どの学年でも私をからかう者がいた。
殴る、蹴る、唾を吐かれる・・
そんなことがしょっちゅうだった。
だから暴力が大嫌いだった。

ある時、本屋でみつけた合気道の本のサブタイトルが「雲突く大男をひとひねり」
と書かれているのを見て、勇気をもらった。
その本を買い、自分なりに独習してみたが、うまくいかなかった。
でも、それでも良かった。
体が小さくとも大男に勝てる技があるのだということを知っただけでも勇気をもらえた。

それから約24年。
太極拳と出会った。
その時の今は亡き先輩の言葉は今でも忘れない。
「太極拳は50から力を出せるようになる」

今までの常識で考えるなら歳をとればとる程体力がなくなり、弱っていくはずなのに
50歳から強くなる太極拳とは一体?!
すごく興味を持ったことを覚えている。

また、ある先生は
「太極拳は歳をとればとるほど強くなり、棺桶に入る直前まで強い」と仰った。

そうか。
歳をとることを嘆かなくともいいんだ。
寧ろ歳をとることが楽しみになるとさえ感じた。

この言葉は今でも私の中に生き続け、そして今も自分の可能性をどこまで引き出せるか修行を楽しんでいる。

そのための鍛錬が、立つ練る歩くだ。

体格や体力のギャップを埋めるにはまず立つことが大事。
これを站椿功、或いは立禅という。

そして練る。
極限まで脱力しながら套路をゆっくり行う。
この方法でしか得られない力を身につけることができる。

次に歩く。
天地のパワーを感じながら円軌道を歩いてると、
どんどん自分の中にパワーが渦巻いてくる。

内家拳は本当に奥が深くおもしろい。
何をやっても飽きっぽい私だったが、これならば死ぬまで飽きることがない。

太極拳には引退という言葉はない。
やればやるほど強くなり、それが死ぬまで続く。

当時、体が小さく、病弱で弱虫だった自分が大嫌いだった。
しかし今はそれで良かったと。
こんな素晴らしい武術に出会えたのだから。

2017年8月21日月曜日

心頭滅却

「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉があるが
立禅ではとても必要なこと。

妄想や雑念、邪念を取り除き無になること。

今日、弟子に私の腕に鞭手を何発が打たせた。
弟子は普段から立禅を重点的に行っているだけのことはあり
勁力がまた上がっていた。

重い鞭手がバシバシと、
その衝撃を自分の腕で感じることが出来た。

しかし、私の腕は
痣も出来なければ、打撲も、内出血も、筋肉痛にもなってない。

長年気功を行っていると、気功の体がつくられてくる。
打たれても痛みを感じなくなり、怪我もしなくなる。
まるで目に見えない鎧を身につけているようだ。

そして、攻撃を受ける時は無になること。
「打たれたら痛いのではないだろうか?」
などと微塵にも考えたらそれなりの痛みを感じただろう。

「痛くない痛くない・・」とも考えない。

痛くないと言い聞かせていること自体痛みを恐れていることになる。
これ妄想なり。

何も考えない。
恐れない。
心頭滅却する。
すると火が涼しく感じるよう、攻撃もまた快感へと変わる。

2017年8月19日土曜日

バランスよく

推手がなかなか上達しないからといって、
推手ばかり練習すればいいというものではない。

ここでも陰陽説が出て来るのだが、
光があるから影ができる。
影の暗さがあるからこそ光の明るさを感じる。

推手も同じ。

推手だけ練習していても、推手に必要なことはなかなかわからない。
呆然と二人で手をぐるぐる回しているだけでは決して推手は上達しない。
粘連随綿の意味を理解しようとすること。

「粘」は相手の手から離れないよう粘りつき
「連」は途切れないように動くこと
「随」は相手の動きに合わせ
「綿」は綿のようにやわらかく相手に触れていること。

このどれかが欠けていても推手は上達しない。

まずは相手の中心を取ってみること。
失敗したら、それは自分の動きに何か間違いがあったということ。

因みに推手の攻撃は攻撃から始まるのではない。
推手の攻撃は無意識に行われ手を合わせた瞬間から始まっている。
具体的なことは奥義に属するのでここでは割愛する。

難しい話は抜きにして、
推手上達に必要なことは立禅や套路にそのエッセンスが全て含まれている。

立禅では何が何でも正しい姿勢で行う。
もし間違った姿勢で行っていたら全く意味がなくなる。
私が指導する通りに実践していただきたい。

套路に関しても正しい歩型や姿勢が安定した軸感覚を生み出し、
また、力みなく動けるようになれば見た目も非常に柔らかい演武になる。
これら全て推手に必要なこと。

では、気功と套路をやっていれば推手は上達するのか?
無論それでも上達するがもっと質をあげるために散手をしたほうがよい。
要はバランスよく練習することが大事ということ。

散手で学ぶことは基本、技の使い方と思われがちだが、
それだけではない。
もちろん技を覚えることも大事だが、その技でどれだけパワーを引き出せるかは
推手でいかに化勁が鍛錬できているかによる。

力任せの推手をやっていては、
散手も套路も気功も、プラスどころかマイナス効果になってしまう。

私は指導する際、重要なことは何度も繰り返し言うようにしている。
自然とそうなる。

しかし人間と言うのは繰り返し言われると、それが当たり前になり、
いずれ耳の中を素通りするようになってしまうから厄介だ。

一期一会ではないが、
一期一語と思って欲しい。

今一度、私がいつも繰り返し指導していることにしっかり耳を傾け
理解しようと努力して欲しい。

当たり前のことだが、私は上達することしか言わない。
そして、上達する人は、それを聞き逃さない。

少なくとも私はいつもアンテナを立て感度はいつもMAXにしている。
学びたい素直な気持ちがあれば、人はそれを与えてくれるものだ。

伸び悩んでいる人は、自分に依存していないだろうか?

何度も言ってきたことだが、
素直こそ最強である。

2017年8月18日金曜日

闘えない太極拳?!

某SNSのある投稿を見て私はショックを受けてしまった。

そのタイトルが
西洋格闘技に20秒で惨敗した中国伝統武術というもの。

西洋格闘技とはいわゆるボクシングスタイルの格闘家で、
中国伝統武術とは太極拳武術家。

結果は西洋格闘家の圧勝で、太極拳武術家はわずか20秒でTKO

格闘家は武術家に対し先制の左ジャブから始まり隙を見てすかさず右フック、
その後連続パンチを浴びせ、倒れた武術家の頭部を更に連打。
あまりにも呆気ない勝負で、見ていて胸が痛くなった。

武術家は頭部から出血したらしいが映像ではよく確認できなかった。
いずれも深刻なダメージを受けなくて良かった。

私がこの試合に対し思ったことは、西洋格闘技であればグローブを着用すべきだと。
素手で後頭部を連打すること自体下手をすれば命に関わる。
一方、太極拳武術家はグローブを着用することは出来ない。
掌を多用する太極拳ではグローブを着用してしまうと太極拳のほとんどの技が使えなくなってしまう。

というより、それ以前にこの試合そのものが無意味であると言いたい。

そもそも太極拳は格闘技ではない。
闘うための武術ではないと私は認識している。

内乱が多かった中国で武装した敵から自分の身や家族の身を守るために生まれた護身術である。
決して試合会場で闘うことを目的としてして生まれた武術ではなく、
自分の命を守るために、敵を戦闘不能状態まで追いやることが目的である。

それ故に狙うところは
眼球、コメカミ、後頭部、耳、喉、心臓、胃、肝臓、腎臓、膀胱、脇腹、金的、肘、膝等を攻撃し瞬時に敵を戦闘不能状態にする。

眼球への攻撃は視力を奪い、耳への攻撃は聴力を奪う。
喉には頸動脈や脊髄がある部位であり、ここを攻撃すると呼吸障害や脳の機能に障害を与え、失神だけでは済まない深刻なダメージを与える。

心臓への攻撃は心機能停止に至らせたり、胸骨陥没により心臓を破壊する。
他の内臓への攻撃は気を打ち込み内部破裂させるので、出血具合によっては死に至る。

関節への攻撃は肘や膝を折りこれもまた戦闘不能状態にする。
又、ある時は指先で点穴を付き、やはり敵を身動きできない状態にする。

太極拳は見た目柔らかく美しい舞踊のように見えるが、
綿の中に針を隠すと例えられる通りその技は残酷極まりない。
しかしそうでもしなければこちらが殺されてしまうのだ。

よって、太極拳はルールある格闘技の場で使える技は皆無に近い。
だから太極拳は決して闘ってはいけない。

前にもブログで取り上げたが、もし暴漢等に襲われそうになったら、逃げるが一番。
護身術を使うのは最後の手段であり、
太極拳の目的は危険をいち早く察知するための聴勁を鍛えることにある。

いずれも、私としては武術家は格闘家と試合をして欲しくない。
武術は強さを競うために生まれたのではなく
生死のかかった状況で自分の身を守るために生まれたものなのだから。

2017年8月15日火曜日

放鬆の意味を考える

放鬆(ほうしょう)とはなんだろう?

私はこれまで体を極限までゆるめ気を沈めることだと思っていた。
無論間違いではない。

いずれも、単に脱力だけを示すことでないことは確か。

ひとつひとつの漢字を調べてみると・・

「放」は「はなつ」という意味で
「鬆」は「隙間や空洞」を意味する。

つまり
体をゆるめることで気の通り道を開き、
そこへ気を流し気を放つことができる状態なるというのが私の解釈。

放鬆の状態からは大きな出すことができるし、
なにより、この状態であればどれだけ動いても全く疲れない。
心拍数が上がったり、息切れを起こすこともない。

それに、気血の巡りが良くなるので、体温が上がる。
つまり外部からではなく自ら体を温めることが出来、
これにより免疫細胞を活性化させることが出来るので病気しない元気な体をつくっていくことができる。

こう考えると放鬆は力を抜くことだけが目的ではないことがわかる。

力を抜くのは気の通り道を開くためであり、あくまでもプロセス。

あとは意によって気をコントロールする。

それは、
綿のように柔らかくなることも
鉄のように硬くすることも
羽のように軽くすることも
石のように重くすることも
あるいは電気や光のように発射することも出来るようになる。

特に最後の「発射すること」に関しては信じられない人も多いだろうが
私は何度もそれを受けその威力を実感している。

放鬆は単に力を抜くことだけでもなければ
気を沈めるだけのものでもない。

この目的は気の通りを良くするためであるということ。

機会あれば、この気をどこにアクセスさせ、どのように流していくか
私の経験を元にお話したいと思う。

まずは開くために体を十分ゆるめることから始めよう。

2017年8月12日土曜日

気を奪うということ

自分はどうしたいか?と考えるようにしましょう。
逆に他人にどうすべきかということは言うべきではありません。

前者は夢、願望であり、
後者は単なるお節介です。
人を尊重し、いつまでも夢や願望、希望を追いかける自分であって欲しいと思います。

他人のことを話す時、あなたは相手を尊重する気持ちがありますか?
もしかしたら自分の存在を認めさせるため自分の考えを相手に押し付けようとしていませんか?
又は人の一面だけを見て相手を判断していませんか?

それは大きな間違いです。
人間はそんなに単純な生き物ではありません。

私は幼い頃から体力がなく、今では目も耳も感覚が鈍く不自由を感じることも多いですが、
その分相手の気を感じる力が少し長けているように感じています。
気は目に見えるものではなく体(上丹田、中丹田、下丹田)で感じるものです。

人と人とは常に気の交流を行っています。
人から気を奪おうとしないよう。

先程も言ったように、自分の存在を認めさせようとする行いは相手から気を奪おうとすることになります。
その証拠にそれが成功すると気を奪った方は力を得たように感じ、
逆に相手は力を失ったように感じます。

私たちが何故気功を行い太極拳を行うのか?
それは他人から気を奪うためではありません。

無限のエネルギーである自然、宇宙から気を取り込み、そしてそれを与える側にならなければなりません。
与えるというのは人に干渉することではありません。
相手を思いやる気持ちこそが与えるの意味です。

自分の行いをその都度振り返ってみましょう。
その行いには愛がありますか?
もしかして自分のためではありませんか?

気功と太極拳によってまず自分自身が強くなりましょう。
そしてそれを与えられる人になって欲しいと思います。

2017年8月8日火曜日

煩悩

気功と太極拳を通じ
煩悩に支配されている自分に気付いて欲しいと思う。

煩悩に囚われていると心が濁り、
血が汚れ、
体に毒が溜まりやすくなり、
病気しやすくなる。

欲望に勝てないから
煙草も酒も辞められない。

肌は荒れ、
ハリを失い、
透明感が失われ黒ずんでくる。

体内のフリーラジカルが増え、
ホモシステインが増え、
DNAが破壊され、
老化、癌化を促進させる。

今はもう、人間の老化メカニズムが解明されているわけで、
これからは老化を遅らせ
人生をもっと楽しむ時代に入っている。

今では信じられないことだが、
体を粗末にしたり、
命を粗末にしたりすることが流行った時代があった。
薬物乱用や自殺ブームだ。

公害によって水と空気が汚染され、
その環境に慣れてくると
人間はいつしか毒を欲するようになる。
毒はまた毒を求め次第にそのスパイラルに嵌って行く。


今一度思い起こしてみて欲しい。
なぜ太極拳を始めたのか?

太極拳はもちろん
特に気功には浄化作用がある。
濁った心が透明になって行き、
そのことで血もきれいになり、
体もきれいになっていく。

きれいになるということは健康になるということ。
美は健康の上に成り立つものだから。


私としては太極拳を始めたのであれば、
透き通るような心と身体を求めようとして欲しいと思う。

少なくとも私はそれを目指している。

2017年8月5日土曜日

空気に溶け込む太極拳

大会を引退してから2週間とちょっと。
徐々に自分の中に変化が起きてきている。

特に今夜の楊式太極拳クラスでの全套路は最高に気持ち良かった。

「見せる」という意識から解放されると
太極拳はこれほどにも変わるものか?

動けば動くほど肩が軽くなり、
腕が軽くなり、
体が軽くなり、
そして自分の体が空気の中に溶け込んで行く。

まるで気の中をゆったりと泳ぐマンタのように。

昨日、数年間表演武術を習っていたある会員さんが、
套路の中で変わった動きをするから
それはなにかと尋ねたところ、
前の先生にこうするときれいに見えると習ったという。

その動きは武術的な意味を持たず、
勁力を下げ、
技としても使えない動きだった。
私はすぐに直すよう指導した。

美しくみせようとする心に放鬆はない。
持論だが、少なくとも私はそう。

太極拳の楽しみ方は人の分だけあっても良いと思う。
他人のことをとやかく言うつもりは全くない。

しかし、一度でもいいから放鬆の世界を味わって欲しいと思う。
もしその体験ができれば、
今まで広いと思っていた世界が途端に狭く感じ、そのことにショックを受けるだろう。
伝統太極拳の世界は宇宙のように広い。

その宇宙を意のまま自由に泳ぐことが出来るのが伝統楊式太極拳。

もし太極拳の流派に迷ったら、
一番に伝統楊式太極拳を選ぶことを強くすすめる。
規定套路の楊式太極拳ではなく伝統楊式太極拳。
同じ楊式太極拳でも全く違う。

美しく演じようという気持ちを捨てよう。
そうではなく、中から動くことが出来たら、
それがすでに美しいのだ。

楊式太極拳の創始者は無敵だったことから楊無敵と呼ばれていたという。
そして今、伝統楊式太極拳の医学的研究が急速に進んでおり、様々な難病を克服するという研究データが増えつつある。

絶対やって損はなし。
いつでも当会を訪れてみて欲しい。

2017年8月4日金曜日

封印

先日のカルチャーで、参加された方に尋ねられた。

「本当に氣で人を飛ばすことができるんですか?」と。

私は即座に「出来ます」と答えた。

実際は氣で飛ばすというより
気の流れを意識し脱力した状態で打つという感じだろうか。

逆を言えば
脱力することにより氣が流れやすい状態をつくり、
そこにターゲットである部分に意識を送る。
するとそこに氣が流れる。
あとは、それに従うという感じになる。

話の流れからしてそれをやって欲しいという空気になったが
それは避けたかったので今は封印していると伝えた。

体験に来られた方をいきなり吹っ飛ばすことなどできるはずがないし、
武術や武道の心得のない方を飛ばしたりして怪我でもされたら大変。

ある時から自分の勁力が急激に上がったことを自覚した時があり、
その日から散手もミット打ちも自制するようになった。

氣の力は自分の想像の外にあるので、
無意識に相手に大きな衝撃を与えてしまう。

氣の力が大きいことも怖いのだが、
それが無意識の状態で起きるということが怖いのだ。

勁力を増大させるには、力みを抜き脱力することが大切と教えている。
それに「打とうとしないこと」とも教えている。

打とうとすること自体今までの習慣で打ってしまうからだ。
今までの習慣=筋力
ということになる。

逆に大きくなった気の力を抑えるには、無ではなく意識しなくてはならず
又、力を弱めるために筋力を使ってブレーキをかけなければならない。

全くもって逆なのである。

いずれも今は封印している。
皆の健康を願って始めた気功と太極拳。
決して怪我人だけは出したくない。

氣の世界に興味を持ってもらうには、
デモンストレーションとしてその力を見せることも必要だとはわかっているのだが、
今はとにかく封印。

やって欲しいと言われても今はやらないと決めている。

2017年7月29日土曜日

見せない芸術

今、丁度楊式気功をやり終えた。

体がすぅーっと軽くなり、気分もスッキリ。
体にたまっていた毒のようなものが煙のように消えていってしまったような感覚。

楊式太極拳に魅せられ15年
この太極拳に出会えてよかったと思える瞬間。

楊式を何かに例えるなら「風」が一番しっくりくる。

これまで演武力を高めるため表演にも力を入れてきたが
今はその表演意識を壊そうとしている。

もう誰にも見せなくても良いのに
まだまだ見た目を意識している自分がいることに気付く。

この表演意識が完全にゼロになった時、
今まで見たこともない素晴らしい世界に行けるような気がしてならない。

見た目を意識すると必ず力が入る。
スーツを着ている時と素っ裸で風呂に入っている時との違いのようなものだろうか。

表演服を着ていると見た目柔らかく見えるが、
表演しようとしていること自体力が入っていることに気付く。
だから表演で放鬆に至ることはないと思う。(あくまでも私は)

力を抜くとなにが良いか?

気の通り道である経絡が開き気血のめぐりが良くなる。
芯から体が温かくなり免疫力を上げる。
温泉に浸かっている時のような気分を味わえる。
肌のハリ艶が断然良くなる。
力に頼ろうとしない分体に隙間が生まれそこに筋力ではない力が入ってくる。

因みに放鬆とは頭の中も空にしなければそれに至ることはない。
頭の中を空にすると〝つながる”感覚を味わえ、
そして、多くの〝気づき”が得られる。

水の入ったコップに水を入れることが出来ないように、
一度コップの中の水を捨てなくては新しい新鮮な水をいれることは出来ない。

これまで私は芸術性も重視してきた。
理由はこれまで何度も書いてきたが、すべて自分に必要なこととしてやってきた。

その私が今、芸術性を捨てようとしている。
いや、正確に言えば見せる芸術を捨てようとしている。

これからは見せない芸術を求めて行きたいと思っている。

新しい自分に出会うために。

2017年7月25日火曜日

苦悩、努力、涙、そして新たな道 4 ありがとう

体育館入口付近の廊下で去年拳術チャンピオンOさんとばったり会う。
そして、Oさんは笑顔で手を差し出し「おめでとうございます」と。

私は自体が把握できず
「え?なにがですか?」と聞き返した。

するとOさんは「入賞されてますよ」と。

私は信じられなかったので「え?噓でしょ?」と聞き返した。
確かに場内アナウンスで私の名は呼ばれなかったように思えた。

この時、横にいた弟子は、飛び跳ねて喜んだ。
「えっ?!やったぁ!やったぁ!すごい!」
まるで自分ごとにように喜んでくれた。

私はそれでも信じられなく、順位表を見るために走ろうとしたその時
場内アナウンスが流れた。

「入賞された〇〇選手、表彰式を行いますので表彰台までお越しください」と。
私の名が呼ばれた。

ようやく私は自分が本当に入賞したと知った。
呆気にとられている私の横で弟子が私の分まで喜んでくれた。
そして表彰台に走った。

私は3位、銅メダル。
表彰台で賞状を受け取る時
何故か涙がこみ上げてきそうになったのを必死に堪えた。

おそらくこの5年間、自分と葛藤しながらも
死に物狂いで頑張ってきたことを思い出していたのだと思う。

暑い日は汗だくで、
寒い日は凍り付きそうな程の冷たい風に打たれながらも、
朝も昼も夜も夜中も頑張ってきた。

そんな私の姿を見て、そこに居合わせた人や通りすがりの方から励ましの言葉やエールを頂いたり、顔見知りの方もいつも応援してくださった。
人の温かみを感じる瞬間であり、そして多くの方々から力を頂いた。
本当に有難いことだった。

私が5年前始めて大会に出た時、すでに決めていた。
4年で勝負を決めると。
そして引退しその後は思いっきり伝統の修行をしようと。

最後の最後に私は嘘ではない自分の演武をし、そしてメダルもとることができた。
これ以上最後に相応しい結果があるだろうか。

今まで頑張ってきて本当に良かった。
最後まで諦めないで本当に良かった。

自分の演武をし、
そして皆の期待に応えることが出来た。

どちらかを選択しなければならなかったはずなのに、
どちらも達成できた。

そしてこれからは自分を偽ることなく、本当にやりたかった修行に専念できる。
今まで味わったことのない達成感と共に開放感が得られた。

*****

今まで私のことを応援してくださった方々に心から「ありがとう」と言いたいです。
絶不調の中、最後の舞台で奇跡が起きたのは、間違いなく皆さんのお陰です。

私のことを心から心配してくれ、励ましてくれ、優しい声をかけてくれ、笑顔で手を振ってくれ、涙を流してくれ、エールを送ってくれ、盛大な拍手をして頂いたこと、本当に嬉しく励みになりました。
私が悔いなく選手人生を終えられたのは本当に皆さんのお力によるものです。

そして、私にこのような素晴らしい機会を与えてくださった府連盟の方々に心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。




<過去5年間の大会全実績>

2013年
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 3位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 18位

2014年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
奈良県武術太極拳競技会 楊式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 呉式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 2位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 14位
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 銅賞
伝統武術観摩交流大会W1-GP 形意拳 銅賞

2015年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
奈良県武術太極拳競技会 楊式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 2位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 10位
中国伝統武術近畿交流大会 器械種目 銀賞
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 6位

2016年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
奈良県武術太極拳競技会 楊式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 2位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 10位
中国伝統武術近畿交流大会 器械種目 4位
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 8位

2017年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
全日本武術太極拳選手権大会 拳術種目 23位
中国伝統武術近畿交流大会 器械種目 銅賞
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 5位

2017年7月23日日曜日

苦悩、努力、涙、そして新たな道 3 執念の形意棍

遂に選手人生最後の演武の時間がやってきた。

それまで絶不調ながらもそれなりにリラックスしていた自分とは異なり
今度は闘志を燃やす自分がいた。

舞台裏集合場所で入場のため一列に並ぶ。
いつもの自分なら気持ちを緩めるためにも周りの選手と会話を楽しむのだが、
今回は誰とも一言も口を利かなかった。

気が散ることを避けたかったからだ。

そして選手入場と共に会場に入る。
この時の気分は先程と同じよう勝負に出ようと腹は決まっていたが、
あとは自分を信じるしかないと思っていた。

初出場から2年連続入賞した近畿大会だったが
3度目である去年の形意拳は自選種目だけに出場選手の身体レベルが非常に高かったことと
もう一種目は棍から手を何度か滑らせてしまい、惜しくも敗退。
48歳から始めた形意拳、50を超えた今、とても若い人に敵わない。

いずれも去年の悔しさもあったので
そのリベンジを果たしたかった。

コート袖で、何度か軽く棍を振ってみる。
やはり調子が出ない。
相変わらずドームの天井はゆっくりと回っており、
棍を握る手も力が入らず、いつでもすり抜けそうな感じだった。

そして自分の番が回ってきた。
コート袖に立ち棍を持って包拳。
立ち位置までゆっくり歩き進んだ。

立ち位置についた時、こう思った。
一発目の劈棍が勝負だと。
ここでいつもの力が出せればあとはなんとかなるだろうと。

ゆっくり息を吸い、棍梢(棍の先)で天を突く。
この時棍に命が宿った気がした。
そして、半歩踏み出し、私は大きく棍を振り下ろし最初の劈棍を決めた。
棍梢がブルンと震える。

先程同様、眩暈も動機も脱力感も消えていた。

絶好調ではないが、
なんとかなる・・
そう思った。

もうあとは流れに任せた。
私の好きな横棍、そしてそれに続く鑚棍
伸び伸びとした動きができた。

ぶっ倒れてもいいと思っていたが、実際に倒れてしまうと大量減点。
倒れるわけにはいかない。
スタミナを保ちながらも、一発一発力一杯棍を振った。



演武の後半に差し掛かった頃から、残っているスタミナを使い切ろうと思った。
そこからは持てる力を振り絞り、棍をぶんぶん振り回す。

恐らくこの時の私は殺気だった状態だったと思う。
仲間からの声援や涙を無駄にしたくない!

そして私の演武はいつになく荒々しく激しくなっていった。
周りの選手が私を避けるのがわかった。

そして最後の見せ場である連環斜劈棍では、
最後の力を振り絞り力いっぱい棍を振り下ろす。

ここでは低い位置まで棍を振り下ろすのだが床は叩かない。
しかしあまりの勢いに棍が加速してしまい床を思いっきり叩いてしまった。
この時に審判席の空気が変わったことを感じた。

最後は舞花転身跳棍。
棍を回し跳びながら転身し、収式に入る。
最後は棍把を床に打ち込み気を沈める。
ドーンという音がドームに鳴り響いた。

終わった。
全てが終わった。

思いっきりだっただけに荒々しい演武になってしまったと思うが、
こちらも悔いはなかった。
というより、不調を言い訳にしたくなかったのだ。
不調だからと審判はそれを配慮してくれるわけではない。

不調もまた実力。
やる時はやる。
それが私が53年間貫いてきた精神。

確かに上を狙いには行ったが、
終わった時点でそのことはもうどうでも良くなっていた。
とにかく自分は絶不調の中、ノーミスでやりきった。
それだけでも十分だった。

その足で観覧席に戻ろうとしたら、
観覧席の廊下で目を赤くし涙ぐんでる弟子が私の帰りを待っていてくれた。
悔しいことがあっても決して泣かない弟子が、泣いている。
もう言葉は何もいらなかった。

本気で私を心配し、
本気で応援してくれてたんだと思った。
その場でずっと泣かれてしまったので取り乱しそうな自分を抑えるのに必死だった。

ありがとう。
本当にありがとう。

しかし自分の演武は決して美しい演武というものではなく
恐らく魂の叫びに近かったように思う。
荒々しく殺気立った演武。
他の選手は皆大変素晴らしかっただけに入賞はないだろうと思っていた。
それでも私はもう十分だった。

皆から頂いた拍手や声援、
仲間からの励ましの言葉や賞賛、
両手で思いっきり手を振ってくれたO先生、
私の体を最後まで気遣ってくれたHさん、
私のために泣いてくれた弟子。

すでに金メダルを遥かに超えるものを皆からもらっていた。

その時場内アナウンスが聞こえた気がした。
一人一人名前が呼ばれる。
場内が煩かったのでアナウンスがよく聞こえなかったのだが、
私の名は呼ばれなかったように思えた。
やはり届かなかったか・・と。

やむを得ない。
自分はやりきったんだと。

いずれも一応順位を確かめるために貼り出された順位表を弟子と観に行こうとした。
が、その時・・

続く

苦悩、努力、涙、そして新たな道 2 奇跡の形意拳

自分の立ち位置まで進む時、なぜか気持ちは落ち着いていた。

恐らく、上を狙う演武をしようとするのではなく、
いつも通り自分の演武をしようとしていたからだろう。

立ち位置に付き、無極式から太極式に入った時である。
大きく息を吸いながら両手を上に広げたその時、
なんとも言えない柔らかい光に包み込まれたような気分に・・
そして何かが自分の中に舞い降りてきた。

この一瞬で先ほどまで起きていた眩暈、動悸、発熱、手の震え、脱力感すべてが消え去り
ふわぁーっと中から力が湧いてきた。
息をゆっくり吐きながら三体式(形意拳の基本の構え)に入る。

最初は鷂形から始まる。
いつも私はここで十分気を溜めてから一気に打ち込む。
その時、独立歩になる時間が長くなるが、揺れることなく安定していた。













この時自分は本来の力が蘇っていることを自覚した。
あとは、意識よりも先に体が動き、気がつけば
河北派の打たない踏み込まないいつもの自分の形意拳を行っている自分がいた。

自分の演武をしている!
そう思った。




収式に入る前、崩拳を一発入れ、最後は横拳で終わるが、
その崩拳では体全身から全エネルギーを炸裂させた。
仲間が私の崩拳には殺人的パワーがあると言ってくれたが、それを最後に打ち込んだ。

選手人生最後の形意拳。
奇跡が起きたことによって、全く悔いのない自分らしい演武ができた。
最高の気分だった。

そして包拳をしてコートを立とうとした時、
コート袖や観覧先から「好!」という歓声と共に大拍手が起きた。
知るはずがないのに、まるで私が極限状態であったことを知っていたかのように。
拍手が全くない選手もおられるのに何故私にこれだけの拍手が?
私は嬉しさのあまり涙が出そうになった。

そして選手控え位置に戻った時、
体調がまたおかしくなった。
体がとめどなく熱くなり頭も熱っぽく。
その時、既に出番を終えていた八極拳の拳友がそんな私の状態を見て
心から心配してくれ扇子で一生懸命私に風を送ってくれた。
なんと有難いことか。。
しかもこの拳友は金メダリストのチャンピオン。

その拳友に「この扇子をしばらく貸してもらえないか」と伝えたら快く貸してくれ
それを持って観覧席に戻った。
そして席には、サポートを頼んでいた弟子が私の帰りを待っていてくれた。

私の体調を知っていただけに心配もあったのだろうが、
演武がとにかく凄かったと言ってくれ、
仲間と一緒に感動して泣いていたという。
その仲間は去年の金メダリストチャンピオン。
その想いが伝わりまた私もまた目頭が熱くなってしまった。
本当に嬉しかった。

私はすぐに次の種目の出番があったので、
再度コンディションを整えねばならなかった。
弟子が扇子で手がつりそうなほど一生懸命扇いで風を送ってくれた。
水分補給をし、栄養補給をし、汗を拭い、
そして休まず風を送ってくれた弟子のお陰でなんとか熱っぽさを下げることができた。

そしてその時場内アナウンスが流れた。
入賞者の名が順に呼び出される。
これだけ皆私のことを応援してくれたんだ・・
私は自分の名が呼ばれることを祈った。

しかし私の名が呼び出されることなく場内アナウンスは終わった。
全日本と同じだった。

自信の演武だっただけに悔しかったが、仕方ない。
大会向けの演武ではなかったし、元々覚悟していたことだったから。

応援に来てくれた弟子や先生方、そして拳友仲間。
都合により急遽来れなくなった拳友。
それに、地元奈良から応援してくれている私の生徒達。
私の体を心配してくれ、心から応援してくれ、
そして感動で涙してくれたこと

このことを思うと、手ぶらで帰るにはあまりにも申し訳ない・・
次の種目も自分らしい演武をするか、
それとも勝負に出るか、
迷いに迷った。

そして決断した。
形意棍で持てる力を振り絞ろうと。
途中でぶっ倒れようが、
棍がへし折れて粉々になろうとも
とにかく力を出し切ろうと。

次の出番の集合時間まであと20分。
私は腹を決め集合場所に向かった。

続く

2017年7月18日火曜日

苦悩、努力、涙、そして新たな道 1 思わぬ障害

2017年7月16日
私は静かに選手人生にピリオドを打った。

私の形意拳の演武が終わった時、観覧席が湧いた。
この4年間でこれほどの拍手を頂いたのは始めて。
何故私に?


その前日、私は最後の調整のため練習に励んだ。
今までなら前日に練習をすることはなかった。
本番三日ぐらい前になるとかるく体をほぐす程度で、それよりも体を休めることに専念した。

しかし、今回は最後の試合。
全日本では思いっきり自分の演武をしてきたが、評価は過去最低。
私の全日本デビューは8.68から始り去年は8.75
しかし今年はまさかの0.3以上のランクダウン。

無論覚悟はしていた。
上を狙いに行くのではなく、私は東京の舞台で自分の形意拳をやりたかったから。
ただ、私のことを心から応援してくれていた仲間達に申し訳が立たない。

そもそも私が大会に出場しようとした理由は目立ちたかったからではない。
会の代表になった以上、生徒が誇れる先生になりたかったから。
だからこの4年間死に物狂いで頑張ってきた。
その結果が4年で8回受賞。

最後の舞台となる熊取では、悔いが残らないよう点数を取りに行くのではなく
自分らしい演武をするつもりでいた。
だから、二番弟子が見に行きたいと言ってくれたが、断った。
メダルを取りにいくのではなく、嘘偽りなく自分の演武がしたかったからだ。

とは言うものの、その言葉は心に残った。
だから本番直前まで、取りに行く演武をするか、自分らしい演武をするかの葛藤があった。
無論套路を変える時間などなかった。
力いっぱい大きく演武するか、それとも自分らしく静かに演武するかだ。

前日はそんな想いがピークになり、
気がつけば今まで以上に練習している自分がいた。
全く疲れなかった。
多分、気力で練習していたのだろう。

その後に自分の体に異変が起きた。
突然襲われた酷い眩暈。
目の前がぐるぐる回り出し、立つこともままならい状態に。
焦ったが、この時点では放っておけば治るだろうとそれほど心配はしなかった。

しかし時間が経てば経つほど症状が酷くなり、
足がもつれ倒れそうになったり
横になっても天井がぐるぐる回り、軽い吐き気も催し
一向によくなる兆しがない。

その状態を弟子に伝えた。
この日の夜は大阪での教室があったのだ。
彼女は今夜の稽古は私が代理でやるので先生は病院に行ってくださいとのことだった。
救われる思いだった。

弟子は今まで人前に立つのは苦手だから自分には出来ない、
一時は指導員になることを辞めたいとまで言っていたのに、
自信がないながらも、私を気遣うあまり、そのように申出てくれた。
嬉しかった。

その足で救急病院に行き、30分にわたり点滴を打ってもらった。
そしてその後の症状はかなり軽くなり、後は体をゆっくり休めて明日に備えようと思った。













翌朝の状態は悪くはなかった。
午前10時半頃に熊取に到着。
私は弟子に頼んでタイムを計ってもらうことにした。
形意棍でタイムを計ることをずっとしていなかったからだ。

練習用コートに立ち演武を始める。
そこで気付いた。
おかしい・・
いつものような力が出ないし、
少し動いただけなのに、動悸が激しく、手も足も全く力が入らない。
独立歩では全てと言っていいほど、右へ左へとよろめき、棍の定式も定まらない。
体の熱がどんどん上昇し、気がつけば汗びっしょり。
そして天井が回り出した。

この時、私の体はまだ治っていないことを自覚した。

悔しくてならなかった。
この日のために毎朝毎晩練習を積んできたのになんてザマなんだと。
最後に相応しい演武どころか、
二本足で立つことすらままならない状態でなにが出来ようか?

しかし落ち込んでもいられない。

最後の神頼みではないが、本気で神の力をお借りしたいと思った。
私はしばらく体を休めその後、抜筋骨で体を十分ゆるめ、
天と地を十分意識しながら立禅を行った。
やはり立禅の効果は絶大だ。
心がどんどん落ち着いてきた。

そして、いよいよ本番。
コート袖に立ち自分の出番を待っている間のその時、
まだ体の状態が万全でないことに気付く。

上を見るとドームの天井がメリーゴーランドのようにぐるぐる回っている。
相変わらず力が出ず、まるで空気の抜けた風船のようだった。
手は震え、拳をしっかり握ることすら出来なかった。

もはやここまでかと思った。

もう、演武中にぶっ倒れてもいい。
やるだけのことをやろうと。

出番が回ってきた。
名前を呼ばれ、包拳礼をし、
コート上で足がもつれないようまっすぐ歩き、立ち位置まで進んだ。

そして、その後驚くような奇跡が起きた。

続く

2017年7月15日土曜日

なるほど

私が丁寧に指導していると、
会員さんが「あー、なるほど!」と言う。

この「なるほど」という言葉は苦労や努力の上に出る言葉である。

なるほどと言える自分になろう。

*****

先日、入会された会員さんが体験に来られたその日に
周りの初心者の方々に私の許可なく指導を始められた。
私はその場で注意した。

「教えると覚えないから教えないように」と。

あとでわかったのだが、
その方は太極拳歴12年の現役指導員とのこと。

その後、私は厳しいことを言って申し訳なかったとその方に伝えると
その方ははっきりとした口調で「当然のことです!」とおっしゃった。

誰でも最初はわからない。
さっき先生に教わったばかりなのに自分ひとりで動こうとするとどうしても思い出せない。
これが大事。

ずっとつきっきりで教えていたら、学ぶ者は覚える機会を逃すことになる。
思い出そうと努力することこそが、脳を活性化させ、若返りにつながる。

教えることも大事だが、教えないことも大事。

必死に思い出そうとし、もし仮に思い出せなくとも、
次に教えた時に「なるほど!」と思える。

この「なるほど」と思う時が人間最も吸収できる時。

教えないことも指導の一つなのである。

2017年7月14日金曜日

動かない套路

これまで約4年半、270人近く指導してきたが、
套路の順番を覚え、細かな動きを覚え、
ようやくそれらしい動きができるようになったかと思えるレベルに来た時に
どうしてもすぐに直すことのできない壁にぶつかる。

それは姿勢とゆるんで柔らかく動くこと。

套路を始めるとまず大まかな動きと順番を覚えようと思うだろう。
無論それで間違いないし、私もそのように指導している。

そして次に細かな動作を覚える。
その動きが正しく太極八法の動きに沿ったものになっているかどうか。
(太極八法とは太極拳の最も基本となる技のこと)

そして最後に残る課題が先程述べた通り。

正しい動きをしていても、姿勢が間違っていれば太極拳でいういわゆる柔よく剛を制すことにはならない。

また、ゆるんで柔らかく動けなければこれもまた同じ。

どうすれば良いか?

結局基本に戻ることになる。

ある程度太極拳の動きを習得すると出来た気分になる。
これは大間違い。
私は始めて15年になるが、まだ10ある内の3にも達していないと自分で感じている。

どうすれば良いか?

それは站椿功を行うこと。

昨日も幾人かに站椿功をすすめた。
動く套路から動かない套路へ。

正しい姿勢をつくり、そのまま木のように立つ。
気を沈め、極限まで脱力する。

私は太極拳を辞めていく人をみていつも思う。
本当に楽しくなるのはこれからなのに・・と。

映画のクライマックスを観ずに席を立つようなもの。
富士山頂に達する直前で下山するようなもの。

太極拳は套路を覚えただけでは習得したことにはならない。

それで何ができるだろう?
生活に役立つだろうか?
健康管理に役立つだろうか?
美容に役立つだろうか?
護身に役立つだろうか?

太極拳は太極拳でしか得られない膨大な利益が得られるのに、
途中で辞めてしまうのはあまりにももったいない。

太極拳を単に套路を覚える習い事だとは思って欲しくない。

太極拳の始まりは套路を覚えてからなんだ。

2017年7月9日日曜日

最後の東京体育館

先程東京から戻った。

全日本引退試合、過去最高の演武が出来た。
とてもリラックスして挑めたし、
最後の最後まで気持ち良く演武できた。

途中で息が切れることもなく、
スタミナが切れることもなく、
大舞台である東京で、
私が学んできた伝統形意拳を思う存分やれたし
最後に相応しい演武が出来た。

そして、とても爽快な気分で東京体育館を後にすることができた。

5年間どうもありがとう。

2017年7月7日金曜日

心を開くこと

これから東京へ向かい、最後の試合に挑もうとしているのに
ずっとやるせない気持ちが続いている。

私は常に皆のことを理解しようと努力しているのだが・・

理解を求めているのではない。
しかし出来れば理解し合いたいとは思っている。

私が今していることは師から受け継がれたこと。
師を尊び、師から受け継いだことを伝えることが私の使命だと思っている。

私のことを否定することは私の師を否定するも同じ。
私に自分の考えを押し付けようとするのもまた私の師を侮辱するも同じ。

私の師もまた師を尊び、毎日修行に励んでおられる。

誰もが思うことだろう。
自分のことは何を言われても構わないが、
自分が愛する人のことや自分の家族、
また自分が尊敬する師をのことを否定されたら強い悲しみと憤りを感じるだろう。

私が今やるせない気持ちになっているのは、
心を開いてくれないこと。

心を閉ざしてしまったら、
すべてのことが良くないことへと向かってしまうことは誰もが経験していることだと思う。
それに気づいて欲しい。

辛い思いをするのは自分自身。
そして、私はその辛い思いをしている人と向き合わなければならない。
これもまた辛い。

打開策はただひとつ。
心を開くこと。

2017年7月6日木曜日

引退

何度も考えた末、
今年で大会を引退することにした。

ということで今年が最初で最後の拳術での引退試合。

私がこれまで師から学んできたこと、
そして自分が今まで積み上げてきたこと、
それを出し切りたい思う。

最後の東京体育館が自分の中で最高だったと言えるよう。

張り合うべからず

太極拳は人と張り合うための武術ではない。

自分の修行。

自分の可能性をどこまで引き出せるか?
それが太極拳に求められる修行の意味だと思う。

仲間同士と太極拳を行っていると、力の差を感じることもあるだろう。
私としてはありのままにそれを受け入れて欲しいと思う。

遅れをとってしまったからとか、
どうしてもあの人に敵わないとか、
誰それには負けたくないとか、
劣等感を感じてしまっているとか、

そのようなつまらぬプライドや煩悩は捨て去ろう。
そのこと自体が禅の道から外れるものであり、
いわば太極拳の修行から外れることになる。

自分がなんのために太極拳を始めたのかもう一度よく思い起こして欲しい。

人と張り合うため?
そうではないはず。

私は誰とも競わないし争いもしない。
だから優越感も劣等感もない。
ペースが乱れることもない。

ただ、自分の可能性を知るためにすべきことを全うするのみ。

2017年7月5日水曜日

大自然を目の前に

都会生まれの都会育ち。
その都会暮らしににも疲れを感じるようになり自然を求めこの地に。

当時は近代的なものを追い求め
そして人にもまれることが好きだった。
しかし今は自然の中で静かに生きて行きたいと思うように。

先日、キトラ古墳で青空太極拳を開催したが、
その美しい光景を目にした時、ここで太極拳を行いたいと思った。

自然の美しさを目にしたとき、
ただその空間にいるだけでもなんとも言えない幸福感を感じる。

その美しい大地に立てていることに喜びを感じ、
天に向け手を広げたくなる。

そのゆったりとした時間の流れに、ゆっくりと体を動かしたくなる。
すべては感じるがままに。

当会では年に何度か青空の下で気功と太極拳を行うが、
元々これを始めたのも心が求めるがままに。

美しい景色を見るとそれカメラに収めたくなるように
大地を踏みしめ手を広げたくなる。

今回の青空太極拳もそんな風に心が思うがままに企画した。

皆と円になって歩きたい。
自然に合う美しい音と音楽が欲しい。
大地と風と光を感じながら思考スイッチを完全にオフにし「無」になりたい。
ゆったりとしたそよ風のような楊式太極拳を皆で行いたい。

いつも思う。
楊式太極拳は本当に自然に調和すると。


大自然を目の前に思うこと。
その中にいるだけでも心地いいが、もっともっと自然を感じたい。
自然と一体化したい。

それが当会が目指す禅であり太極拳である。

2017年6月30日金曜日

推手大会を行うにあたって


当会では今年8月に始めての推手大会を予定している。

といいつつ、どのような形で行うか今も尚、思案中なのだが。

まずは個人戦は男女混合で
単推手、双推手、四正推手の3種目

男女を分けることも考えたが、
太極拳が体格や力の差で戦う武術ではないことを考えると男女混合が自然だと。

種目として自由推手を取り入れるかどうかも悩んだか今回は見送ることにした。
いずれは自由推手も取り入れて行きたいと考えている。

他には紅白対抗試合や団体戦なども検討中。

いずれも今年は会内だけで行うため参加者数も少人数であることを考えると、
いわゆる散打試合のような緊迫した感じではなく、
推手練習会の延長のようなアットホームな雰囲気で行おうと思っている。

さて、ここでだが、
当会で行う試合を推手という形で行おうとするのには理由がある。

まずは演武を競う大会。

正直これは判定基準が難しい。
審査する側の好みもあるだろうし、何を審査基準とすべきかも難しい。
もしこの演武大会が美しさを競う大会であるならば、
当会が目指す勁力を身につける道から外れてしまう。
演じようとすること自体勁力を落としてしまうからだ。
それに美しく演じたからといって武術的な功夫が向上したことにはならない。

次に散打試合。
いわゆる自由組手。

太極拳を実戦として使えるかどうかを試すのには良いのだが、組手には怪我がつきもの。
女性が大半の当会としては怪我人を出すわけにはいかない。
そもそも当会は格闘を目的とした教室ではない。
気功と太極拳によって身につけた、ゆるみと軸感覚と勁力開発によって、
それを健康や生活向上、護身に役立てて頂きたいというもの。

結局、推手が最も適しているということになる。

推手は、いかに気功に時間をかけているか?
いかに力みのない正しい套路練習を行えているか?
推手で言う、聴勁、走勁、化勁、発勁を正しく理解できているか?
散手によって太極拳技法が正しく身についているか?
これらすべてを明確に判断することができる。

それに勝敗がはっきりしているから、判定もしやすく、本人も納得がいく。
勝てば自信につながるし、負ければいっそう努力するきっかけになる。
推手試合なら演武大会でつきものの採点への不満もない。
それに防具も必要なければ、怪我をすることもない。

安全かつ、太極拳の本当の実力を知る機会になるし、
推手を行うことによって伝統の太極拳の練習方法を深く理解するきっかけにもなる。

いずれはこの推手大会を徐々に拡大させていきたいと考えている。

それは太極拳を正しく理解することになるし、正しい練習を行うきっかけにもなる。
そのことにより病気しない丈夫な体をつくり、体丸ごと若返らせることにつながり、しかも護身術も備わる。

推手大会を行う意味は非常に深い。


ところで先程、
聴勁、走勁、化勁、発勁 という専門用語を出したが、
これを言い換えると、
聞く、許す、導く、与える となる。

聞くは相手を知ること。
許すは相手を受け入れること。
導くは相手を思いやること。
与えるは相手に知ってもらうこと。

これは真の人間関係を築くことと同じ。

自分のことばかり理解してもらおうとするのではなく
まず相手を理解しようとすること。
その機会として、許し、導き、与えるということになる。