2017年8月15日火曜日

放鬆の意味を考える

放鬆(ほうしょう)とはなんだろう?

私はこれまで体を極限までゆるめ気を沈めることだと思っていた。
無論間違いではない。

いずれも、単に脱力だけを示すことでないことは確か。

ひとつひとつの漢字を調べてみると・・

「放」は「はなつ」という意味で
「鬆」は「隙間や空洞」を意味する。

つまり
体をゆるめることで気の通り道を開き、
そこへ気を流し気を放つことができる状態なるというのが私の解釈。

放鬆の状態からは大きな出すことができるし、
なにより、この状態であればどれだけ動いても全く疲れない。
心拍数が上がったり、息切れを起こすこともない。

それに、気血の巡りが良くなるので、体温が上がる。
つまり外部からではなく自ら体を温めることが出来、
これにより免疫細胞を活性化させることが出来るので病気しない元気な体をつくっていくことができる。

こう考えると放鬆は力を抜くことだけが目的ではないことがわかる。

力を抜くのは気の通り道を開くためであり、あくまでもプロセス。

あとは意によって気をコントロールする。

それは、
綿のように柔らかくなることも
鉄のように硬くすることも
羽のように軽くすることも
石のように重くすることも
あるいは電気や光のように発射することも出来るようになる。

特に最後の「発射すること」に関しては信じられない人も多いだろうが
私は何度もそれを受けその威力を実感している。

放鬆は単に力を抜くことだけでもなければ
気を沈めるだけのものでもない。

この目的は気の通りを良くするためであるということ。

機会あれば、この気をどこにアクセスさせ、どのように流していくか
私の経験を元にお話したいと思う。

まずは開くために体を十分ゆるめることから始めよう。

2017年8月12日土曜日

気を奪うということ

自分はどうしたいか?と考えるようにしましょう。
逆に他人にどうすべきかということは言うべきではありません。

前者は夢、願望であり、
後者は単なるお節介です。
人を尊重し、いつまでも夢や願望、希望を追いかける自分であって欲しいと思います。

他人のことを話す時、あなたは相手を尊重する気持ちがありますか?
もしかしたら自分の存在を認めさせるため自分の考えを相手に押し付けようとしていませんか?
又は人の一面だけを見て相手を判断していませんか?

それは大きな間違いです。
人間はそんなに単純な生き物ではありません。

私は幼い頃から体力がなく、今では目も耳も感覚が鈍く不自由を感じることも多いですが、
その分相手の気を感じる力が少し長けているように感じています。
気は目に見えるものではなく体(上丹田、中丹田、下丹田)で感じるものです。

人と人とは常に気の交流を行っています。
人から気を奪おうとしないよう。

先程も言ったように、自分の存在を認めさせようとする行いは相手から気を奪おうとすることになります。
その証拠にそれが成功すると気を奪った方は力を得たように感じ、
逆に相手は力を失ったように感じます。

私たちが何故気功を行い太極拳を行うのか?
それは他人から気を奪うためではありません。

無限のエネルギーである自然、宇宙から気を取り込み、そしてそれを与える側にならなければなりません。
与えるというのは人に干渉することではありません。
相手を思いやる気持ちこそが与えるの意味です。

自分の行いをその都度振り返ってみましょう。
その行いには愛がありますか?
もしかして自分のためではありませんか?

気功と太極拳によってまず自分自身が強くなりましょう。
そしてそれを与えられる人になって欲しいと思います。

2017年8月8日火曜日

煩悩

気功と太極拳を通じ
煩悩に支配されている自分に気付いて欲しいと思う。

煩悩に囚われていると心が濁り、
血が汚れ、
体に毒が溜まりやすくなり、
病気しやすくなる。

欲望に勝てないから
煙草も酒も辞められない。

肌は荒れ、
ハリを失い、
透明感が失われ黒ずんでくる。

体内のフリーラジカルが増え、
ホモシステインが増え、
DNAが破壊され、
老化、癌化を促進させる。

今はもう、人間の老化メカニズムが解明されているわけで、
これからは老化を遅らせ
人生をもっと楽しむ時代に入っている。

今では信じられないことだが、
体を粗末にしたり、
命を粗末にしたりすることが流行った時代があった。
薬物乱用や自殺ブームだ。

公害によって水と空気が汚染され、
その環境に慣れてくると
人間はいつしか毒を欲するようになる。
毒はまた毒を求め次第にそのスパイラルに嵌って行く。


今一度思い起こしてみて欲しい。
なぜ太極拳を始めたのか?

太極拳はもちろん
特に気功には浄化作用がある。
濁った心が透明になって行き、
そのことで血もきれいになり、
体もきれいになっていく。

きれいになるということは健康になるということ。
美は健康の上に成り立つものだから。


私としては太極拳を始めたのであれば、
透き通るような心と身体を求めようとして欲しいと思う。

少なくとも私はそれを目指している。

2017年8月5日土曜日

空気に溶け込む太極拳

大会を引退してから2週間とちょっと。
徐々に自分の中に変化が起きてきている。

特に今夜の楊式太極拳クラスでの全套路は最高に気持ち良かった。

「見せる」という意識から解放されると
太極拳はこれほどにも変わるものか?

動けば動くほど肩が軽くなり、
腕が軽くなり、
体が軽くなり、
そして自分の体が空気の中に溶け込んで行く。

まるで気の中をゆったりと泳ぐマンタのように。

昨日、数年間表演武術を習っていたある会員さんが、
套路の中で変わった動きをするから
それはなにかと尋ねたところ、
前の先生にこうするときれいに見えると習ったという。

その動きは武術的な意味を持たず、
勁力を下げ、
技としても使えない動きだった。
私はすぐに直すよう指導した。

美しくみせようとする心に放鬆はない。
持論だが、少なくとも私はそう。

太極拳の楽しみ方は人の分だけあっても良いと思う。
他人のことをとやかく言うつもりは全くない。

しかし、一度でもいいから放鬆の世界を味わって欲しいと思う。
もしその体験ができれば、
今まで広いと思っていた世界が途端に狭く感じ、そのことにショックを受けるだろう。
伝統太極拳の世界は宇宙のように広い。

その宇宙を意のまま自由に泳ぐことが出来るのが伝統楊式太極拳。

もし太極拳の流派に迷ったら、
一番に伝統楊式太極拳を選ぶことを強くすすめる。
規定套路の楊式太極拳ではなく伝統楊式太極拳。
同じ楊式太極拳でも全く違う。

美しく演じようという気持ちを捨てよう。
そうではなく、中から動くことが出来たら、
それがすでに美しいのだ。

楊式太極拳の創始者は無敵だったことから楊無敵と呼ばれていたという。
そして今、伝統楊式太極拳の医学的研究が急速に進んでおり、様々な難病を克服するという研究データが増えつつある。

絶対やって損はなし。
いつでも当会を訪れてみて欲しい。

2017年8月4日金曜日

封印

先日のカルチャーで、参加された方に尋ねられた。

「本当に氣で人を飛ばすことができるんですか?」と。

私は即座に「出来ます」と答えた。

実際は氣で飛ばすというより
気の流れを意識し脱力した状態で打つという感じだろうか。

逆を言えば
脱力することにより氣が流れやすい状態をつくり、
そこにターゲットである部分に意識を送る。
するとそこに氣が流れる。
あとは、それに従うという感じになる。

話の流れからしてそれをやって欲しいという空気になったが
それは避けたかったので今は封印していると伝えた。

体験に来られた方をいきなり吹っ飛ばすことなどできるはずがないし、
武術や武道の心得のない方を飛ばしたりして怪我でもされたら大変。

ある時から自分の勁力が急激に上がったことを自覚した時があり、
その日から散手もミット打ちも自制するようになった。

氣の力は自分の想像の外にあるので、
無意識に相手に大きな衝撃を与えてしまう。

氣の力が大きいことも怖いのだが、
それが無意識の状態で起きるということが怖いのだ。

勁力を増大させるには、力みを抜き脱力することが大切と教えている。
それに「打とうとしないこと」とも教えている。

打とうとすること自体今までの習慣で打ってしまうからだ。
今までの習慣=筋力
ということになる。

逆に大きくなった気の力を抑えるには、無ではなく意識しなくてはならず
又、力を弱めるために筋力を使ってブレーキをかけなければならない。

全くもって逆なのである。

いずれも今は封印している。
皆の健康を願って始めた気功と太極拳。
決して怪我人だけは出したくない。

氣の世界に興味を持ってもらうには、
デモンストレーションとしてその力を見せることも必要だとはわかっているのだが、
今はとにかく封印。

やって欲しいと言われても今はやらないと決めている。

2017年7月29日土曜日

見せない芸術

今、丁度楊式気功をやり終えた。

体がすぅーっと軽くなり、気分もスッキリ。
体にたまっていた毒のようなものが煙のように消えていってしまったような感覚。

楊式太極拳に魅せられ15年
この太極拳に出会えてよかったと思える瞬間。

楊式を何かに例えるなら「風」が一番しっくりくる。

これまで演武力を高めるため表演にも力を入れてきたが
今はその表演意識を壊そうとしている。

もう誰にも見せなくても良いのに
まだまだ見た目を意識している自分がいることに気付く。

この表演意識が完全にゼロになった時、
今まで見たこともない素晴らしい世界に行けるような気がしてならない。

見た目を意識すると必ず力が入る。
スーツを着ている時と素っ裸で風呂に入っている時との違いのようなものだろうか。

表演服を着ていると見た目柔らかく見えるが、
表演しようとしていること自体力が入っていることに気付く。
だから表演で放鬆に至ることはないと思う。(あくまでも私は)

力を抜くとなにが良いか?

気の通り道である経絡が開き気血のめぐりが良くなる。
芯から体が温かくなり免疫力を上げる。
温泉に浸かっている時のような気分を味わえる。
肌のハリ艶が断然良くなる。
力に頼ろうとしない分体に隙間が生まれそこに筋力ではない力が入ってくる。

因みに放鬆とは頭の中も空にしなければそれに至ることはない。
頭の中を空にすると〝つながる”感覚を味わえ、
そして、多くの〝気づき”が得られる。

水の入ったコップに水を入れることが出来ないように、
一度コップの中の水を捨てなくては新しい新鮮な水をいれることは出来ない。

これまで私は芸術性も重視してきた。
理由はこれまで何度も書いてきたが、すべて自分に必要なこととしてやってきた。

その私が今、芸術性を捨てようとしている。
いや、正確に言えば見せる芸術を捨てようとしている。

これからは見せない芸術を求めて行きたいと思っている。

新しい自分に出会うために。

2017年7月25日火曜日

苦悩、努力、涙、そして新たな道 4 ありがとう

体育館入口付近の廊下で去年拳術チャンピオンOさんとばったり会う。
そして、Oさんは笑顔で手を差し出し「おめでとうございます」と。

私は自体が把握できず
「え?なにがですか?」と聞き返した。

するとOさんは「入賞されてますよ」と。

私は信じられなかったので「え?噓でしょ?」と聞き返した。
確かに場内アナウンスで私の名は呼ばれなかったように思えた。

この時、横にいた弟子は、飛び跳ねて喜んだ。
「えっ?!やったぁ!やったぁ!すごい!」
まるで自分ごとにように喜んでくれた。

私はそれでも信じられなく、順位表を見るために走ろうとしたその時
場内アナウンスが流れた。

「入賞された〇〇選手、表彰式を行いますので表彰台までお越しください」と。
私の名が呼ばれた。

ようやく私は自分が本当に入賞したと知った。
呆気にとられている私の横で弟子が私の分まで喜んでくれた。
そして表彰台に走った。

私は3位、銅メダル。
表彰台で賞状を受け取る時
何故か涙がこみ上げてきそうになったのを必死に堪えた。

おそらくこの5年間、自分と葛藤しながらも
死に物狂いで頑張ってきたことを思い出していたのだと思う。

暑い日は汗だくで、
寒い日は凍り付きそうな程の冷たい風に打たれながらも、
朝も昼も夜も夜中も頑張ってきた。

そんな私の姿を見て、そこに居合わせた人や通りすがりの方から励ましの言葉やエールを頂いたり、顔見知りの方もいつも応援してくださった。
人の温かみを感じる瞬間であり、そして多くの方々から力を頂いた。
本当に有難いことだった。

私が5年前始めて大会に出た時、すでに決めていた。
4年で勝負を決めると。
そして引退しその後は思いっきり伝統の修行をしようと。

最後の最後に私は嘘ではない自分の演武をし、そしてメダルもとることができた。
これ以上最後に相応しい結果があるだろうか。

今まで頑張ってきて本当に良かった。
最後まで諦めないで本当に良かった。

自分の演武をし、
そして皆の期待に応えることが出来た。

どちらかを選択しなければならなかったはずなのに、
どちらも達成できた。

そしてこれからは自分を偽ることなく、本当にやりたかった修行に専念できる。
今まで味わったことのない達成感と共に開放感が得られた。

*****

今まで私のことを応援してくださった方々に心から「ありがとう」と言いたいです。
絶不調の中、最後の舞台で奇跡が起きたのは、間違いなく皆さんのお陰です。

私のことを心から心配してくれ、励ましてくれ、優しい声をかけてくれ、笑顔で手を振ってくれ、涙を流してくれ、エールを送ってくれ、盛大な拍手をして頂いたこと、本当に嬉しく励みになりました。
私が悔いなく選手人生を終えられたのは本当に皆さんのお力によるものです。

そして、私にこのような素晴らしい機会を与えてくださった府連盟の方々に心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。




<過去5年間の大会全実績>

2013年
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 3位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 18位

2014年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
奈良県武術太極拳競技会 楊式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 呉式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 2位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 14位
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 銅賞
伝統武術観摩交流大会W1-GP 形意拳 銅賞

2015年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
奈良県武術太極拳競技会 楊式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 2位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 10位
中国伝統武術近畿交流大会 器械種目 銀賞
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 6位

2016年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
奈良県武術太極拳競技会 楊式太極拳 2位
奈良県武術太極拳競技会 剣刀種目 2位
全日本武術太極拳選手権大会 剣刀種目 10位
中国伝統武術近畿交流大会 器械種目 4位
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 8位

2017年
奈良県武術太極拳競技会 拳術種目 優秀賞
全日本武術太極拳選手権大会 拳術種目 23位
中国伝統武術近畿交流大会 器械種目 銅賞
中国伝統武術近畿交流大会 拳術種目 5位

2017年7月23日日曜日

苦悩、努力、涙、そして新たな道 3 執念の形意棍

遂に選手人生最後の演武の時間がやってきた。

それまで絶不調ながらもそれなりにリラックスしていた自分とは異なり
今度は闘志を燃やす自分がいた。

舞台裏集合場所で入場のため一列に並ぶ。
いつもの自分なら気持ちを緩めるためにも周りの選手と会話を楽しむのだが、
今回は誰とも一言も口を利かなかった。

気が散ることを避けたかったからだ。

そして選手入場と共に会場に入る。
この時の気分は先程と同じよう勝負に出ようと腹は決まっていたが、
あとは自分を信じるしかないと思っていた。

初出場から2年連続入賞した近畿大会だったが
3度目である去年の形意拳は自選種目だけに出場選手の身体レベルが非常に高かったことと
もう一種目は棍から手を何度か滑らせてしまい、惜しくも敗退。
48歳から始めた形意拳、50を超えた今、とても若い人に敵わない。

いずれも去年の悔しさもあったので
そのリベンジを果たしたかった。

コート袖で、何度か軽く棍を振ってみる。
やはり調子が出ない。
相変わらずドームの天井はゆっくりと回っており、
棍を握る手も力が入らず、いつでもすり抜けそうな感じだった。

そして自分の番が回ってきた。
コート袖に立ち棍を持って包拳。
立ち位置までゆっくり歩き進んだ。

立ち位置についた時、こう思った。
一発目の劈棍が勝負だと。
ここでいつもの力が出せればあとはなんとかなるだろうと。

ゆっくり息を吸い、棍梢(棍の先)で天を突く。
この時棍に命が宿った気がした。
そして、半歩踏み出し、私は大きく棍を振り下ろし最初の劈棍を決めた。
棍梢がブルンと震える。

先程同様、眩暈も動機も脱力感も消えていた。

絶好調ではないが、
なんとかなる・・
そう思った。

もうあとは流れに任せた。
私の好きな横棍、そしてそれに続く鑚棍
伸び伸びとした動きができた。

ぶっ倒れてもいいと思っていたが、実際に倒れてしまうと大量減点。
倒れるわけにはいかない。
スタミナを保ちながらも、一発一発力一杯棍を振った。



演武の後半に差し掛かった頃から、残っているスタミナを使い切ろうと思った。
そこからは持てる力を振り絞り、棍をぶんぶん振り回す。

恐らくこの時の私は殺気だった状態だったと思う。
仲間からの声援や涙を無駄にしたくない!

そして私の演武はいつになく荒々しく激しくなっていった。
周りの選手が私を避けるのがわかった。

そして最後の見せ場である連環斜劈棍では、
最後の力を振り絞り力いっぱい棍を振り下ろす。

ここでは低い位置まで棍を振り下ろすのだが床は叩かない。
しかしあまりの勢いに棍が加速してしまい床を思いっきり叩いてしまった。
この時に審判席の空気が変わったことを感じた。

最後は舞花転身跳棍。
棍を回し跳びながら転身し、収式に入る。
最後は棍把を床に打ち込み気を沈める。
ドーンという音がドームに鳴り響いた。

終わった。
全てが終わった。

思いっきりだっただけに荒々しい演武になってしまったと思うが、
こちらも悔いはなかった。
というより、不調を言い訳にしたくなかったのだ。
不調だからと審判はそれを配慮してくれるわけではない。

不調もまた実力。
やる時はやる。
それが私が53年間貫いてきた精神。

確かに上を狙いには行ったが、
終わった時点でそのことはもうどうでも良くなっていた。
とにかく自分は絶不調の中、ノーミスでやりきった。
それだけでも十分だった。

その足で観覧席に戻ろうとしたら、
観覧席の廊下で目を赤くし涙ぐんでる弟子が私の帰りを待っていてくれた。
悔しいことがあっても決して泣かない弟子が、泣いている。
もう言葉は何もいらなかった。

本気で私を心配し、
本気で応援してくれてたんだと思った。
その場でずっと泣かれてしまったので取り乱しそうな自分を抑えるのに必死だった。

ありがとう。
本当にありがとう。

しかし自分の演武は決して美しい演武というものではなく
恐らく魂の叫びに近かったように思う。
荒々しく殺気立った演武。
他の選手は皆大変素晴らしかっただけに入賞はないだろうと思っていた。
それでも私はもう十分だった。

皆から頂いた拍手や声援、
仲間からの励ましの言葉や賞賛、
両手で思いっきり手を振ってくれたO先生、
私の体を最後まで気遣ってくれたHさん、
私のために泣いてくれた弟子。

すでに金メダルを遥かに超えるものを皆からもらっていた。

その時場内アナウンスが聞こえた気がした。
一人一人名前が呼ばれる。
場内が煩かったのでアナウンスがよく聞こえなかったのだが、
私の名は呼ばれなかったように思えた。
やはり届かなかったか・・と。

やむを得ない。
自分はやりきったんだと。

いずれも一応順位を確かめるために貼り出された順位表を弟子と観に行こうとした。
が、その時・・

続く

苦悩、努力、涙、そして新たな道 2 奇跡の形意拳

自分の立ち位置まで進む時、なぜか気持ちは落ち着いていた。

恐らく、上を狙う演武をしようとするのではなく、
いつも通り自分の演武をしようとしていたからだろう。

立ち位置に付き、無極式から太極式に入った時である。
大きく息を吸いながら両手を上に広げたその時、
なんとも言えない柔らかい光に包み込まれたような気分に・・
そして何かが自分の中に舞い降りてきた。

この一瞬で先ほどまで起きていた眩暈、動悸、発熱、手の震え、脱力感すべてが消え去り
ふわぁーっと中から力が湧いてきた。
息をゆっくり吐きながら三体式(形意拳の基本の構え)に入る。

最初は鷂形から始まる。
いつも私はここで十分気を溜めてから一気に打ち込む。
その時、独立歩になる時間が長くなるが、揺れることなく安定していた。













この時自分は本来の力が蘇っていることを自覚した。
あとは、意識よりも先に体が動き、気がつけば
河北派の打たない踏み込まないいつもの自分の形意拳を行っている自分がいた。

自分の演武をしている!
そう思った。




収式に入る前、崩拳を一発入れ、最後は横拳で終わるが、
その崩拳では体全身から全エネルギーを炸裂させた。
仲間が私の崩拳には殺人的パワーがあると言ってくれたが、それを最後に打ち込んだ。

選手人生最後の形意拳。
奇跡が起きたことによって、全く悔いのない自分らしい演武ができた。
最高の気分だった。

そして包拳をしてコートを立とうとした時、
コート袖や観覧先から「好!」という歓声と共に大拍手が起きた。
知るはずがないのに、まるで私が極限状態であったことを知っていたかのように。
拍手が全くない選手もおられるのに何故私にこれだけの拍手が?
私は嬉しさのあまり涙が出そうになった。

そして選手控え位置に戻った時、
体調がまたおかしくなった。
体がとめどなく熱くなり頭も熱っぽく。
その時、既に出番を終えていた八極拳の拳友がそんな私の状態を見て
心から心配してくれ扇子で一生懸命私に風を送ってくれた。
なんと有難いことか。。
しかもこの拳友は金メダリストのチャンピオン。

その拳友に「この扇子をしばらく貸してもらえないか」と伝えたら快く貸してくれ
それを持って観覧席に戻った。
そして席には、サポートを頼んでいた弟子が私の帰りを待っていてくれた。

私の体調を知っていただけに心配もあったのだろうが、
演武がとにかく凄かったと言ってくれ、
仲間と一緒に感動して泣いていたという。
その仲間は去年の金メダリストチャンピオン。
その想いが伝わりまた私もまた目頭が熱くなってしまった。
本当に嬉しかった。

私はすぐに次の種目の出番があったので、
再度コンディションを整えねばならなかった。
弟子が扇子で手がつりそうなほど一生懸命扇いで風を送ってくれた。
水分補給をし、栄養補給をし、汗を拭い、
そして休まず風を送ってくれた弟子のお陰でなんとか熱っぽさを下げることができた。

そしてその時場内アナウンスが流れた。
入賞者の名が順に呼び出される。
これだけ皆私のことを応援してくれたんだ・・
私は自分の名が呼ばれることを祈った。

しかし私の名が呼び出されることなく場内アナウンスは終わった。
全日本と同じだった。

自信の演武だっただけに悔しかったが、仕方ない。
大会向けの演武ではなかったし、元々覚悟していたことだったから。

応援に来てくれた弟子や先生方、そして拳友仲間。
都合により急遽来れなくなった拳友。
それに、地元奈良から応援してくれている私の生徒達。
私の体を心配してくれ、心から応援してくれ、
そして感動で涙してくれたこと

このことを思うと、手ぶらで帰るにはあまりにも申し訳ない・・
次の種目も自分らしい演武をするか、
それとも勝負に出るか、
迷いに迷った。

そして決断した。
形意棍で持てる力を振り絞ろうと。
途中でぶっ倒れようが、
棍がへし折れて粉々になろうとも
とにかく力を出し切ろうと。

次の出番の集合時間まであと20分。
私は腹を決め集合場所に向かった。

続く

2017年7月18日火曜日

苦悩、努力、涙、そして新たな道 1 思わぬ障害

2017年7月16日
私は静かに選手人生にピリオドを打った。

私の形意拳の演武が終わった時、観覧席が湧いた。
この4年間でこれほどの拍手を頂いたのは始めて。
何故私に?


その前日、私は最後の調整のため練習に励んだ。
今までなら前日に練習をすることはなかった。
本番三日ぐらい前になるとかるく体をほぐす程度で、それよりも体を休めることに専念した。

しかし、今回は最後の試合。
全日本では思いっきり自分の演武をしてきたが、評価は過去最低。
私の全日本デビューは8.68から始り去年は8.75
しかし今年はまさかの0.3以上のランクダウン。

無論覚悟はしていた。
上を狙いに行くのではなく、私は東京の舞台で自分の形意拳をやりたかったから。
ただ、私のことを心から応援してくれていた仲間達に申し訳が立たない。

そもそも私が大会に出場しようとした理由は目立ちたかったからではない。
会の代表になった以上、生徒が誇れる先生になりたかったから。
だからこの4年間死に物狂いで頑張ってきた。
その結果が4年で8回受賞。

最後の舞台となる熊取では、悔いが残らないよう点数を取りに行くのではなく
自分らしい演武をするつもりでいた。
だから、二番弟子が見に行きたいと言ってくれたが、断った。
メダルを取りにいくのではなく、嘘偽りなく自分の演武がしたかったからだ。

とは言うものの、その言葉は心に残った。
だから本番直前まで、取りに行く演武をするか、自分らしい演武をするかの葛藤があった。
無論套路を変える時間などなかった。
力いっぱい大きく演武するか、それとも自分らしく静かに演武するかだ。

前日はそんな想いがピークになり、
気がつけば今まで以上に練習している自分がいた。
全く疲れなかった。
多分、気力で練習していたのだろう。

その後に自分の体に異変が起きた。
突然襲われた酷い眩暈。
目の前がぐるぐる回り出し、立つこともままならい状態に。
焦ったが、この時点では放っておけば治るだろうとそれほど心配はしなかった。

しかし時間が経てば経つほど症状が酷くなり、
足がもつれ倒れそうになったり
横になっても天井がぐるぐる回り、軽い吐き気も催し
一向によくなる兆しがない。

その状態を弟子に伝えた。
この日の夜は大阪での教室があったのだ。
彼女は今夜の稽古は私が代理でやるので先生は病院に行ってくださいとのことだった。
救われる思いだった。

弟子は今まで人前に立つのは苦手だから自分には出来ない、
一時は指導員になることを辞めたいとまで言っていたのに、
自信がないながらも、私を気遣うあまり、そのように申出てくれた。
嬉しかった。

その足で救急病院に行き、30分にわたり点滴を打ってもらった。
そしてその後の症状はかなり軽くなり、後は体をゆっくり休めて明日に備えようと思った。













翌朝の状態は悪くはなかった。
午前10時半頃に熊取に到着。
私は弟子に頼んでタイムを計ってもらうことにした。
形意棍でタイムを計ることをずっとしていなかったからだ。

練習用コートに立ち演武を始める。
そこで気付いた。
おかしい・・
いつものような力が出ないし、
少し動いただけなのに、動悸が激しく、手も足も全く力が入らない。
独立歩では全てと言っていいほど、右へ左へとよろめき、棍の定式も定まらない。
体の熱がどんどん上昇し、気がつけば汗びっしょり。
そして天井が回り出した。

この時、私の体はまだ治っていないことを自覚した。

悔しくてならなかった。
この日のために毎朝毎晩練習を積んできたのになんてザマなんだと。
最後に相応しい演武どころか、
二本足で立つことすらままならない状態でなにが出来ようか?

しかし落ち込んでもいられない。

最後の神頼みではないが、本気で神の力をお借りしたいと思った。
私はしばらく体を休めその後、抜筋骨で体を十分ゆるめ、
天と地を十分意識しながら立禅を行った。
やはり立禅の効果は絶大だ。
心がどんどん落ち着いてきた。

そして、いよいよ本番。
コート袖に立ち自分の出番を待っている間のその時、
まだ体の状態が万全でないことに気付く。

上を見るとドームの天井がメリーゴーランドのようにぐるぐる回っている。
相変わらず力が出ず、まるで空気の抜けた風船のようだった。
手は震え、拳をしっかり握ることすら出来なかった。

もはやここまでかと思った。

もう、演武中にぶっ倒れてもいい。
やるだけのことをやろうと。

出番が回ってきた。
名前を呼ばれ、包拳礼をし、
コート上で足がもつれないようまっすぐ歩き、立ち位置まで進んだ。

そして、その後驚くような奇跡が起きた。

続く

2017年7月15日土曜日

なるほど

私が丁寧に指導していると、
会員さんが「あー、なるほど!」と言う。

この「なるほど」という言葉は苦労や努力の上に出る言葉である。

なるほどと言える自分になろう。

*****

先日、入会された会員さんが体験に来られたその日に
周りの初心者の方々に私の許可なく指導を始められた。
私はその場で注意した。

「教えると覚えないから教えないように」と。

あとでわかったのだが、
その方は太極拳歴12年の現役指導員とのこと。

その後、私は厳しいことを言って申し訳なかったとその方に伝えると
その方ははっきりとした口調で「当然のことです!」とおっしゃった。

誰でも最初はわからない。
さっき先生に教わったばかりなのに自分ひとりで動こうとするとどうしても思い出せない。
これが大事。

ずっとつきっきりで教えていたら、学ぶ者は覚える機会を逃すことになる。
思い出そうと努力することこそが、脳を活性化させ、若返りにつながる。

教えることも大事だが、教えないことも大事。

必死に思い出そうとし、もし仮に思い出せなくとも、
次に教えた時に「なるほど!」と思える。

この「なるほど」と思う時が人間最も吸収できる時。

教えないことも指導の一つなのである。

2017年7月14日金曜日

動かない套路

これまで約4年半、270人近く指導してきたが、
套路の順番を覚え、細かな動きを覚え、
ようやくそれらしい動きができるようになったかと思えるレベルに来た時に
どうしてもすぐに直すことのできない壁にぶつかる。

それは姿勢とゆるんで柔らかく動くこと。

套路を始めるとまず大まかな動きと順番を覚えようと思うだろう。
無論それで間違いないし、私もそのように指導している。

そして次に細かな動作を覚える。
その動きが正しく太極八法の動きに沿ったものになっているかどうか。
(太極八法とは太極拳の最も基本となる技のこと)

そして最後に残る課題が先程述べた通り。

正しい動きをしていても、姿勢が間違っていれば太極拳でいういわゆる柔よく剛を制すことにはならない。

また、ゆるんで柔らかく動けなければこれもまた同じ。

どうすれば良いか?

結局基本に戻ることになる。

ある程度太極拳の動きを習得すると出来た気分になる。
これは大間違い。
私は始めて15年になるが、まだ10ある内の3にも達していないと自分で感じている。

どうすれば良いか?

それは站椿功を行うこと。

昨日も幾人かに站椿功をすすめた。
動く套路から動かない套路へ。

正しい姿勢をつくり、そのまま木のように立つ。
気を沈め、極限まで脱力する。

私は太極拳を辞めていく人をみていつも思う。
本当に楽しくなるのはこれからなのに・・と。

映画のクライマックスを観ずに席を立つようなもの。
富士山頂に達する直前で下山するようなもの。

太極拳は套路を覚えただけでは習得したことにはならない。

それで何ができるだろう?
生活に役立つだろうか?
健康管理に役立つだろうか?
美容に役立つだろうか?
護身に役立つだろうか?

太極拳は太極拳でしか得られない膨大な利益が得られるのに、
途中で辞めてしまうのはあまりにももったいない。

太極拳を単に套路を覚える習い事だとは思って欲しくない。

太極拳の始まりは套路を覚えてからなんだ。

2017年7月9日日曜日

最後の東京体育館

先程東京から戻った。

全日本引退試合、過去最高の演武が出来た。
とてもリラックスして挑めたし、
最後の最後まで気持ち良く演武できた。

途中で息が切れることもなく、
スタミナが切れることもなく、
大舞台である東京で、
私が学んできた伝統形意拳を思う存分やれたし
最後に相応しい演武が出来た。

そして、とても爽快な気分で東京体育館を後にすることができた。

5年間どうもありがとう。

2017年7月7日金曜日

心を開くこと

これから東京へ向かい、最後の試合に挑もうとしているのに
ずっとやるせない気持ちが続いている。

私は常に皆のことを理解しようと努力しているのだが・・

理解を求めているのではない。
しかし出来れば理解し合いたいとは思っている。

私が今していることは師から受け継がれたこと。
師を尊び、師から受け継いだことを伝えることが私の使命だと思っている。

私のことを否定することは私の師を否定するも同じ。
私に自分の考えを押し付けようとするのもまた私の師を侮辱するも同じ。

私の師もまた師を尊び、毎日修行に励んでおられる。

誰もが思うことだろう。
自分のことは何を言われても構わないが、
自分が愛する人のことや自分の家族、
また自分が尊敬する師をのことを否定されたら強い悲しみと憤りを感じるだろう。

私が今やるせない気持ちになっているのは、
心を開いてくれないこと。

心を閉ざしてしまったら、
すべてのことが良くないことへと向かってしまうことは誰もが経験していることだと思う。
それに気づいて欲しい。

辛い思いをするのは自分自身。
そして、私はその辛い思いをしている人と向き合わなければならない。
これもまた辛い。

打開策はただひとつ。
心を開くこと。

2017年7月6日木曜日

引退

何度も考えた末、
今年で大会を引退することにした。

ということで今年が最初で最後の拳術での引退試合。

私がこれまで師から学んできたこと、
そして自分が今まで積み上げてきたこと、
それを出し切りたい思う。

最後の東京体育館が自分の中で最高だったと言えるよう。

張り合うべからず

太極拳は人と張り合うための武術ではない。

自分の修行。

自分の可能性をどこまで引き出せるか?
それが太極拳に求められる修行の意味だと思う。

仲間同士と太極拳を行っていると、力の差を感じることもあるだろう。
私としてはありのままにそれを受け入れて欲しいと思う。

遅れをとってしまったからとか、
どうしてもあの人に敵わないとか、
誰それには負けたくないとか、
劣等感を感じてしまっているとか、

そのようなつまらぬプライドや煩悩は捨て去ろう。
そのこと自体が禅の道から外れるものであり、
いわば太極拳の修行から外れることになる。

自分がなんのために太極拳を始めたのかもう一度よく思い起こして欲しい。

人と張り合うため?
そうではないはず。

私は誰とも競わないし争いもしない。
だから優越感も劣等感もない。
ペースが乱れることもない。

ただ、自分の可能性を知るためにすべきことを全うするのみ。

2017年7月5日水曜日

大自然を目の前に

都会生まれの都会育ち。
その都会暮らしににも疲れを感じるようになり自然を求めこの地に。

当時は近代的なものを追い求め
そして人にもまれることが好きだった。
しかし今は自然の中で静かに生きて行きたいと思うように。

先日、キトラ古墳で青空太極拳を開催したが、
その美しい光景を目にした時、ここで太極拳を行いたいと思った。

自然の美しさを目にしたとき、
ただその空間にいるだけでもなんとも言えない幸福感を感じる。

その美しい大地に立てていることに喜びを感じ、
天に向け手を広げたくなる。

そのゆったりとした時間の流れに、ゆっくりと体を動かしたくなる。
すべては感じるがままに。

当会では年に何度か青空の下で気功と太極拳を行うが、
元々これを始めたのも心が求めるがままに。

美しい景色を見るとそれカメラに収めたくなるように
大地を踏みしめ手を広げたくなる。

今回の青空太極拳もそんな風に心が思うがままに企画した。

皆と円になって歩きたい。
自然に合う美しい音と音楽が欲しい。
大地と風と光を感じながら思考スイッチを完全にオフにし「無」になりたい。
ゆったりとしたそよ風のような楊式太極拳を皆で行いたい。

いつも思う。
楊式太極拳は本当に自然に調和すると。


大自然を目の前に思うこと。
その中にいるだけでも心地いいが、もっともっと自然を感じたい。
自然と一体化したい。

それが当会が目指す禅であり太極拳である。

2017年6月30日金曜日

推手大会を行うにあたって


当会では今年8月に始めての推手大会を予定している。

といいつつ、どのような形で行うか今も尚、思案中なのだが。

まずは個人戦は男女混合で
単推手、双推手、四正推手の3種目

男女を分けることも考えたが、
太極拳が体格や力の差で戦う武術ではないことを考えると男女混合が自然だと。

種目として自由推手を取り入れるかどうかも悩んだか今回は見送ることにした。
いずれは自由推手も取り入れて行きたいと考えている。

他には紅白対抗試合や団体戦なども検討中。

いずれも今年は会内だけで行うため参加者数も少人数であることを考えると、
いわゆる散打試合のような緊迫した感じではなく、
推手練習会の延長のようなアットホームな雰囲気で行おうと思っている。

さて、ここでだが、
当会で行う試合を推手という形で行おうとするのには理由がある。

まずは演武を競う大会。

正直これは判定基準が難しい。
審査する側の好みもあるだろうし、何を審査基準とすべきかも難しい。
もしこの演武大会が美しさを競う大会であるならば、
当会が目指す勁力を身につける道から外れてしまう。
演じようとすること自体勁力を落としてしまうからだ。
それに美しく演じたからといって武術的な功夫が向上したことにはならない。

次に散打試合。
いわゆる自由組手。

太極拳を実戦として使えるかどうかを試すのには良いのだが、組手には怪我がつきもの。
女性が大半の当会としては怪我人を出すわけにはいかない。
そもそも当会は格闘を目的とした教室ではない。
気功と太極拳によって身につけた、ゆるみと軸感覚と勁力開発によって、
それを健康や生活向上、護身に役立てて頂きたいというもの。

結局、推手が最も適しているということになる。

推手は、いかに気功に時間をかけているか?
いかに力みのない正しい套路練習を行えているか?
推手で言う、聴勁、走勁、化勁、発勁を正しく理解できているか?
散手によって太極拳技法が正しく身についているか?
これらすべてを明確に判断することができる。

それに勝敗がはっきりしているから、判定もしやすく、本人も納得がいく。
勝てば自信につながるし、負ければいっそう努力するきっかけになる。
推手試合なら演武大会でつきものの採点への不満もない。
それに防具も必要なければ、怪我をすることもない。

安全かつ、太極拳の本当の実力を知る機会になるし、
推手を行うことによって伝統の太極拳の練習方法を深く理解するきっかけにもなる。

いずれはこの推手大会を徐々に拡大させていきたいと考えている。

それは太極拳を正しく理解することになるし、正しい練習を行うきっかけにもなる。
そのことにより病気しない丈夫な体をつくり、体丸ごと若返らせることにつながり、しかも護身術も備わる。

推手大会を行う意味は非常に深い。


ところで先程、
聴勁、走勁、化勁、発勁 という専門用語を出したが、
これを言い換えると、
聞く、許す、導く、与える となる。

聞くは相手を知ること。
許すは相手を受け入れること。
導くは相手を思いやること。
与えるは相手に知ってもらうこと。

これは真の人間関係を築くことと同じ。

自分のことばかり理解してもらおうとするのではなく
まず相手を理解しようとすること。
その機会として、許し、導き、与えるということになる。

2017年6月29日木曜日

1:58の形意拳

先日、弟の絵が大阪の有名なギャラリーに展示されたので観に行った。

これまで何度弟の絵を観に行っただろう?
しかし弟は、兄である私の表演や試合を一度も観に来たことがない。
まあ、いいのだが・・

今回展示された弟の絵を観て思ったこと。

「すばらしい!」
「父の息子の絵だ!」
鳥肌が立つほど感動した。

値札をみるとそれなりの価値がついていたので、それもまた嬉しかった。
自慢の弟だ。

弟の作品は今まで日本最大の展覧会で毎年入選。
もう数えきれないほど。
これまで何度か特賞をとったこともある。

しかし私は正直弟の絵が好きになれなかった。
モチーフもそうだが、色遣いが一辺倒で伝わってくるものがなにもない。
ほとんど魅力を感じなかった。

以前、弟に何故ああなるのかと尋ねたら、絵の具を買う金がないと言った。
その時私は本気で弟に絵の具を買ってやりたいと思った。
まあ実際は買うまでには至らなかったのだが。

その後また弟に尋ねてみた。
何故ああなると。
弟が本気を出せばもっともっと独創的な絵が描けるはずだと思っていたから。

その答えは、いわゆるその傾向があるという理由だった。
私はようやく理解した。
弟は自分の描きたい絵を描いていたのではないと。

これと同じように
私もまた、今、自分がやりたい形意拳ではない練習を行っている。
いや、形意拳の套路そのものは好きなのだが、問題は時間制限。
私の形意拳は2分ではとても収まらない。

収まらない理由は
手数があるからではない。
全くその逆で、一発を打ち込むのにそのパワーをチャージする時間が欲しいということ。

形意拳が他の流派と大きく違う点は、圧倒的に手数が少ないこと。
連打して徐々に相手にダメージを与えるのではなく、一発で倒すところにある。

これでもかと言わんばかりに打ちまくり、息を切らせてしまい、
足元がふらついてしまっているのはとても形意拳とは思えない。
私が知る形意拳は速筋中心の無酸素運動ではないからだ。

「発勁如虎」という言葉通り、一発で獲物を狙おうとする虎と同じ。
駆けあいになり長距離走になったら草食動物には敵わないからだ。

だから本来鍛錬法である套路でその一発を打つためには力を溜めなければならない。
その部分をしっかりやろうとしたら2分ではとても足りない。

自制しながらも2分以内に収めようと早く動いてみる。
1:58
何度はかっても同じタイム。
いつも時間との戦いだ。

昨日、弟子に自分のその演武を目の前で披露した。
人に見せるのは好きではないが、弟子の意見を聞きたかったから。

演武し終わると弟子は心から感動してくれた。

もう、私はこれでも十分だと思った。
私のことを一番良く知ってくれている弟子に評価されるのが一番嬉しい。

傾向対策は大事だと思うが、
かといって自分の武術を捨てたくない。
いかに時間内に自分の武術を収めるかが私にとっての課題。

今になって弟の気持ちがよくわかる。

*****

ヘッダー画像は私のブログを愛読してくださっているAさんのお友達の写真家ringoさんの作品です。
素敵な絵葉書ありがとうございます。とても癒されます。

2017年6月28日水曜日

動画サイトをすすめない理由

以前、ある先生に言われたこと
「動画サイトは見ない方がいい」と。

その言葉だけで特に詳しい説明もなかったので
その時は何故だかわからなかった。

動画サイトを見れば、様々な流派の中国武術を美しく演武している動画がたくさんある。
その頃は、単純に美しいと思った。

しかし今はどうだろう?

私の中で見てはいけない動画がある。
そして、動画サイトやSNSなどで投稿されているその武術系の動画を観た時、
私は瞬間的に見ないよう飛ばしたり、非表示にしたりしている。
無論自分から観に行くこともない。
仮にそれが静止画であっても。

理由は実にシンプル。

具合が悪くなるから。

人間本物がわかるようになると、
自然と本物を求めるようになり、
そうでないものに対し拒否反応が起きるようになる。

それは、目から入る情報だけでなく、口、鼻、耳から入る情報も全て。
だから私は常に見るもの、口に入れるもの、空気、
そして接する人も選んでいる。

自分にとってマイナスな影響を及ぼすものには極力触れないようにしている。
自分を守るためだけではない。
それは自分の周りにも伝染するからだ。

周りを変えたいならば自分が変わる。
このことは半世紀生きてきた中で何度も学んできた。

話を戻すが、
先程、見ない動画と言ったが、それは中国武術に限ってのこと。
バレエやフィギュアスケート、体操競技などは好んで観る。
中国武術は武術であって、舞踊や体操ではない。
もちろん人それぞれ好みがあるように、少なくとも私はということ。

実は最近、カンフー映画も受け付けなくなってきた。
子供の頃、カンフーに憧れ、あれだけカッコいいと思ったのに、だ。
今は見てもほとんど熱くなれない。

どうやら私はそれが本物かどうか見分ける力が身に備わってきたよう。

わずかでも早回しが使われているとそれが嘘だとわかってしまい
ほんのわずかでもワイヤーを使うとそれが人間の跳躍力でないことがわかる。

というより、私は元々カンフー映画の中でのワイヤーアクションが好きではない。
映画ファンの方には申し訳ないが・・

それに過剰な効果音も受け付けない。

最近私は形意拳のPVを作って動画サイトに公開したが、
あのPVを編集する時に効果音を入れるかどうか迷った。
様々な効果音を集めてみたが、結果使用を全面却下。

いや、正直言うと一か所だけ入れた。
その理由は暗闇の中で単焦点レンズを使用して撮影したため、
肝心な部分のフォーカスがぶれてしまい、それをうまく繋ぐために止む無くエフェクトと効果音を入れた。

その一か所以外の音は全て本物。
空気を割く音や服がなびく音、地面を叩く音など。

早回しも使ってないし、
ワイヤーなどあるわけもなく、
最後のシーンだけスローモーションを入れた。

実はそのスローですら今は気に入らなくなってきている。

逆に私が今一番見たいもの。

それは師匠の演武。
いや、師匠のオーラ。

そもそも私が美化された武術を受け付けなくなってきたのは
約10年目に再開した師匠の姿を見てから。
もう本当に衝撃的だった。
10年と言う時間差があっただけに尚のことだった。

美しいのではない。
師匠から出ている空気があまりにも凄いのだ。

決して大柄ではない、
どちらかといえば小柄な師匠が動き始めると師匠が大きく膨らんで見える。
その見え方は動画や写真にしても決して写らない。

手を合わせると、師匠の意のままに操られ身動き取れなくなる。
感じるのは手と手というより、空気。

これが本物の楊式太極拳だと思った。

私が最初に出会った師は
本物の楊式太極拳を教えてくださる方だった。
なんと私は恵まれているのだろう。

この縁を宝とし、後世に伝えて行きたいと思った。

2017年6月27日火曜日

やわらかいとは?

やわらかいとか硬いとか言うが、
なにが柔らかくて何が硬いんだろう?

昨夜、ある会員さんの動きを見ていたのだが、
もう教えることはないと思った。
ご本人にも「非の打ち所がない」と伝えた。

正しく動けているし
とてもやわらく動けている。

ここで言うやわらかいとは、柔軟性ではなく、
その動きが空気に逆らっていないという感じだろうか?

水の中で体を動かしていると水の抵抗があるから、自然と無駄のない柔らかい動きになる。

高校時代、1年だけ水泳部にいたことがあるのだが、
いわゆる泳いでいる柔らかい姿に憧れた。

動きに無駄がない。
無駄なことをしようとしても水の抵抗があるから、できない。

しかし空気中だと、抵抗が少ないからどうしても無駄な動きや、
硬い動きになってしまう。

動きがギクシャクしていたり、
連綿でなかったり、
動きそのものがぶれていたり・・

だからこそ気功を行う。

空気を感じる。
いわゆる気を感じる。

体の中に気が巡り、そして体の外にある気を感じる。
意識しなければ決してうまれないその気の存在。

意識すれば発生し、
無視すると消えてしまうとてもデリケートなもの。

気を信じる信じないは本人次第。
私の場合は信じる信じない以前にすでにその気の力を肌で感じてしまったから
存在を否定する方が難しい。

目の前に木があるのに、ないと思うのが無理なように。

気の存在を感じるようになると、その気の中で泳ぐような感覚になってくる。
水の中で動くのと同じように。

人間の体はその60~70%は水分で成り立っている。
しかしその水ですら酸素と水素が結合したもの。
さらに分子単位でみると、原子核と電子で成り立っている。
原子核と電子はごくごく小さなもので、もし原子核が1㎜とすれば電子との距離は50mと言われる。
いわゆるスカスカなのだ。

すべて目に見えている物質は実は空気と変わらないということになる。

体を極限までゆるめ、
そして気を丹田に沈め、深い瞑想状態に入っていくと
気と同化する感覚が得られる。

この状態で太極拳を行うと、まるで水の中を泳いでいるかのような柔らかい動きになる。
決して柔軟性ではない。

この動きができるようになると
推手や散手を行った時に、相手の存在や動きの見方が変わってくる。

あると思っている自分は実はなく、
そして相手もない。

ちょっとオカルト的な表現になってしまったが、
自分がこうと信じているものが、それが本物で、
それを実証することが出来るだろうか?

実は宇宙そのものが無で、私達もその無を有と信じているだけかもしれない。

私は映画マトリックスを観た時に、
かつてないほどの衝撃を受けた。
あまりの衝撃に映画を観終わってもすぐに席を立つことが出来ず、身が凍り付いてしまったことを覚えている。

あれこそ無を有と信じている世界をコンピューターに置き換え描いているものであり、
その当時、私がある特殊な状態(トランス状態)になっている時だったから、
あまりにもその偶然のタイミングに衝撃を受けてしまったのだ。

気なんて存在しない。
そう思うのは個人の自由。

しかし信じることで生まれる世界は無限。
それにそれを肌で体験していくことができる。

これからも究極の柔を目指したいと思う。

2017年6月26日月曜日

癒しの八卦掌

力ではなく意を用いて技を使う中国拳法を内家拳と呼ぶ。

その中で最も代表的な流派が太極拳(たいきょくけん)
ゆっくりやらわかい動きが特徴で、
主に化勁(相手の攻撃を無力化する術)を用いて相手を崩したり飛ばしたりする拳法。

次に形意拳(けいいけん)
一打必倒と言われる内家拳最強と知られる拳法。
勢いよく蹴り出した推進力を利用し攻撃するが、
暗勁(打たずに相手にダメージを与える術)を使って打つため派手な動きはみられない。

そして八卦掌(はっけしょう)
自転と公転を組合せ、円を描くように動きながら、掌を用いて攻撃するのが特徴。
独特な歩法を用いるので動きが読めず、相手をかく乱しながら攻撃を加える。

当会ではこの3つを稽古内容として練習しているが、
それは戦うためではない。
主なる目的は、体を鍛え、心身共に強くし、病気しない身体を手に入れること。
その上に自分の身を守るために、これら拳法を使って護身に役立てられるよう練習を行っている。

そもそも内家拳とは護身武術であり、戦うために編み出された拳法ではないとされている。
攻撃すれば相手からも攻撃されるように、終わりのない戦いがひたすら続く。
そして闘う意思のない者までもが犠牲を払い、その数の方が多くなることがほとんど。
歴史を振り返るとこのような悲劇がずっと繰り返されている。

内家拳の目的は、戦いを終わらせることにある。
内家拳の攻撃は実際は攻撃ではない。
相手の攻撃を鎮める術。
いわば平和のための拳法。

少なくとも私はそう信じてるし
私が内家拳を愛し内家拳を選んだ最大の理由。

八卦掌にしてもしかり。
闘うためではない。

八卦掌の基本功である走圏はただ円を描きながら歩くだけ。
こんな簡単な鍛錬法で、瞬時に心が癒され、無限の知恵が得られ、大いなる力を得る。
禅の境地とも言える。

そもそも犯罪は心の乱れから起こる。
だから癒しが必要。
皆が八卦掌を行えば、皆が安らかな気持ちになれる。

だから、
戦うためでもなく、
踊るためでもなく、
癒しのために八卦掌を広めたい。

これが八卦掌によって歩きだしてから思うようになったことだろうか。

2017年6月25日日曜日

気を感じる方法

なかなか気を感じることができない。

そんな方に、手っ取り早い方法がある。
気を感じるというより、気の疑似体験という感じだろうか。

方法は簡単。

両掌を向い合わせ、思いっきりパン!と叩く。
その後、手の平を強く擦り合わす。
手の平が熱くなってきたら、両手をゆっくり開き
ハンドボールぐらいの大きさのボールを抱えるようにする。
その後、ゆっくり手の平を開いたり閉じたりする。

これを「開合」という。

どうだろう?

手の平がぴりぴりし、手中に粘っこい感覚が得られないだろうか?
磁石が引き合うような反発しあうような、その入り交ざったような感覚。

今、手を叩き強く擦り合わしたが
気功を続けて行くと、これをしなくとも同じ感覚が得られるようになる。
この際、全身を十分ゆるめ、意識を手に送る。
そうすると手に気が集まり、よりいっそう感じやすくなる。

太極拳には様々な流派があるが、その中でも孫式太極拳は面白い。
套路の中にこの開合が頻繁に出てくる。
気功と形意拳と太極拳の融合という感じだろうか。

要するに技を使う前に気を練って
その気を使って技を掛けるということになる。

私が太極拳を始めたばかりの頃、
この手を叩いて擦る方法で気の疑似体験が出来たが、
今は逆。
これをするとかえって気を感じなくなってしまった。

完全に脱力して、手を開いたり閉じたりするほうがよほど感じる。

いずれも、気がどんな感覚なのか知る方法にはなる。
一度やってみよう。

2017年6月23日金曜日

電気、水、ガス、磁力、光、風、綿、ゴム、金属

一見なんの関連もなさそうな物質だが、
私の中では全部関連するもの。

そしてこれまで体験したもの。

「電気、水、ガス」

光熱費?
生活していく上で欠かせないエネルギー資源?

「磁力」
モーターをつくる上で欠かせない?
電車も新幹線もハイブリッドカーも電気と磁力で走っている。

「光と風」

自然界にあるもの・・

「綿、ゴム、金属」

身の回りにあるモノの素材。
綿で衣類をつくり、ゴムや金属で身の回りの生活品や自動車や建築物・・

で、
これらの関連性は?

そう、
氣です。

私が今まで氣功で鍛えられた方と手合わせをして感じたもの。

ある時は
風のように
またある時は水のように
そしてまたある時は金属のように固く。

かとおもえば綿のように柔らかかったり
ゴムのような弾力があったり

ガスのように空気中に溶けていったり
光を感じたり
触って感電させられたり、放電されたり。

手を動かせば磁力を感じる。

ますます不思議な氣。

私たちが普段何気に毎回行っている気功では
これら様々な物質や力となり替われる力を手に入れるトレーニングを行っています。

しかもその訓練は決して厳しいものではなく、
高齢の方でもできる体操のように、非常に気持ちのいいもの。

気功を行っていると不思議体験がどんどん起きてきます。

2017年6月19日月曜日

無力は強力

楊式太極拳で使う力はごくわずか。
どんなに繰り返し技の練習を繰り返しても息が切れることはない。
それほど力を使っていないということ。

時折、想像する。
もし、物凄いパワーで攻撃してくる相手に本気で楊式太極拳の技を掛けたらどうなるだろうと。

考えただけでも恐ろしい。
相手の力が強ければ強いほど与えるダメージは大きくなり、
下手をすれば命を落とすことになりかねないと。

楊式太極拳の恐ろしいのは打つ力ではない。
化す力。
消える力とも解釈できる。

空中戦で敵機に後ろに付かれた時、右へ左へと攻撃を交わしながら十分誘い込み、
崖壁等の直前で一気に急上昇し、追尾してきた敵機は崖に激突なんてシーンが良くあるが、
あれに似ている。

これと同じく楊式太極拳は決して闘わない。
許す、導く、化す

相手にとっては自分のしたことが自分に返るだけ。

だから散手の稽古の時は決して突きを早く打ち出さないようにと指導している。
それに、楊式太極拳の技のパワーを抑えるためには、力を抜くのではなく逆に力を入れなくてはならない。

力を抜くと危険度が増し、
逆に相手を守るために力を入れなくてはならない。
相手が危ない方向に飛んでいかないように力で支えたり、
相手が転落しないように手を握って支えたり。

だから
楊式太極拳では無力こそ強力となる。

自分の時間がない

4~5年前
あれだけあった自分の時間が今はない。
あれだけ太極拳に打ち込めた自分の時間がない。

体がもうひとつ欲しい。
いや、もうふたつ欲しい。

武術仲間にこぼす。
泣けるものなら泣きたいと。

自分の時間が寝ている間だけとは。
息が詰まりそうだ。

が、今は頑張ろう。
皆のためにも、
会のためにも、
世のためにも。

私の夢は楊式太極拳の境地に至ることと
伝統太極拳を広めることだが、

それと、もうひとつ。
何も考えずのんびり過ごせる時間が欲しい。
一日中海でも眺めながらぼーっと過ごす時間が欲しい。

こんな今、
私にとって最高の癒しとなり活力になるのは、
立禅と走圏。

ひたすらゆったり立つ。
ひたすらゆっくり歩く。

考えることが多い毎日の中で、
体を極限までゆるめ、頭のスイッチを切る。
立禅をしている時だけはなにもかも忘れる。
この時だけは無になることが許される。

私だけではなくこんなふうに思われる方がおられるのではないだろうか?
何もかも忘れ無になりたいと。

だから私が与えたいことは活動することではない。
身も心も休めること。

未だに太極拳を運動やスポーツだと勘違いする人がいる。
そうではないんだよな。

太極拳は禅であり、
心身ともに癒し活力を得るための行。

頻繁に稽古に参加される会員さんは皆声を揃えて言う。
ここに来ると癒され元気になれると。

男はどんどん凛々しくなり、女性はどんどんきれいになる。
人間的な魅力が増す。

皆疲れているんだ。
だからこそ禅が求められるんだ。

春日伝統太極拳 公式サイト

2017年6月16日金曜日

形意拳のパワー

最近動画サイトなどで見ていると様々な形意拳を見ることができるが、
これがなかなか興味深い。

感想としてはカッコいいなと。

私が学んできた形意拳とはかなり違う。

楊式太極拳もそうだが、威力が見えたらそれは楊式ではない。
形意拳も同じ。
いや、正確にいえば河北派形意拳は威力が見えたらそれは河北派形意拳ではない。

その理由は使う勁が違うから。

私が形意拳で教わってきたことは
「威力を出そうとするな」だった。

拳を突き出すからどうしても、少林拳や長拳のように剛拳のような突きになる。
それならば形意拳は筋力で戦う外家拳であるはず。

なぜ内家拳と言われるか?

それは決して簡単に学べるものではないと思う。

カタチだけならすぐに真似ることができるだろう。
しかし、形意で使う勁を使えるようになるには時間がかかる。
それに、力任せに打ってる間は形意からどんどん遠ざかってしまうだろう。

私なら三体式をする。

三体。
すなわち、天と地の力を使って打つ拳の破壊力は力任せに打つ拳とは訳が違う。
その力は貫通するほどのパワーとなる。

カッコいい現代風形意拳もおもしろいと思うが、
あえて私は伝統形意拳を選ぶ。
(まあ、身体能力的にやりたくとも出来ないのだが・・)

ある会員さんが私の形意拳を見て「みずすましのよう」と例えた。

静かで闘っているように見えない形意拳。
私はこれに大きな魅力を感じる。

2017年6月14日水曜日

動かぬ太極拳へと

約4年前、会を立ち上げた時は会員2人で稽古も週一だった。
そして今は会員約80人で稽古は毎日、時間刻みでレッスンが入っている。

当時、趣味で始めた太極拳サークルだが
今では自分にとって使命になってきている。
私を信じ私についてきてくれる仲間が愛おしく、その分責任も重くなってきている。

自分が進もうとしている道は決して間違っていないし、自信もある。
〝今”という時を常に喜び、
この世を去る前に
「最高の人生だった」と思ってもらいたい。

大袈裟だと思われるかもしれないが、これが私なんだから仕方ない。

いずれも大事なのはそのプロセス。

15年前体を動かしたくて始めた太極拳だが、
今は逆に動かぬ太極拳へと導かれているのがわかる。

先程も話したように、私は仕事量は確実に増えている。
趣味から使命へ。
その責任は重く、私はもっともっと心を強くしなければならない。

その時私が求めるものは禅。

常時、頭も体も働かせている毎日の中で、
無になることは自分にとって最高の癒しとなり、
しかも悟りを得られる唯一の時間。

自分の進むべき道は頭で考えて出るものではない。
無になった時に得られるものだと思う。

立禅が今一番心地いい。

今月からカルチャーで気功を教えることになったが、
サークルでも気功のクラスを充実させて行こうと思う。
青空太極拳と併せ青空気功もいいだろう。

気功なら平らなところでなくともどこでも出来るし場所を選ばない。
何の道具も必要とせず、やりたい時にやりたいだけ出来る。

ヨガでスピリチュアルな世界を求める人が増えているように
今は癒しを求める時代。

人は機械を上手に操れるようになり、
我武者羅に働く時代が終わり
人はもっともっと自由になり、
かつてのように自然を愛するようになる。

将来日本は仕事がなくなると不安を煽っている輩もおられるようだが、
頑張らなくても良い時代が来るということ。

だからこそこれからは「禅」が求められると。

気功なら
ヒーリング効果を得ながら
治癒力を上げ
護身の力も身につけることが出来る。

いわゆる動かぬ太極拳が今後多くの人に愛されるようになると。

*****

昨日、ある会員さんが気功の弟子にして欲しいと申し出てこられた。
これも偶然ではなく必然だと感じている。

2017年6月13日火曜日

伝統太極拳検定試験

昨日、第二回目の検定試験が無事終わった。

結果は
受験者17人中、3人が都合により棄権
11人合格、
3人不合格。

人を採点するというのは辛いものである。
ペーパーテストなら〇か×しかないが
套路や推手、散手の採点はそう簡単ではない。

気持ちからすれば、全員に合格点をあげたかった。
だからこそしっかり試験対策の練習して欲しいと心の中で叫んでいた。
しかし、出来ていないのに合格点をあげてしまうと本人の成長を止めることになってしまう。

当会でもっとも重視するのは歩型と姿勢。
動作の若干の違いは減点しない。
踵脚の時に一度ぐらいバランスを失ったり、落脚しても減点しない。
これらは大した問題ではないから。

又、美しい演武をしたからといって加点しない。
むしろ美しくみせようとしたら減点していたかもしれない。
美しくみせようとする気持ちの中に武術的要素はゼロだからである。

何が何でも歩型と姿勢。

これが出来ていなければ何も始まらない。
軸も安定しないし、
脱力することもできない。
気を沈めるのも難しくなる。
それどころか体を痛めてしまうことになりかねない。

逆にこれらが出来ていれば、
套路も推手も散手もメキメキ上達できる。

試験前も試験後もどうやら私は強いストレスを感じていたようだ。
合格を告げるのは簡単だが
不合格を告げるのはとてつもなく辛い。

ある会員さんに言われたが、試験終了直後の私は憔悴しきった様子だったと。
帰宅後もぐったりとし、いたたまれない気持ちがずっと続いた。

不合格通知を送ったとたん、すぐにメールの返信があった。
すぐに補習を受けたいと。

良かった。

次のチャンスは絶対ものにして欲しい。

2017年6月10日土曜日

沈禅

聴く力を身につけるため立禅を行う。

化す力を身につけるため立禅を行う。

発する力を身につけるため立禅を行う。

当会が目指す立禅は立つ力を身につけるためではない。
すでに立つことは出来ている。

立禅を行う意味は沈むことを身につけるため。
立つ力は1歳の時にすでに身につけている。

だから立禅ではなく沈禅と言った方がしっくりくるかもしれない。

立とうとすることはすでに筋力に頼っていることになる。
しかし沈むことは立つための筋力をぎりぎりまで下げないければならない。

地球の力である引力に逆らわず、逆にそれに従う。
これによって筋力ではないチカラが開発される。
そう教えてきた弟子がそれを証明してくれつつある。

太極拳の名人に若い人はいない。
私が太極拳を始めたばかりの頃、先輩が教えてくれたこと。
「太極拳は50歳から」と。
当時私は30代だった。

いわゆる筋力の衰えが始まる50歳からが太極拳の本当の力が出せるということ。
私はこの言葉にどれだけ救われ励まされたか。

更年期障害ともいえる老化していく自分を惨めに感じていた時期が今では懐かしく思う。
今では歳をとることを逆に喜んでいる。

歳をとるごとに強くなる太極拳。
伝統太極拳に引退はない。
棺桶に入る寸前まで強いのが太極拳。

辛いトレーニングは必要ない。
老化を有難く受け入れ、ただ立てばいい。
これが伝統太極拳。

なんとも素晴らしい。

春日伝統太極拳 公式サイト
春日伝統太極拳へようこそ!

2017年6月5日月曜日

なぜ表演?

ある会員さんに「表演は興味ない」というようなことを言われた。
当会にはそのように思う人が少なくない。

しかし私は逆に尋ねたい。

「ではどうやって太極拳を伝えるのですか?」と。

太極拳を始める方の中では、
テレビで見たり、本場中国でその光景を見てきたり、
なにかしらの場面で太極拳を目にしている。

いわゆる見た目から入っていることは事実。

実は私は太極拳に対してのイメージがほとんどなかった。
しかし何か不思議な技を使って相手を倒すというような
ぼんやりとしたイメージはあった。
何故そういうイメージを持っていたのかまでは覚えていないが。

いずれも表演というものは、太極拳に興味を持ってもらうための一つの手段。

その時にどういう姿勢で太極拳を行っているかだ。

見せよう思って演武しているのか、
それともたまたま練習風景を見られたのか。

表演は確かに美しい。
しかし太極拳のすべてではない。

ここで考えてみて欲しい。
何故表演なのかと。

それは太極拳を普及させるためだと思う。

だから当会では表演を目的として練習を行っているのではなく、
本格的な武術家に育てるための練習を行っている。
そして表で演武するのは、あくまでも興味を持ってもらうため。
目的ではなく手段である。
(今まで何度も語ってきたが・・)

太極拳の表演も楽しいという方も大勢おられるだろう。
しかし本当の太極拳を学び始めればそれはごくごく一部の楽しみであることがわかると思う。

太極拳の世界はそんなに浅くはない。
とても深くその奥底は暗闇の世界で簡単に見ることができない。

海ひとつとっても海面だけが海ではない。
海の中に更に素晴らしい世界が潜んでいる。

山も同じ。
見た目だけの山だけが山ではない。
登ってみて初めて得られる感動の光景に巡り合える。

いずれも今後当会ではもっともっと自然に近い形を目指そうと思う。

套路は鍛錬のための練習法であるがゆえに人に見せるものではないが、
しかしそれを見ることの癒し効果は絶大。

いわゆる見せようとしなくていいということ。

これならば自分も存分に楽しめ、見ているものも楽しませることができる。
癒しを与えると言う形で。

2017年6月1日木曜日

倒す力、治す力

太極拳は列記とした中国武術です。

いわゆる敵から身を守るための護身武術です。

体操でもなく
スポーツでもなく
格闘技でもありません。

ジャンルを尋ねられるといつも困ります。

ただ、武術といっても単に武術でもありません。
太極拳は武術に気功(禅)の要素を加え、
老若男女、誰でも自分で自分の身を守れるよう編み出された特殊な武術です。

だから、太極拳と気功は密接な関係があり、
決して切り離してはいけないのです。
武術と禅の2つの要素が合わさってこそ本当の太極拳なのです。

太極拳から気功の要素を切り離すとどうなるか?
それは言わずと知れたこと。

太極拳は力を使いません。
「用意不用力」
という言葉通り、力を用いず意を用います。

昨日、ある会員さんと散手(技の練習)を行いました。
そして私がかるく手ほどきしました。
「同じようにやってみて」と伝え、技を掛けてもらったその瞬間、
私の体は宙に浮き数メートル吹っ飛びました。

驚いていたのは技をかけた本人です。
「全然力使ってないのに・・」と。

これが太極拳です。

これだけではありません。
体を浄化する力、
元気になる力、
病気や怪我を治す力が驚くほどアップします。

恐らくこのことは誰もが求めることではないでしょうか?

当会では、体を動かすだけの太極拳ではなく、
その動かす意味から丁寧に指導しています。
どんな質問にもその場でお答えします。

このような力を身につけてみたいと思う人は一度体験にお越しください。
いろんな太極拳教室を見て回りたいと思っている方は
どうぞ一番最後にお越しください。

当会が何を目的とし、何を教えようとしているかをご理解頂けると思います。

公式サイト http://kasuga-taichi.jp/

自撮りのすすめ

会員の皆さんには自撮りをおすすめします。
自撮りといっても、顔の写メを撮るのではありません。

自主練時、
立禅を行っている時、
套路を行っている時、
動画で撮影します。

機械は苦手で・・
という方もおられるでしょう。

しかし、何故私たちはこの時代に生まれてきたのでしょう?
人間は自分の意思で、この時代、この地に生まれてきたと言われます。
これを〝バースビジョン”と言います。

もし機械が苦手なら江戸時代、
いや原始時代に生まれてきたことでしょう。

それはともかく、
今は便利な道具がいっぱいあるのですからそれらを上手に使えば
上達を劇的に早めることができます。

だから積極的に使いましょう。

今はスマホを持っている人も多いでしょうから
以下のようなグッズを買って持っておくといいでしょう。

2way 卓上三脚+スマホホルダー


これは私のおすすめではありますが、
もっといいものもあるかもしれないので探してみてもいいでしょう。

動画は嘘をつきません。
動画を観ることで気づくことは多いと思います。

見るだけでも自分の太極拳が変わっていきます。
是非おすすめします。

2017年5月31日水曜日

バイク事故

いつかやるだろうとは思っていたが遂にやってしまった。
バイク事故。

稽古帰りに食事して帰ろうと行きつけのラーメン屋に寄ろうとしていたのだが、ちょっと考え事をしていて、通り過ぎそうに。
スピードは恐らく50~60㎞ぐらいは出てたと思う。

そこで急ブレーキ&急ハンドル。
単車では絶対やってはいけないことをやってしまった。

その瞬間バイクは横転し、まるで氷の上を滑るようにくるくるスピン。
同時に私はバイクから放り出され、全身を強打。

しかし不思議と本人冷静で、
自分のことよりバイクが横転して暴れているのを見て、それを起こしに行く。
その時、体に痛みはほとんどなかった。

中学時代からずっと憧れ40代後半になってようやく夢の二輪免許を取得。
そしてずっと欲しかったビッグスクーターをキャッシュで購入した。
人生で初めての二輪免許と人生で初めての新車。

楽しくて楽しくて毎日ツーリングに出かけた。
そして7年間ずっと大切に乗ってきた。
それが一瞬でキズモノに。
ショックだったがやってしまったことは仕方ない。

そんなことを考えながらお店に入りラーメンとチャーハンを注文した。
その時、私は上下白の道着を着ていたのだが、左肘と左膝あたりが血で赤く染まってきた。
その時始めて自分が怪我していたことに気付いた。

その場では止血しようもなく、徐々に血で染まっていく道着を着たままラーメンとチャーハンを平らげ店を後にした。

帰宅し、裸になると、左肘、左膝、左腿、左股関節から出血。
そして左手小指、胸骨打撲。

左肘と左膝は出血が酷かったので傷パワーパッドを貼り付けた。
あとは絆創膏で処置。

私は3日で治そうと決めた。
武術家を目指す者として。

結局、全てきれいに治ったのは6日目の朝。
私の中では3日遅れだった。

しかし、会員さんたちにその話をすると6日でも早い!と言われた。

ここで気になるのが、
もし、気功も太極拳もやっていなければ治るのにどれだけかかっただろうということ。

先日は歩けない程の捻挫を気功治療により1時間半で歩けるように。
車のドアに指をつめ出血したが、それが数分でピタリと止まり、
内出血して紫色だった親指がわずか2時間でピンク色に。
そして翌日には何事もなかったかのようにきれいに治ってしまった。

怪我も病気もしたくないが、
気功によって驚異的な治癒力が身につくことは十分実感できた。

今度はこれを自分ではなく他人に与えて行きたいと思う。

2017年5月30日火曜日

太極拳が飽きる?!

タイトルに書いたが、
太極拳が飽きるということがあるだろうか?

もし飽きるとしたら、それは太極拳を知る前だと思う。
太極拳が本当におもしろくなるのは、太極拳を覚えてから。

遠ざかってしまう人のほとんどが太極拳の型を覚えきらないうちか、
それとも覚えただけか。

本当にもったいないと思う。

コースメニューでいえば前菜だけを食べたようなもの。
満足できるわけがない。

伝統太極拳にイベントなんていらない。
発表会も大会も交流会もなにもいらない。

そもそも伝統太極拳は人様に見せるために鍛錬するのではない。

自分の可能性をどこまで引き出せるか?
これが楽しいし、どんどん深みにはまる。
そしてはまればはまるほど、体に悪いことをしなくなり、
健康なことばかりを選ぶようになり、
そして体が鍛えられる。

ゆるみの境地。

ゆるまなければわからないゆるみの世界の楽しさ。
他のどのスポーツや健康法でも得られない世界。

からだをゆるめ、頭もゆるめる。
身も心もとろけるような感覚は伝統太極拳ならでは。

更に病気しないカラダになり、元気が得られ、しかも強くなれる。
伝統太極拳は本当においしい。

その場で言えない理由

私は稽古中に説教したり叱り飛ばしたりすることはありません。
その理由は空気を大切にしたいからです。

「何故その時に言ってくれなかったのですか?」
と言われたこと、今までに何度かありました。

逆にお尋ねしたいです。
「なぜその時に言えると思うのですか?」と。

私にとって稽古はライブなのです。
本番なのです。

教室に入ったらスイッチを入れ、
自宅に帰ったらスイッチを切り
そして充電します。

私にとって教室は教える場ではなく、パワーを与える場だと思っています。

ライブは元気を与えてくれます。
癒しを与えてくれます。

それを私は太極拳というジャンルの中で行っています。

ライブの最中に叱ったり、説教したりしません。
それは結婚式の最中、お葬式の最中、生放送出演中
私にとってはこれらと状況は変わらないのです。

良くなかった点や反省すべき点は終わってからするものです。

恋愛ならばその場で思っていることを伝えてその場で解決すべきでしょう。
しかしそれとは状況が違うのです。

私の会には現在80人ぐらいの会員が在籍しています。
自由参加制だけあり、皆さんお勤めしている方がほとんどで
一度に全員集まれることはありません。
会社ではないので定刻に全員揃うことはないのです。

だから、改善すべき点や反省すべき点はメールでしかお伝えすることができないのです。
それに対し何か思うことがあれば返信メールで受け付けているし
その意見が良い未来につながると思う事であればすぐさま反映させます。

その点どうか理解して欲しいと思います。

「教室の雰囲気を大切に」

これが私が最も重視することです。

2017年5月27日土曜日

なぜ練習する?

答えはただひとつ。

自分の可能性を知りたいから。

人に評価されるために練習するのではない。

自分を磨きたいから。
自分を知りたいから。
自分で認められる自分になりたいから。
自分自身に驚きたいから。
自分に起きる奇跡を見たいから。

正直言えば気がすすまないのだが、今年の夏2つの大会出場を控えている。
そしてそのための練習を今年の2月から始めている。
毎日ではないが、常に意識しているし、
時期が迫ってくるごとに怠けたい自分に鞭を打って練習をしている。

先程も言ったように人に評価されたいからではない。
自分で納得のいく演武をしたいから。

それなら大会に出る必要はないのでは?
と思われるかもしれないが、
試験や大会に挑戦することは、すべきことが明確になるし、
期限も決まっている。
先送りできないのだ。

人間と言うのは怠けられるのなら怠けたい生き物。
面倒くさいことは先送りにしたい。
しかし期限が決まっていればせざるを得ない。
だからこのような機会を作って頂いた主催者には感謝を述べたい。

今年のテーマは「自分らしく」
自分に嘘をつかず、自分のやりたい武術を行う。
自分が生涯かけて向かおうとしている方向から反れることのない演武を行いたいと思っている。

時代は追うものではなく作り出すもの。
誰かが始めなければ時代を変えることなどできない。

私にそれだけの力があるとは到底思わないが、
少なくとも私は時代を変える側でありたい。

武術は体を鍛え健康をもたらすもの。
決してその逆であってはならない。
非力ながらもこれからもそれを証明していきたいと思う。

2017年5月25日木曜日

どう立つか?どう回るか?

もし太極拳の練習時間が10分しかないとする。
時間の都合上、あらゆる練習法を省いていき、
最後の最後に残る練習法はなんだろうと。

私なら間違いなくこのふたつを選ぶ。

立禅とスワイショウ

このふたつは絶対欠かせないし、
逆に言えば太極拳の上達はこのふたつに掛かっていると言っても過言ではないと思う。

それならば立つ練習と回る練習をすれば良いかということだが、
全く違う。

どう立つか?
どう回るか?
が重要。

いい加減に立ち、いい加減に回っているだけでは全く身にならないし、
それどころか悪い姿勢で立ったり回ったりしていると体を痛めてしまうことになりかねない。

質が大事ということ。

この二つを正しく実践すれば、套路も推手も散手も確実に上達する。
(私が、ということではなく、優れた武術家を見てきてのこと)

だから、この二つに関してはいい加減に行って欲しくないし
毎回丁寧に指導し、
場合によっては厳しくも言う。

中にはそのことでおもむろにふて腐れる者もいるが、
なぜ私が厳しく指導しているか意味が解っていないからだと思う。

出来ていないことに苛立ち叱っているのではない。
本気で健康になって欲しいし
本気で上達して欲しいという気持ちがあってのこと。

意地悪な先生だと思うならそれでもいい。
叱ってばかりもどうかと思うが、生徒の機嫌をとる先生が良い先生とは思わないから。

套路で上手く動けるようになりたい。
推手が強くなりたい。
鮮やかに技をかけられるようになりたい。

いろんな願望があると思うが、
このふたつがこの願いを叶えてくれる夢の特効薬といいたい。

2017年5月20日土曜日

知ってるつもり

このような諺がある。

〝聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”

私が思ったことは何故こんな諺があるか?ということ。
私はわからないことがあればその場で聞くし、
これこそが人間同士の一番楽しい部分であると思っているから。

今は講師という立場だが、それでも私の姿勢は変わらない。
解らないことは解らないと言うし、生徒に尋ねることすらある。

知らないのに知っているふりをしていて損をするのは
知らずに恥をかくことだけではない。
人との楽しいコミュニケーションが出来ないことを損する。
そして人間関係に溝をつくる。

推手に置き換えると、聴勁という。
聴こうとしなければ聴こえない。
知っているつもりで推手していると相手に崩されると言うこと。

推手はこの諺を具体的に証明する実験のようにも思える。

2017年5月16日火曜日

単純なもの程奥が深い

先程、早朝練習してきた。
ガラ空きの駐車場で、五行棍を練る。
生きてるなぁ!と感じる。

何十回、何百回と同じ動作を繰り返す。
これがたまらなく楽しい。

そういう私は元ベーシスト。
ファンクベースが好きだった。

ファンクとは、いわゆるダンスミュージックだが、
踊りやすくするためにずっと同じリフを弾き続ける。
ずっと同じリフを繰り返しているのに全く飽きない。
むしろどんどん楽しくなる。

同じフレーズを弾き続けるので頭を使うことはない。
頭は空っぽ。
どこを使って弾くか?

丹田。

ベースってもんは頭で弾くんではなく
心で弾くんでもなく
腹で弾く。

そうするとどんなベースよりも、ものすごいパワーを生み出す。

私の武術に共通している。
緻密な套路を覚えるのは苦手だし、好きでもない。
頭を使うことが好きではない。

だから套路を練るよりも五行を練るほうが楽しいし、生きてる感じがする。

それに言えることは
展開激しく複雑なものは誤魔化しがきくが、単純なものは誤魔化しがきかない。

しかも単純なものほど奥が深い。
毎回新たな発見がある。

私が伝統太極拳や伝統形意拳をこよなく愛する理由。

2017年5月15日月曜日

推手あれこれ

数えてはいないが今まで300人以上の相手と推手を行ってきたと思う。
初心者から達人級の方まで。

初心者と達人が明らかに違うのは、自己の制御だろうか。

初心者はまず自分から動こうとする。
そして力で対抗しようとする。

達人は自分から動くことはしない。
相手の動きにぴったり合わせる。
そして気づけばいつのまにか崩されている。

推手では専門用語で聴勁というが、まずこれを鍛えることが重要。
いわゆる相手を知るということ。

しかし相手を知るだけで聴勁が成り立つだろうか。

もっと大事なことは己を知ることだと思う。

推手を行うとよくわかるのは自分の癖で動こうとしてしまうということ。
これを相手に知られてしまうと相手の手中に収まることになる。

なら癖とはなんだろう?

癖とは無意識であり性格であり日頃の習慣。
それならその癖を出さないことはできるだろうか?

日頃の習慣を意識して変えていけば癖を変えることはできる。
しかしもっと手っとり早い方法がある。

無になること。
無は頭も体も完全脱力の状態からなる。
いくら体が脱力していても脳に力が入っていては無になることはできない。

無論、経験未熟な者が無になっても力を出すことはできない。
結局日ごろの鍛錬が必要ということ。
たくさん練習し、たくさん失敗し、たくさん落ち込むこと。

因みに落ち込むことが良くないことと思う方がおられるかもしれないが、
成長過程で落ち込むことは絶対必要。
〝上達したい”という気持ちが強いからこそ落ち込むのであって、
落ち込まないというのは現状に満足しているということだから伸びるわけがない。

話は変わるが、
今まで推手をしてきて一番おもしろいと思った相手は陳式太極拳。

楊式が静なら陳式は動だろうか?
解釈の違いがあると思うので具体的なことは割愛するが、
私の勝手なイメージで言えば、陳式が龍なら楊式は虎。

流派によって勁の使い方が違うのが実におもしろい。

2017年5月13日土曜日

静から動へ 動から静へ

私の太極拳人生は立禅から始まった。

始めてこの世界に足を踏み入れた時、
立禅がなんとも神秘的でどんな効果があるのだろうと、わくわくしたものだ。
あれから15年、今もなお立禅を続けている。

まず姿勢を整える。
太極拳のみならず武術の基本だ。

そして脱力。
そして瞑想。

ただ立っているだけなのに体の中に気が巡りだし、中からじわじわ熱くなってくる。
芯から温まるとは本当はこういうことなのではないかと思う。
そして体が妙にスッキリする。

風邪をひいて熱があがり、汗をびっしょりかいた後というのは体が妙に軽くなりすっきりする。
それを健康な状態で行うわけである。

立禅で得られる汗はスポーツなどでかく汗とは質が違う。
まず、汗をかいているのに全く呼吸が乱れない。
息切れしたり心拍数が上がることもない。
もちろん疲労感もない。
むしろ体がすっきりし軽くなる。

すべてはここから始まる。

私は10年目にして形意拳を本格的に始め、
そして15年目である今、八卦掌の修行を開始した。
八卦掌と言えど、今のところ型をやるつもりは全くない。
ただ、歩くだけ。
型を覚えるのはいつでも良いと思っている。

ここでの気づき。

正しく歩こうとすればするほど立禅の重要性に気付く。
やはり立禅は全ての基本なのだ。

太極拳でゆっくり動きながら気を練り上げ
形意拳で勁の流れを知る。
そして八卦掌で更にエネルギーを蓄える。

私の解釈は八卦掌は歩く立禅。
すなわち動禅。

歩きながら得られる風が心地よく、無心になれるのがいい。

2017年5月10日水曜日

逆らわない

先日から弟子の推手が変わった。
いきなりだ。

本人はずっと推手スランプなどと言って落ち込んでいたが
ようやく感覚を掴んだよう。

しかし、それは私がいつもいつも言ってきたこと。

結局ある程度やり込んでいかないと、
耳からは入っていても理解はできていないのだと思う。
私も今までそういう経験を何度もしてきた。
先生の言ってること理解しようとするが理解できない。

結局どうすればいいか?

いわゆる武術修行に近道などないということ。
基本からしっかり積み上げ、
うまくいかないことや失敗もたくさん経験しなければいけない。
失敗を恐れ、或いは負けることを恐れていては
いつまでもそこから前に進むことはできない。

落ち込んだり悩んだりすることも絶対必要。
私等数えきれないほどある。

私が推手を行う時何を思っているか?

それは、
な~~~にも考えないこと。

弟子は私が教えたことを見事に自分のものにしてくれた。
これがたまらなく嬉しい。
本人ずっと苦悩していただけに。

それにしても私が10年以上かかったことをわずか3年足らずで習得してしまうとは。

弟子といい、会員さんといい、皆素直なのだと思う。
推手も、学びも、決して逆らわない。

素直は無敵なり。

2017年4月25日火曜日

楊式刀

私が太極拳を始めた頃
太極拳に武器があるとは知らなかった。

楊式太極拳を必死で覚えている傍らで
先生や先輩方が木刀をもって楊式刀をされている姿に憧れた。
正直カッコいいと。

学生時代少しだけ剣道をやっていたので、
剣道とは明らかに違うその柔らかい動きにとても興味を抱いた。

それからというもの、
私は楊式刀がやりたいがために楊式太極拳を無我夢中で覚えようとした。
そのために当時通っていた近くの教室だけではなく、
先生を追いかけ遠く離れた教室にも通った。

1年が過ぎ、ようやく楊式刀を習える時が来た。
ところがそれからしばらくして
家の事情によりその地を離れなければならなくなった。

それだけに楊式刀への想いが強くなったように感じている。

新しい地に移り住んでからもずっと一人で楊式刀の練習を続けた。
先生の姿を思い浮かべながら、先生に近づきたい一心で。

そうこうしているうちに数年経ち
私はある目的を果たすため楊式刀で競技に出場することを決めた。

当時たくさんの先生方からアドバイスを頂いた。
本当にありがたいことだった。

その一方、私が教わった楊式刀とはどんどんかけ離れたものになっていった。

先生から教わった楊式刀に手を加えていくことに違和感を感じながらも
目的を果たすために来る日も来る日も練習を繰り返した。
そして私の楊式刀は教わったものとは全く違うものになっていた。

「自分ではない」
そのように葛藤しながら

自分を偽りながら
それでも必死で目的を果たそうとした。
大きな目標を叶えるため、
自分に与えられた仕事だと思って取り組んだ。

そうして、出場毎に着実に順位を繰り上げ
4度目で全国10位に。
成績も入賞レベルにまで達するようになった。
あと、0.01ポイントでメダルに届くまでになった。

しかし既に私は壊れかけていた。
心身共にボロボロになっていた。

競技で高得点を得るための過酷なトレーニングと、
それと
自分を偽ることに。

私がやりたかったことはこれではない

先生(今は師匠と呼んでいる)の楊式刀は、
足取りかろやかで力みのない柔らかい刀さばき
まるで風のようだった。
飾ろうとする意識など皆無にみえるほど、自然で、それがまた美しかった。

競技のために作り上げた楊式刀はもはや楊式刀ではなくなっていた。
演武している自分が嫌で嫌でならなかったし、
何度も吐き気を催した。

競技に求められる美しさはあくまでもつくり込んだ美。

前にも少し似たような話をしたが、
本物の夕焼けとCGで合成された夕焼けとどちらが感動するだろう?

やはり自然には敵わない。
人もまた、自然体が一番美しいと思う。

目的は果たせなかったが、
私はこれで良かったと思っている。

あのまま、メダルを取りに行こうとすれば、
私は自分の楊式に戻れない体になっていたかもしれない。
道を踏み外していたかもしれない。
そう考えるととても切なく恐ろしい。

入賞まで0.01という数字は、私を試させたのだと思う。
自分が本当になにをやりたいのか。

楊式太極拳において〝演技”しようとしたら、
それはもうすでに楊式太極拳ではない。

そうではなく内なる力に耳を傾けそれに従う。

その時に飾らない自然の美しさがにじみ出て来るのだと思う。

美を求めるのではなく、
本物を追い求めた結果が美となって表れる。
少なくとも私はそう考える。

***

今は存分に放鬆の世界を楽しんでいる。
肉体と心の疲れから解放され、体の中に氣が集まり始めている。

氣の正体

ようやく解った氣の正体。

約20年前
連日苦境にさらされ、その時に得た悟り。

が、諦めないで突き進むと
いつしか予知能力が身につく。

数分先、
数十分先、
数時間先のことが見えるように。

そして私を動かす私。

この時の状態こそ、無の状態。

無、
わかりやすくなると考えないこと。
もっとわかりやすく言うと
アホになること。

頭を空にし、
体を極限までリラックスさせる。
体の中をスカスカにする。
その空間に氣が入って来る。

この氣は人間以上のことを可能にする力を持っている。

今日は双辺太極拳を練る時、
可能な限り瞑想し、
そして可能な限り脱力した。
そこに自分を動かす自分がいた。

偉大な力を持つ氣を味方につけるには

体の中を空洞にすること

2017年4月17日月曜日

無名であれども

いかに著名な先生に習っても順序がある。
いきなり奥義を教えてもらえることはない。
奥義というものは本格的に弟子入りして何年も経ってようやく授かるもの。

師弟関係とはお互いのことを知ることが必要だと思う。
弟子は師を理解し、師は弟子を理解する。
それによって、その都度必要なことを授け授かっていく。

お金を払えば教えてもらえるというものではないと思う。
また、お金を払ったからと実力が上がるというものでもないと思う。

一番大切なのは「絆」だと思う。

私の師は決して著名な先生ではない。
しかし実力派の先生であることは確か。

楊式太極拳の本当の凄さを教えてくださる。
あの静かで柔らかい動きの中に無限の力が秘められているということを体で感じさせてくださる。
そして、なにより遠く離れた私のことをいつも思っていてくださる。

出版物を出しているとか、
直系の先生であるとか、
競技会等の優勝者であるとか、
私にとってはあまり関係ない。

決して見せかけではなく本当の実力。
長年かけて築きあげられた絆。

私にとって最高の師であり、たった一人の師である。

2017年4月13日木曜日

競うべからず

太極拳は自分と家族の身を守るために編み出された禅を取り入れた武術。
人と競うために生まれたのではない。

伝統太極拳は体を養い活力が得られる。
競技太極拳は体を酷使し疲労がたまる。

同じ太極拳なのに、そのベクトルはまるで正反対。

伝統太極拳に出会い、伝統だけで鍛錬していた時は、
疲れ知らずの体を得た。
しかし競技に出場するようになり、肉と骨が悲鳴をあげ出した。

練習すればするほど体の中は疲労物質で充満し、
どれだけ栄養をとっても、どれだけ寝ても疲れが癒えることはない。

健康を取り戻し長生きしようと思って始めた太極拳。
このままでは寿命を縮めてしまうと危機感を感じた。
(長年予防医学を勉強し続け、様々な実体験もしてきた私の中での直感です)

そして今は気功中心の太極拳に立ち戻り、すっかり調子を取り戻した。
病気しない、怪我しない、
難病を克服し、怪我の治りを早めることのできる気功太極拳。

競わないということで言えば、推手も同じ。
競おうとするとうまくいかない。
簡単に崩されてしまう。

競うのではない。
許す。
受け入れる。

これにより心がゆるみ身体がゆるむ。

これは単に技術的なことだけを言っているのではない。
人間性も変わってくる。

競うことで生まれる優越感と敗北感。
このギャップにより決して良いとは言えない気を感じてしまうのは私だけだろうか?

太極拳はいわゆる武術なのかもしれないが、私は武道だと思っている。
術ではなく道。
生きる道であると。

2017年4月11日火曜日

揺れる立禅

当会では立禅を重視している。

理由を一言で言うなら、
太極拳を太極拳として完成させるため。

套路で壁にぶつかる。
動きが安定せず、柔らかい動きができない。
その時に立禅に重要性に気付く。

推手で壁にぶつかる。
打てない、いなせない。
その理由もまた正しく立てていないからということに気付く。

散手で壁にぶつかる。
技がかからない。
その理由もまた沈んで立てていないからということに気付く。

逆に考えれば立てなければ動けるわけがないし
動けないものが崩したりいなしたり技をかけたりなんてできるわけない。

脚が開くようストレッチをするのもいいだろう。
高く飛べるよう筋トレするのもいいだろう。
しかし私は立禅をする。

站椿功という言い方もあるが、当会では立禅と呼んでいる。
站椿功は杭のように立つという意味だが、立禅は禅だからだ。

立つだけの練習なら、テレビを見ながらでもできる。
しかしそれで本当に効果が上がるだろうか?

気の存在を信じる信じないは別として、
体に気を自在に通すことが出来るようになると
腕の重さや硬さを自在に変えられるようになる。
気功で鍛えた腕に触れてみればそれはすぐにわかる。

気を通すためには邪念があっては駄目。
頭を空にし、気を静めることで始めて体の中を流れる気を感じることができるようになる。

木の幹に耳をあてて水が流れる音が聞こえると言う人がいる。
そのためには邪念があっては駄目だろう。
耳を澄ませ木の中に意識を送り集中しなければいけないだろう。

そんな風に自分の体の中を流れる気を感じる。
立禅はただ立つだけの鍛錬ではない。

因みに立禅で大事なことは、姿勢を整え、息を整え、意識を整える。
傍から見るとじっとしているようにみえるがじっとしようとしてはいけない。
それは立禅ではない。

じっとしようとすること自体力んでいるわけで、気の流れを妨げる。

その逆。

二輪車で倒れず静止しようとする時ハンドルを小刻みに動かしバランスをとろうとするように、立禅でもそれは同じ。
静止しているかのように見える独楽も実際は回っているのだ。
止まってはいけない。

姿勢を正しながら立っていられる極限まで体をゆるめていくと、自然とゆらぎを感じる。
そのゆらぎに対抗しようとせずにそのまま受け入れる。

これによって〝何か”が変わってくる。

その何かとは、套路であり、推手であり、散手だ。

当会では、気功、套路、推手、散手は四輪車のタイヤだと思っている。
ひとつが欠けてもその車はうまく走れないように
太極拳も太極拳として完成することはない。

このようにして、禅を行うことが強くて健康になれるということ。
少なくとも私はそう信じ修行を続けているし
そのおかげで長年健康を維持している。

2017年4月9日日曜日

太極拳は鬱病を克服できるか?

誰も信じてくれないのだが、私は人前で話をするのが苦手。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、人前に出るとどうにもうまく言葉が出てこない。
人と目を合わせるのが恐く、うまく話せずついつい噛んでしまう。

私がこんなふうになってしまったのには理由がある。

IT革命が起きた1999年
当時私は毎日100人以上の人と接し、
大勢の前で講演したり、
スピーチしたり、
司会を務めたこともある。
場を和ませたり盛り上げるための言葉が果てしなく湧いてきて、
どうにも止まらないほどだった。

今思えばあれは私ではなかったような気がする。
何か強大なエネルギーの塊のようなものが私の中に入ってきて、
そのエネルギーがそうさせていたような感覚だった。

辛いことから逃げ出すのではなく、どんなに辛く悲しくともめげずに立ち向かって行けば、人間、自分を超えた能力を発揮できるようになる。
そのことは当時とても実感した。

しかし、私をこんなふうに変えてしまったのは、良くも悪くもIT革命。
私はITによって地球環境を変えようと決め、まず最初に行った行動が、家から出ないこと。
理由は家から出ると無駄なお金を消費し、しかも移動のために車や電車を使うと公害を発する。
それを抑えるために私は家から出ないと決めた。

そして私は家から一歩も出ずしてかつての2倍の収入、いや1か月で100万円近く稼いだこともある。
今もYouTubuなどでそのような収入を得ている人がいるようだが、私は18年前にそれを経験していた。

確かに私は無駄を一切省き地球環境に貢献したし、十分な収入を得た。
灰色だった空と海がかつての青さを取り戻し、自然を取り戻した。

皆、戦後から20年前までの日本がどのようなものだったか覚えているだろうか?
今は中国の公害がよくとりあげられるが、当時は日本がそうで、公害大国ニッポンと呼ばれたほどだった。
海も川も空も汚染され酷いものだった。

当時私のしたことは微々たることだったのかもしれないが
少なくとも私は2万人の組織でITを促進させるリーダーとして活動した。

しかし、それと引き換えに私は心の病にかかってしまった。

家から出ないということは人と合わないということ。
かつて毎日多くの人と接し輝いていた自分はその光を失い暗闇の世界へ。
街で合う人すべてに笑顔で声をかけることが出来たのに、それが目も合わせられないほどに。
そして次第に人を避けるようになっていった。
体力はどんどん衰え、毎日起こるとてつもない頭痛。
腰痛肩こりも酷く、外に出ると5分も歩けない程体力が衰えていた。

さすがに危機感を感じた私は心の向くまま近くの図書館へ。
そこで目についた本をぱらぱらっとめくってはっとさせられる一文が目に飛び込んだ。
「心と体は繋がっている」というような一節だった。

私は部屋に引きこもり体を動かさなくなってしまったから心も失ってしまったのだと気づいた。
その足で私は近くの公民館へ。
なにか体を動かすことをしなければと。
そこで目に入ったのが太極拳サークルのポスター。

これが私が太極拳を始めるきっかけになった。

サークルの人達は温かい人ばかりだった。
先生もやさしい方だった。
そして今教わったばかりなのに、起勢から先をどうしても思い出せずひとりもがいていた自分がいた。

それから約15年
今は約70人の会員を指導するサークルの代表になり毎日指導を行っている。
確かに私は15年前の自分から比べると変わった。

しかし、まだかつての自分を取り戻していない。

とにかく、恐れず怖がらず皆の前に立って指導しようと。

かなり良くはなってきているが、まだ完全でなはい。
だから鬱病を完全に克服できるかどうかは私にとってのテーマ。
いや、もしかしたら鬱病ではなくかつての自分とのギャップに苦しんでいるだけなのかもしれない。

いずれももう一度あの光を取り戻したい。
そのために修行あるのみだと思う。

2017年4月8日土曜日

稽古着は体の一部

昨夜の形意拳クラスでの稽古は異様に暑かったので上着を脱いで稽古した。
多分、私が半袖で指導するのは4年ぶりだと思う。

なぜ当時、稽古着を着ずに半袖や長袖のTシャツを着ていたかというと、
私はまだ講師ではなく皆と共に太極拳を楽しむ仲間なんだという意識だったから。

皆と接する時も講師というプライドを盾にするのではなく
共に太極拳をする仲間という感じで皆と接した。

私がそんなだったから、親しく接してくれる人もいれば、
それを逆手にとって横柄になる人もいた。
態度が悪いだけならまだしも、周りを巻き込み、悪い空気を振り撒こうとした時はさすがに呼び出してそのことを本人に注意した。

注意すると言っても私は感情的になることはない。
きちんと相手が理解できるように丁寧に説明しながら話した。

それでも逆ギレされ私の元を去って行った。
私はこれも縁だと思っているし、勉強だとも思っている。
態度は悪かったがその方々のお陰で今の私があり、今のサークルがあり、そして今の仲間と巡り合えた。
その方々には心から感謝の気持ちを述べたい。

ところで、私は今は常に稽古着を着て指導をしている。
これが私の仕事着だからだ。
スーツを着たり、白衣を着たり、作業着を着たり、
どの職種にもその仕事に適した服装や制服がある。

私は先生の稽古着に憧れ
10年間Tシャツとトレパンで下積み稽古を行ってきた。
いずれ先生のように稽古着に身を包み、カッコよく指導出来るようになりたいと夢見てきた。
(正確に言えば、演武服の商売をされている先輩にモデルになって欲しいと頼まれ、一時期稽古中その演武服を着ていたことはあるが)

だから、私にとって稽古着を着るのはそれまでお預けにした。
いずれも先生と同じものを着るわけにはいかない。
私は生徒であり、先生に教えを乞う立場だからだ。

昨夜はTシャツ一枚でで稽古していたが、暑さも感じなくなったのでまた上着を着た。
するとある会員さんが、出来れば上着を脱いで欲しいと。
手の動きが見たいからだということだった。
頑張っている生徒の頼みとあらばと、ひとまず要望に応えた。

しかし稽古着は私にとって仕事着。
着るとスイッチが入り誠心誠意指導しようという気持ちになる。
だから今後は脱いで欲しいと言われても多分脱がないと思う。
(要望に応えられず申し訳ないが・・)
やる気スイッチが切れてしまうからだ。

それに稽古着は私にとって体の一部。
刀や剣と同じ。
身に着けているものや手にする物には魂が宿る。

以前、飛び込みの営業の仕事をしていた時は、
ビシッとスーツに身を固め断られても断られてもめげずに頑張って営業を続けた。
そして遂には1日に10件以上の契約がとれるほどまでになった。
社長がとても驚いていた。無論会社では営業成績1位だった。

だから仕事をする時の服装はとても大事だと思う。
稽古着は私にとってそれほど大切なもの。

2017年4月1日土曜日

黙念師容 

黙念師容(もくねんしよう)
中国語読みすると、ムーニィェンシーロン

意味は、先生の動きをしっかり見て脳裏に焼き付けておくこと。

私が太極拳を始めたばかりの頃、一番意識したことだ。
その頃は黙念師容という言葉も知らなかったが。

ただただ私は師匠のように動けるようになりたかった一心で、
師の動きを観察しまくった。
休憩中も師匠の動きを観察した。
お陰で、演武だけではなく師匠の癖まで似てきてしまった。
無論それも嬉しいこと。

自慢ではないが、師匠の動きが変わるとそれをいち早く察知したのは他の誰でもなく私だったと思う。

私は師匠を真似たというより、
師匠を自分と思い込みイメージして一緒に動いていた。

そして今も師匠に稽古をつけて頂く時、
稽古の初めから終わりまでひたすら師匠の動きを観察する。

一度の稽古で、太極拳、心意拳、八卦掌、武器術、推手、散手、対打、暗勁練習等・・
あまりにも稽古内容が多く、正直付いていけないし、頭にも入りきらない。
だが、最後まで見ることを止めることはしない。
とにかく必死で師匠の動きを頭に焼き付けようとする。

そして、家に帰ってから師匠の動きを思い出しながら真似てみようとする。
これが割と出来てしまうのだ。

これは決して私の見る力や覚える力が長けているからではない。
幼いころから暗記は大の苦手だ。
ただ、見ようとする力が長けているだけ。
これは能力ではなく努力だと思う。

ほとんどの人がある程度動きを覚えると先生の動きを見なくなる。
自分は出来ていると錯覚してしまうのだ。
ここからが我流街道の始まり。

武術の道からどんどん外れていくことになり、
ちょっとしたズレでも時間の経過と共にそのズレはどんどん大きくなる。

自分で套路の練習だけをしていると余計に危険。
套路だけではズレていることに気付けないから。
そのために稽古という場が提供されている。

推手をして、姿勢の悪さや力みに気づき、
散手をして、技が掛からないということに気付く。
技の使い方ではなく、その技が本当に生きるかどうかということ。

だから、私はこれからも黙念師容を続けて行こうと思っているし
師匠に自分の演武を評価してもらおうなどとも思わない。
(というより見てももらえないのだが・・)

ただただ師匠についていくのみ。

2017年3月17日金曜日

引力で戦う太極拳

双辺太極拳は引力を最大限に使った武術だと思う。
逆に言えば引力が弱くなる水中や宇宙空間ではどうなのだろう?
恐らく双辺ならではの勁力を使うことはできないだろう。

双辺太極拳ではほとんど力を使わない。
水が上から下へ落ちるように、
滝のように打つ技が多い。
だから私は〝水の太極拳”と呼んでいる。

いずれも力を使わないから全く疲れない。
先日も弟子に稽古台になってもらい、ほぼ2時間ぶっ通しで技をかけまくったが
息一つ切れることなく続けることができた。
無論、技を掛けられるほうはたまったものではなかったと思うが。。

もしこれが剛拳ならどうだろう?
鍛えられた肉体でもって素早い突きや蹴り、側転、宙転、跳躍動作・・
その動きは豪快で見ていて爽快。
正直憧れもした。

しかし40頃から始めた太極拳。
長拳を初めて知ったのは40代後半の時。
剣術と合わせてかなり練習をしたが、どうしてもキレの良い動きが出来ない。
というより、元々私は運動苦手で体力もほとんどなかった。
すぐに息切れし、呼吸困難に陥り、
わずか1~2分の動きでも意識朦朧となり体が動かなくなってしまった。

しかし太極拳なら何時間でも戦っていられる。
しかも相手に大きなダメージを与えることもできる。
これほどエネルギー効率のよい武術もなかなかないと思うし、エコ時代の今にぴったりの武術だとも思う。

ところで地球の力と言えば引力ばかりが取り上げられるが上へ引っ張られる力もある。
地球は自転している。
時速約1700㎞もの猛スピードで回っている。
当然遠心力が働く。
もし地球に引力がなければ、地球上にあるすべてのものは空に舞い宇宙に放り出されてしまうことになる。

いわゆる引力と遠心力のバランスで地球上は成り立っているということになる。
この力を自在に操るのが〝気”であると私は解釈する。

イメージによって気を自在に操り、引力の強さや遠心力の強さをコントロールできるようになる。
これは私が日々の鍛錬の中から自然と感じたこと。

どうしてもっと軽いはずの腕がそれ以上に重く感じるのだろう?
どうしてもっと重いはずの腕がそれ以上に軽く感じるのだろう?

ある時は鋼鉄のようになり、
またある時は煙のように気体になってしまう。

これは地球上に働く力を自在にコントロールしているということになると思う。
自分だけが感じる錯覚ではない。
これはきちんと相手にも伝わる。

やっぱり太極拳は面白い。
これは一生やめられそうにない。

2017年3月14日火曜日

アクションスター

アクションスターで言うとジャッキー・チェンが好きだ。
他にもアクションスターは大勢いるが、もう私の中ではジャッキーが断トツ。

なんというか、人間的に惹きつけられる。
映画だけでなく演技やアクションすべてにジャッキーの人柄ややさしさを感じる。

痛い時は痛いと言い、
敵に勝っても勝ち誇ったような得意顔をすることはない。
寧ろ、敵にも情けを持つ気持ちが伝わる。

映画監督、映画スターとしての才能も大変素晴らしいが、
やはりジャッキーの人間性に惹かれる。
すべてに愛を感じる。

こんな風に感じてるのは私だけではないはず。

ジャッキー・チェンの映画と言えば名作は数あれど、
私が一番嵌ったのは「ゴージャス」という割と古い映画。
とにかくおもしろい。
ジャッキーが最初から強くないのがいい。
なんといったらいいのか、アクションラブロマンスコメディーと言った感じだろうか?
あまりにも阿保らしくふざけ過ぎるシーンもあれど、
なのに最後は感動して泣けてしまう。

私が丁度太極拳を始めた頃の映画だ。


本当に強い者はそれを誇張したり自慢したり得意になったりしない。
決して飾ることなくあくまでも自然体なんだ。

私はそんな武術家になりたいと思う。

2017年3月6日月曜日

股関節に油をさそう

太極拳を始めたばかりの人を見ていて思うこと。
股関節の使い方が固い。

股関節が固いということが、どういうことなのかピンとこないかもしれないが、
股関節の可動域が狭く、
いわゆる、サビついて動きずらくなった駆動部のようにみえる。
(と一概には言えないが)
決して脚が開かないとか上がらないといったことではない。

股関節を柔らかく使えていないとどうなるかというと
曲げないで動こうとするから、動作がギクシャクするのはもちろん、
上体も傾き放題。
当然軸もぶれまくる。
足の伸ばさないといけないところで伸び切らず、
曲げなければならないのに曲がりきらない。

股関節をやわらかく使えていないと、とにかく太極拳の形にならない。
太極拳の形にならなければ、套路を行っても太極拳の動きにならず、
推手では簡単に崩されてしまい、
散手では技がかからないという結果になる。

とにかく何のメリットもないのだ。

股関節に油をさしてみよう。
もちろんそんなことは出来ないが、
先生の動きを見る時、手の動きばかりに気をとられないで体の使い方を見る。

真似ているはずなのに先生と同じ動きにならないのは手だけで真似ようとしてるから。
体丸ごと真似することが大事。

車は安定してまっすぐ進むことができる。
それはタイヤが丸く、
サスペンションとショックアブソーバーが縦揺れを最小限に抑えてくれるから。

自分の体を車に例えてみよう。
上半身を安定させるためには股関節、膝、足首を柔らかく使う。
太極拳の歩法は車輪の如く。

股関節は動かし過ぎても、動かさな過ぎてもいけない。
使い方を教わるより、技がどんなものであるか、
どのように使うか知ることで股関節に使い方を自然に学ぶことだできるだろう。

私はかつて先生方から股関節の使い方がダメだダメだと言われてきたが、
当時はなぜダメなのかさっぱりわからなかった。

でも、推手や散手をすればすぐにわかる。
論より証拠。
考えるよりやってみよう。ということだと思う。

2017年2月28日火曜日

当会が目指す表演

表演とはどういうものだろう?

美しい演武をするのが表演?
それともカッコいい演武をするのが表演?
あるいは派手な動きで人を驚かせるのが表演?

どれも素晴らしいし、
どれも表演だと思う。

しかし当会が目指す表演はちょっと違う。

言葉で言い表すのは難しいが、本当に純粋な演武。
ありのままの演武。
太極拳が太極拳であるがままの演武。

どういうことかと言うと、演じるのではないということ。
演じるというのはある意味嘘の世界。

私は音楽をやっていた関係で周りに芸術家は多い。
そして皆が口を揃えて言うことは芸術は虚偽の世界だと。
確かに絵の世界も映画の世界も現実ではない。

最近の映像技術は本当に素晴らしい。
技術の進歩のお陰で美しい映像を高画質で見ることができる。
CGの技術も素晴らしい。

しかし、どんなに美しくとも、それはあくまでもつくられたものであって本物ではない。
単に綺麗な映像を見て涙が出るだろうか?
しかし美しい夕日を見るととても感動する。

当会が目指したい表演このようなもの。

私は決して技術的なことをあまり細かく指導しない。
どちらかといえばメンタル的なことを話すことが多い。
どんなに発表会の時期が迫っていようとも、苛立った空気は決して出さない。
常に常に柔らかい空気をと考えている。

先ほども話したように
太極拳が太極拳であるがままの演武を目指したいから。

今回で3度目の発表会になるが、これまで行った発表会も大変素晴らしかった。
何故あれほど感動できたのだろう?

それはわからないが、
決して美しさを目指した結果ではない。
チーム全体が一丸となり、心がひとつになった結果だと思う。

2017年2月23日木曜日

生死の境で神力が得られる

当会で行っている気功、太極拳、形意拳はあくまでも伝統に拘っています。

勝手に編集したり、套路を組みなおしたり、
そういったことは一切しません。
発表会での演武は時間の制約があるので止む無く時間内に収めるよう編集はしますが。

いろんな考え方があるでしょう。
古いものより新しいもののほうがいい。
新しいものより古いもののほうがいい。

少なくとも私は後者です。

理由は時代が違うからです。
もちろん今の時代にあった武術を愛好家として楽しむのもいいでしょう。
表演も決して嫌いではありません。
人に感動を与えることができます。

しかし本来武術は人に見せるために生まれたのではありません。
戦の多かった時代、自分の命を守るため、家族を守るために作り上げられたものです。

人は命が掛かっていると鬼才を発揮します。
神力が得られます。
人間の脳を遥かに超える力と知恵を得ることができます。

逆をいえば今の平和な時代では決して生まれないものだったということになります。

歴史博物館ではないが、当時武術はこうだったと、
次の世代に伝えていくために、武術をあらゆる形で表現するのは大いにありだと思います。

しかし、本物の武術としては伝統武術を超えることは決して出来ないでしょう。
聖書を超える聖書を一から作れないのと同様に。

武術は神力によって生まれたものだと、
少なくとも私はそう思っています。

遅いは早い 止まるも早い

太極拳が最も早く上達する方法。

それは
ゆっくり練習すること。

そもそも套路とは鍛錬のために編み出された〝練習方法”
太極拳はゆっくり動くことで、
普段鍛えることの難しい遅筋を鍛え、
軸を鍛え、
丹田を鍛える。

脱力しながら動くことで体全身に気が巡り、気の体をつくりあげていく。

気は実に不思議な物体。

軽くもなれば重くもなり、
柔らかくもなれば硬くもなる。
意によって変幻自在な世にも不思議な物質。

ゆっくりであればゆっくりなほど、これらを作り上げていくことができる。

因みに、更にゆっくりにしていくと?
最終的には止まることになる。

これが站椿功。

逆を言えば套路は站椿功の連続動作。

この意味がわかれば、すべきことが見えてくるはず。

2017年2月21日火曜日

ビデオ学習について

当会では新しく習ったことを思い出す手掛かりとして
套路をいくつかに分けて動画を配信しています。

そして「動画はあくまでも復習用として使ってください」とその都度付け加えています。
逆を言えば予習には使わないでくださいということになります。

本当のことを言うとあまりビデオに頼って欲しくないという気持ちもあります。
なぜなら稽古中「あとでビデオを見ればいいや」という甘えが生じてしまうからです。

稽古に集中しなくなり、その場でしか感じることのできない肝心なことを見落としてしまうことになります。

武術はビデオからは学べません。
だからこそ私も教えながら師から学び続けています。
そして師から注意を受けることは決まってビデオでは学べないことです。

形は意から生まれ、意は形を作り出します。
形だけを見て意を学ぶことはできません。

むしろビデオは2次元。
2次元は現実ではありません。
現実でないものから現実を学ぶことはできません。

3D映画にしても所詮は2次元を重ねたもの。
横から覗いても横は見えません。

いずれもビデオを見る時
2次元で読み取れない部分を自分の頭の中で3次元に変換しようとするわけですが
そこに〝思い込み”が生じます。
その思い込みによって悪い癖を身につけてしまい
武術の功夫を高めていくどころか、体に支障をきたすことすらあります。

ビデオ学習して体調を崩したり怪我をする人は想像以上に多いです。

今やYouTubeなどで多くの情報を得ることが出来、便利な時代になりましたが
それで学ぼうとすることは危険です。
娯楽としてや参考程度に見るのであれば良いと思うが、真似事で武術を学ぼうとすることはおすすめできません。

師から学べることは3次元ではなく4次元。
形だけではない〝なにか”を感じ、
それを学ぶことができるのは直接師から学ぶ以外にありません。

偉そうに語ってしまいましたが
全て自分の経験や失敗から学んだことです。

2017年2月19日日曜日

1+1=?

小学校で初めて習う算数。
1+1

当然答えは2。
が、それはただ覚えてるだけの数字が出てきているだけで
この問題を出された時に頭の中で本当に計算した人がどれだけいるだろう?

だから答えは1+1=2ではなく、1+1=1+1なのだ。

今や計算は電卓やスマホで簡単に計算できる。
だから、なぜそうなるかと考えてもみない。
私は電卓が出回ってきた時代に便利だなと思ったと同時に不安も感じた。

インターネットもそうだった。
便利と引き換えにコミュニケーションや礼儀を知る機会を失い、
犯罪に利用する人も出て来ると。
結果は予想どおりになった。

私はインターネットを最大限に利用しているが、
その反面いつでもこの世から消えてなくなってもいいとも思っている。

そうすることで、人に道を尋ね、そのことで人のやさしさに触れたり、
手紙を書くことで心が通じあったり、
待合せの時間を間違えたりして、何時間もその場で待ったり。
その時に遅れた人は謝り、謝られた方は相手が素直な人であると知ることが出来る。
人と人が触れ合うことで人と人との絆が強くなる。
そういう古き良き時代が帰ってくる。

話は戻るが、武術の世界でも1+1=2だと覚え込んでしまい。
逆に2が1+1で構成されていると知らない人が増えているように感じる。

私がサークルを立ち上げた時、毎回最初の15分は座学を行っていた。
ホワイトボードをつかっていろいろと説明した。
その時毎回説明したことは、太極拳とは中国武術に気功(導引術)の要素を加えたものだと。
いわゆる武術+禅が太極拳なのだ。

しかしどうだろう?
今の武術は禅の要素が省かれ健康体操やスポーツ、あるいは舞踊と化している。

そもそもなぜ太極拳を始めたのだろう?

私が太極拳を始めたのは確かに健康づくりだが、
私が一番知りたかったのは「なぜその時に太極拳を選んだか?」だ。
別にその時でなくても良かったはずだ。
10年後でも20年後でもよかったはずだ。
しかしなぜあのタイミングだったのだということ。
しかもなぜ数ある選択肢から太極拳を選んだのかということ。

この答えを見つけ出すことこそが人生であり
自分が生まれてきた意味だと思う。

太極拳をどのように楽しもうがそれは自由。
しかし、私はあえて伝統太極拳を推進していきたい。

インターネットによるスマホやパソコン、あまりにも便利なものが増えすぎて
人生とは?と考えることなどなくなってしまうのではなかろうか?

そうなって欲しくない。
なぜこの時代に生まれてきて、
なぜ自分が自分として生まれてきて、
なぜ今これを行って、
そして、どこに行こうとしているのか?

生きている間にその答えを見つけることこそが人生の目的だと私は思う。

意味なくして生命は生まれない。
意味があって生まれてきている。
偶然ではない。
宇宙に法則に従って、生まれてきた。

当会が稽古の時に気功と太極拳を分けて行う理由はそれ。
立禅である気功と、動禅である太極拳を行うことで、太極拳が誕生した意味を知ることになる。
本や誰かから得た知識ではなく。

私が感じるのは人類愛。
これ以上話し出すと止まらなくなるので今回はこの辺でやめておく。

ひとつ言えることは
太極拳は相手にとって憎しみをもった自分が映し出される鏡になるということ。

弟子とは

私には今二人の弟子がいる。
ふたりとも自分から弟子にして欲しいと志願してきた。

弟子だからと言って特別扱いはしない。
むしろ弟子だからこそ厳しく接している。
「泣くな」「落ち込むな」「痛がるな」「諦めるな」「自分を信じろ」
いつでも腹を割って話すようにしている。

最初、私に申出てきたとき、
「私なんかで良いのか?」
という気持ちが強かった。

まだまだ修行中の身だし、学ばねばならないことだって山ほどある。
教えられることだってほとんどないし、
世の中には有能で素晴らしい師が大勢おられるのに何故私などに?と。

しかし、二人とも私のことをこう言ってくれる。

表現こそ違うが、
私の武術に対する姿勢や、努力し続けるところに惹かれたと言ってくれる。
又は、自分がずっと追い求めていたものを持っている人が私だとも言ってくれた。
運命的な出会いとも言ってくれた。

その言葉に嘘はない。
目が違う。

今の私はまだまだ未熟そのものだが、
こんなことまで言ってもらえて、断ることなどできるはずがない。
ただただ、弟子たちの期待に応えられる師になれるよう努力しようと。

弟子達は常に私の考えに同調してくれ、
困っている時は協力してくれ、
足りないところを補ってくれ、
そして、些細なことでもお礼の言葉を欠かさないし、
叱ればすぐさま心から謝ってくる。
そして、私の最期を看取ってくれるとも。

私ごときがまだ弟子をとる身分ではないが、
あえて言うなら、
私が選ぶ弟子とは武術の実力云々ではなく、やはり人間性。

どんな時でも私の考えに付いて来てくれる。
これほど心の支えになるものがあろうか。

私はこれまでのブログに何度か書いてきたが、
お礼と謝罪が出来ない人、言い訳をする人とはお付き合いしたくない。
こういう人は頑固で石頭で自分を変えようとしない。
自分を変えようとしない人が武術の腕をあげられるわけがない。

言い訳にやたら時間をかける人がおられるが一体なんのメリットがあろうか?

逆に言えば、私はお礼とお詫びが出来る人、
努力する人を大いに好む。
頑張る人が好きなのだ。

逆に、自分を認めてもらおうと小細工をしてきたり、
裏から手を回してきたり、
自分が人より優れているところをやたら誇張してみたり、
そういう行いはすぐに見破ってしまうし、
このような人は出来る限り避けたい。

心が澄んでいれば汚いものをすぐに感じとってしまう。
これも気功の効果だと思う。

私は必ず人を選ぶ。
来るもの拒まずではない。
来るものを徹底的に選んでいる。

選ぶことは私にとって一番大事な仕事。
もし少しでも選択を誤れば自分の人生を転落させてしまうことになるだろうし
道連れになる者も出るだろう。

大袈裟と言われるかもしれないが、
選択することは私にとってそれほど大事なこと。
決して私は安易に人を選んではいない。

父が最も大事なことは「選ぶこと」と教えてくれた。
そして私もまた半世紀以上あらゆる経験を積んできてそのことが一番大事だと知った。

2017年2月16日木曜日

見せる武術と見せない武術

見せる武術と見せない武術がある。

私は今見せない武術を重視している。
というより、はっきり言ってしまえば今はそれしか興味がない。

これが14年間修行を行ってきて行きついた答え。

見せる武術とは、人に見せて評価を得ようとするもの。
そのため派手な動きが多く、様々な技を駆使し、見るものを圧倒させようとする。

それを行うためには大きな身体能力が求められ
筋トレやストレッチで徹底的に体をつくりあげていく。
そして中には体を壊してしまう者もいるのも事実。

ここで疑問。
武術に怪我はつきものなんだろうか?

私の考えはこう。
本当の武術は怪我しない体をつくっていくことが目的で、
例え怪我をしても自分の力だけで治していく力を身につけるもの。

以前、車のドアに指を挟んでしまい、内出血で指を真紫にしてしまったことがある。
しかし1時間後には紫がピンクになり、2時間後には肌色に戻った。
私はこれが武術だと思っている。

因みに見せない武術とは、人に見られる見られないとうことではなく
自分の動きを読まれてはいけないということ。
本当の武術では動きを読まれること=死を意味している。

キャッキャ飛び回ってる猿と、じっとしている虎とどちらが怖いだろう?
私なら動かない虎には近づきたくない。

子供の頃、飼い犬に噛まれたことがある。
まったく何の前触れもなかった。
大人しくしていると思ったら、いきなり牙をむき出し猛烈に吠えたて顔を噛みつかれた。
あれ以来私は飼い犬であろうと犬が怖い。(そのようなそぶりは見せないが)

見せる武術と見せない武術の違いは、無論、内向重視の鍛錬を行っているかどうかということになるかと思うが、それよりも明らかに違うのは止まる動作。

見せる武術は定式で止まる。
見せない武術は過渡式で止まる。

※定式とは技を決めた瞬間で、過渡式とは定式と定式の間の動作

本当の闘いの場において、定式で止まるなどしたら、それは相手に自分の命を預けるようなもの。
定式とは攻撃した瞬間であり、太極拳などの内家拳では、その状態が一番不利であると教わる。
攻撃するということは相手に手や足を差し出すことであり、内家拳にとってはこれほどありがたいことはない。

先ほど見せない武術では過渡式で止まると言ったが、実際は止まるのではなく溜める。
発勁する前の溜める動作。
たっぷり充電してから、気を発射する。

だから私の太極拳や形意拳は見せる武術の動きとは真逆になっているはず。
定式で止まることはほとんどない。
師匠の動きがまさにそれで過渡式が非常に長い。

武術といってもその楽しみ方は千差万別。
いろんな武術があっていいと思う。

しかし、自ら怪我をしてしまうような武術はどうだろう?
私のような若輩者が口を出すことではないが、それは間違っているといことに気付いて欲しいと思う。(健康志向の強い私として)

やればやるほど健やかに丈夫な体になるのが武術だと、
私はそう思う。

2017年2月15日水曜日

褒められない!

私が約2年間制定拳を習っていた時、
その先生は一度も私を褒めてくださったことはなかった。

正確に言えば一度だけ褒めて頂いたことがあった。
「脚上がるようになったね」
それ一言きりだった。

当時は褒められたい一心で、来る日も来る日も我武者羅に練習した。
本当に狂ったように練習した。

そして、出来なかったことを出来るようにし、それを先生に見せるのだが
何も言ってもらえなかった。
そして2年目にきて遂に私はやる気を失ってしまった。

しかし、その時に得られたものは非常に多い。
あの頃の自分があるからこそ今の自分がある。

今思えば先生には私の性格を見抜かれていたのだと思う。
私の欠点は褒められると調子に乗ってしまうことだから。

後で聞いた話だが、
私のいないところで先生は私のことを頻繁に話題に出し、褒めてくださっていたのだそう。
出来ないことを次にはきちんと出来るように練習してくると。

そして今教える立場になって、ようやくその気持ちがわかった。

意欲的な人、出来る人にはついつい期待してしまう。
だから褒めている暇がないのだ。

まだ行ける。まだ行ける。
という気持ちがあるからどんどん課題を与える。

だから、私はこう思う。
無言こそ最高の誉め言葉だと。

課題を与えられるということは期待されているということ。
それだけ買ってくれてるということ。

因みに私は嘘はつけないタイプ。
出来ていれば出来ていると言うし、
出来ていなければうーんと唸ることになる。

因みに唸るのはどうすれば出来るようになるか考えているから。
この時私の頭の中は大忙しになっている。
単に言って聞かせるのではなく、私がどうアプローチすれば理解が深まるか。
それを考えている。

相手を変えたければ自分が変わること。
これは数多くの失敗から学んだこと。

常につねに良い指導をと思う。

2017年2月5日日曜日

このような人は伸びません

お礼を言わない人
謝らない人

このような人は伸びません。

人の立場に立って物事を考えられない人は自己中心的な人です。
自己中心的な人は自分が変わろうとせずに人を変えようとします。
自分が変わろうとしないということは伸びないということです。

これまで数多くの方と接してきましたが、
お礼を言わない人、謝らない人で
人並み以上に上達をする人をひとりも見たことがありません。

人を傷つけたり不快な思いをさせても平気な人は武術をやる資格ありません。

だから当会では会則にそのことを設けています。

人として生まれてきたのなら人を大切にするのは当たり前。
人は支えあって生きているのだから。

もしなかなか上達せずに悩んでおられるのであれば、その原因はあなた自身にあります。

あなたは素直ですか?
人の立場にたって物事を考えられる人ですか?
武術と礼儀は関係ないことだと思っていませんか?

実は一番大事なことであり、礼儀は相手のためだけでなく自分のためでもあるのです。


善い行いは人に喜びを与え、やがて自分にも返ってきます。
悪い行いは人に悲しみを与え、やがて自分にも返ってきます。

太極拳を通して身体と心を同時に磨いて欲しいと願います。

2017年1月28日土曜日

最近のあれこれ

今日で140回達成。
目標は300回。

体のコンディションを調整しながら行っているので目標達成は難しいだろうか。

しかし、当時の私はこんなものではなかった。
競技太極拳の頃はそのために1000回は練習した。

地獄のような練習プログラムを自分で組み、それを毎日こなした。

会う人会う人が応援してくれた。
周りすべてが良い人ばかりだった。

とはいうものの中には冷やかす者もいた。

が、何を言われようが関係ない。
自分が決めたことは最後まで全うするのみ。

嫌がらせを受けたこともあるが、そんなことで動じることもない。
気が済むだけやればいい。
時間を無駄にするだけのこと。

今日、練習中にある人と会ってしばらく話し込んだ。
某連盟で太極拳三段の方。
とてもきさくで良い方だった。

何度も私の動きや姿勢、軸のことなどを褒めてくださる。
自分の中ではまだまだなのだが。

あまり自分では意識してないのだが、
思えば私が以前通っていた道場では先輩方全員姿勢が良かった。
まずそれに驚かされた。

その姿勢の良さが一番如実に表れたのは推手の時だった。
圧倒的に強い。

姿勢が良いと強いということを知った。

そんな先輩の後姿を見て私も頑張ろうと思った。

話は戻るが、
今日、練習を終えクタクタになって自宅に帰る途中、道端で弟子のFさんに会った。
私と目が会うなり、直立姿勢で包拳礼。
Fさん、とてもいい目してた。

良い弟子と出会えたと思えた瞬間だった。

弟子の期待に応えるためにも更に頑張らねばと。

因みに、私が主催する会は、良い人ばかり。

陰で人の悪口を言う人は一人もいない。
露骨に無視したり、
嫌がらせや意地悪する人も一人もいない。
無論、派閥もない。

というより、そういう人を私は許さない。
武術家以前に人間として失格。

皆、お互いを認め合い、称え合い、励まし合い、助け合い、そして一人一人が陰で努力している。

本当に理想的な会だし、
皆のことを誇りに思う。

2017年1月25日水曜日

発勁如虎

「はっけいじょこ」

読んで字のごとく発勁は虎の如くという意味。

今年に入ってから打ち始めた形意拳。
十二形拳、閃電手、その他諸々。

やればやるほど心地よい疲労感と爽快感。

そして肩がどんどん軽くなる。
気功体操をするより今の私は形意拳のほうが体がほぐれる。

崩拳を打ち出す前、
パワーを溜める。

これを蓄勁という。

天地と一体化し、パワーをチャージする。
フル充電状態になったら一気に下腹(あたり)から打ち出す。
この打ち出す感覚が実に気持ちいい。

拳が大砲の弾のように発射され、
それに腕が付いていくかのよう。

形意拳をやり込むと、脱力の重要性がもっともっと分かるようになる。

拳は打つものではなく、打ち出されるもの。
虎が一気に獲物に襲いかかるように。

放鬆することは武術的に大切なことだが、
それよりなにより、放鬆は気持ちいい。

肩のこる武術から離れ、今はそれが何より楽しい。

2017年1月23日月曜日

心が支配する勁力

勁は気によって作り出される力。

そして気を生み出すのは意。

その意を生み出すのは心。

心が意を生み、
意が気の流れをつくり、
その気が勁を生み出す。

勁力を強くするには心を強くすること。

その心を鍛えるにはどうすればいいのだろう?

鍛錬しかない。

日々鍛錬。

当会で行っているのはそのための、気功であり、套路であり、推手であり、散手。

単に筋力を強くしたいなら筋トレをすればいい。

しかし勁力は違う。

筋トレではなく心トレ。

心を鍛えるために鍛錬を行う。


因みに勁力というのはなかなかの厄介者。

筋力は安定しているかもしれないが、
勁力は心が支配しているだけに、その時の心の状態に依存する。

辛いことがあっても、
うまくいかないことがあっても、
くよくよしない。

常に自分の可能性を信じ、一歩一歩前進あるのみ。

一個一個積み上げたものは簡単には崩れないし、強固なものになる。

大事なことは信じること。

信念山をも動かす。

焦りは禁物。

日々鍛錬しかない。

2017年1月21日土曜日

今という時間は二度と帰ってきません。

後で後悔がないよう。

今を大切に生きる。

当会は常に進化しています。
その進化の過程を共に楽しめるのは今。

それでもあなたは映画の結末だけを観たいですか?

今を大切に。

2017年1月18日水曜日

無こそ最強なり

今日、弟子の前で形意拳のある套路を披露した。

しかし自己採点は決してよくない。
そしてその良くない原因もわかってる。

それは、
いいところを見せようとしてしまったこと(笑)

私もまだまだだなと思った。

いいところを見せようとすること自体が
禅でもなければ武術でもなくなっている。

良い時の自分は、何も考えていない。
自分の身に自分を任せている。

無極式(直立状態)から三体式(形意拳の構え)に入る時、
無の状態でならなくてはならない。

私の感覚で言うなら、
無極の状態から太極に入る時にふわーっと自分の体が気化するような感覚になり、
広げた手を下ろしていくと、またスーッと気化した体が元に戻り、
それと同時に゛なにか”が体に入ってくる。

後はその体内に入ってきたものに、やりたようにやらせる。
私の体を使って。

もし出来ない動作があったとしたら、それは練習しかない。
なりたい自分に従い、それを克服する。
そしてそれが出来る自分になってあげる。

その何者かのために。

だから、演武と言うものは立った時に決まるといっても過言ではない。
少なくとも私の中では。

決して、カッコいいところを見せようなどと思わないこと(苦笑)

演武が始まればわかる。
人間の域を超えない力任せの演武になるから。

繰り返すが、
無にならなければ、そのパワーは入ってこない。

競争心、闘争心、虚栄心、
こんなものはゴミ箱行き。

こんなものを持っていると折角のパワーが入ってこない。

無こそ最強なり。