2016年7月26日火曜日

2年かけて6式まで覚える

当会にとても熱心な会員さんがおられます。
正確な年齢は知りませんが恐らく80歳近い方だと思われます。

当会に通い始められて丁度2年になりますが、
なかなか覚えられないと苦悩されながらも、それでも欠かさず毎週通われます。
そして毎回お礼のメールを頂きます。

その都度私は
「日増しに良くなってきているのでこれからも是非頑張ってください」
とお返事します。

伝統楊式太極拳は以下の順で覚えて行きます。

1.起勢(きせい)
2.攬雀尾(らんじゃくび)
3.単鞭(たんべん)
4.提手上勢(ていしゅじょうせい)
5.白鶴亮翅(はっかくりょうし)
6.楼膝拗歩(ろうしつようほ)

Kさんは2年で6つの型まですすみました。

確かにどちらかといえばゆっくりペースでしょう。

しかし、武術の世界には「不怕千招会、就怕一招精」という諺があります。
千の技よりも一つの技を極めた者の方が強いという意味です。

だから6つも覚えれば十分なのです。

元々、太極拳は攬雀尾(らんじゃくび)から出来たという話を聞いたことがあります。
逆に言えば攬雀尾(らんじゃくび)だけでの十分戦えるということになります。

たくさん技を覚えたからといって、それらすべてを駆使できるわけではありません。
確かにカンフーアクション映画を見ていると、様々な技が飛出し派手な戦いが延々と繰り広げられますが、
あれはあくまでも映画の中での世界です。
少なくとも私が教わった太極拳の戦いは一瞬で終わります。

武術としてでなくとも
健康法としても、起勢を延々繰り返すというのも良いし、
攬雀尾を繰り返すというのも良いです。

覚えられないことを悲観することなんて全くありません。
一つの技を極めてこそ達人なのですから。
それに、気功と太極拳を行っているだけでも、内外共に体は若返っていきます。

その証拠にそのKさんは、姿勢がとてもよくなってきました。
熱心に稽古に通われ、どんどんスリムになられている会員さんもおられます。

どのような形でもいいのです。
とにかく太極拳を楽しんで欲しいと思います。

2016年7月23日土曜日

太極拳はどこを使って戦う?

私が始めて師の太極拳の演武を見た時、
それはまるで踊っているように見えとても武術には見えなかった。

私が思った疑問は、「一体どこをどう使って戦っているんだろう?」と。
いわゆる技が全く見えてこなかったわけです。

一番最初に習う起勢にしても、
次に習う攬雀尾にしても何をしているかさっぱり解らなかった。

人間は経験していないことはわからないのである。(当り前のことだが)

しかし実際師に技を掛けてもらうと、何が何だかわからないうちに飛ばされていたり床に叩きつけられたりしている。

この時に太極拳への興味が大きく膨らんだ。
いわゆる、太極拳は技が見えないのである。

私は師に尋ねた。
「太極拳ってどこを使って戦うんですか?」と。
その答えは「体全部」とのことだった。

ますます私の太極拳への興味は増すばかり。

前回ブログに書いた通り、伝統楊式太極拳には37の技で構成されている。
しかも一つ一つの技には3~5つぐらいの用法がある。
仮にひとつの技に対し3つで勘定しても111の技があるということになる。

「そんなにはとても覚えられない」と思うだろう。

しかし、套路を練りながら研究を進めていくと、ある法則が見えてくる。
それが太極拳八法と言われるもの。

実は太極拳の技は8つの動作でつくられている。
それを相手の動きに対し対応するためたくさんの技があるのである。

因みに太極拳で攻撃に使う部位はどこだろう?

手ひとつとっても、指先、掌、拳、手の甲、手首
5種類?
いいえ。
指先ひとつとっても四本の指をまっすぐ伸ばした状態で突く動作、
二本指で突く動作、
それに指をつまむようにして指先で突く動作など状況に応じ様々に変化する。

掌も拳も同様。

あとは、肘、肩も使う。
いや、一の腕も使うし二の腕部分も使う。
いわゆる腕全体が武器といことになる。

腕は自分の意識によって槍にも剣にも棍にも鈍器にもなる。

あとは、腰(尻)、膝、踵、つま先、土踏まず、足の小指側側面、
それに頭も使う。
直接攻撃には使わないが、腹や胸、背中を使うこともある。

つまり体丸ごとが武器ということになる。

だから套路を練る時は体全体を使わなければいけない。

因みに太極拳ではこれらの部位を強くするために外面的な鍛練は一切行わない。
それなのに、意識によって体が固体にも液体にも気体にも変化させることができる。

その鍛練法とは?

それが気功。
気功は健康やリラクゼーション効果だけ得られるのではない。
それを目的で行うのは大いに良いことだし、私もそれを目的に行っている。
しかし、それは同時に体を強くすることができるのである。

因みに武器を持たずに戦おうとすることを丸腰という。
しかし太極拳ではその丸腰こそ無敵なのだ。

無論、銃の球を跳ね返したり避けたりすることはできないが、
危険を察知する力を養うことはできる。

こんな風に考えると
太極拳程あらゆる効果が得られる武術は他にないのではなかろうかと。

***

いろいろ語ってしまったが、あくまでもこれは私が体験したことであり、
私自身が体全体を自由に変化させ技を使えるわけではない。
あくまでもそのための修行を今行っているところである。

2016年7月22日金曜日

楊式太極拳は108式?37式?

伝統楊式太極拳の呼び方は様々。

因みに伝統楊式太極拳と楊式太極拳も異なる。

単に楊式太極拳と呼ぶものは、制定された24式、40式、48式、88式も含まれるからだ。
24式は主に検定用として用いられ、40式、48式、88式は競技用として用いられる。

そして、伝統楊式太極拳の呼び方も、楊家太極拳、楊氏太極拳とも呼ばれる。

そもそも伝統楊式太極拳は創始者である楊露禅(ようろぜん)が編み出したもの。
楊家といえば楊露禅の家族という意味になるだろうし、
楊氏といえば楊露禅そのものを指す意味になるだろう。

他にも鄭氏太極拳(ていしたいきょくけん)というものもある。
これも楊式太極拳の部類に属する。

鄭氏太極拳は楊式太極拳第3代伝人である楊澄甫老師の弟子鄭曼青が創始したもので
108式からなる伝統楊式太極拳から重複する技を省き簡化したもの。

また、伝統楊式太極拳もまた、套路はほぼ同じだが、
108式とも呼ばれれば81式、85式とも呼ばれる。

更に同じ108式でも鶴形、虎形、蛇形と三種類ある。
更に更に、架式(かしき)が異なることで、大架式、中架式、小架式とこれもまた三種類ある。
(架式とは腰の位置を意味し、大架式は大きな歩幅で低い架式であることが特徴)

ここまでくると何が何だかわからなくなる。

因みに当会では最も一般的な85式と呼んでいる。
85式はいわゆる鶴形の大架式だ。

世界的にもっとも愛好家が多く、あらゆる病気を治癒させるパワーがあることが世界中の臨床試験で証明されている。

さて、この伝統楊式太極拳、85式だが、実際に85の技から成るのだろうか?
いいえ。
先程もお話ししたように重複した動作が多く含まれる。

重複した動作を省くと37つの技から成ることがわかる。
いわゆる85式は37式だということ。

その中から、よく似た白蛇吐信(はくじゃとしん)を蔽身捶(へいしんすい)に加えると36
更に予備勢(よびせい)を省くと35の技で構成されているということになる。

85式というとたくさん覚えなくてはいけないような気がするが
実際は35の技から成るのである。

もし1日一つずつ覚えていけば35日、即ち1ヶ月ちょっとで覚えられることになる。
だから、そんなに気がまえなくとも良いということ。

ラジオ体操第一は13の体操から成るから、ラジオ体操の約2.7倍と考えれば良い。

しかも太極拳ならゆっくりした動作で普段鍛えにくい老化した体を支える深層筋を鍛えることができるし、
気のチカラでカラダを丸ごと丈夫にすることもできる。
転びにくくなり、転んでも怪我しにくくなる。
これはラジオ体操では得られないこと。

どうでしょうか?

108式とか85式というと、難しそうに感じるかもしれませんが、
37式なら覚えられそうな感じがしませんか?
しかも護身術として使える技が凝縮されています。

2016年7月19日火曜日

動かない武術

中国武術というと激しい動きを連想するかもしれないが、
その中でも動かない武術もある。

私の知る限りでは、意拳、太極拳、心意拳、詠春拳など。

動かないで思い出したが、
先日の伝統大会において詠春拳で出場されている方がおられた。
広いコートのど真ん中に立ち、一歩も動かずひたすら手型技を披露された。
私はその方の心意気と勇気に心を打たれた。

なぜなら、伝統大会と言えど、コートいっぱいに大きく動いた方が高得点が得られる。

走り回ったり、
無数の拳を打ち出したり、
飛んだり、
回ったり、
片足や低い姿勢でピタリと静止したり。

要するに派手さが評価される。
なので入賞された選手の方々の演武はアクションスターさながら華やかそのもの。

確かに私も派手な武術に憧れたことはあるが、
これらはいわゆる無酸素運動。
わずか1~2分でも急激に心拍数が上がり、呼吸が激しくなる。
体力の消耗も激しく、長時間動くことは出来ない。

約40年間ほどんど運動らしいこともせず、小児喘息で体力もなく
その上、肝機能も弱いからお酒もほとんど飲めないし、とにかく疲れやすい。

だから太極拳を選んだ。

「動」と「静」に分けるなら「静」の武術。

これが実に気持ちいい。
動きがゆっくり静かなので表演の世界で目立つことはないかもしれないが、
有酸素運動だからいつまでも動くことが出来るし、動けば動くほど気持ち良くなる。
しかも有酸素運動は脂肪燃焼率が高いからどんどん痩せる。

最近「静」の鍛練を行うようになって私はどうやら痩せたようだ。
半年ぶり、一年ぶりに会う人会う人に「痩せた?」と聞かれる。

そんなことはともかく、
昨夜は、サークルで双辺太極拳をじっくり練った。
改めてその気持ち良さに感動した。
やっぱり私が求めているのはこれだと。

そして、帰宅し五行拳も行ったが、
ほとんど動かず、しかもゆっくり、
意識の働きによって気がどう流れるかを感じながら打つ。

打つと言っても、打ってはいない。
意を打つ。

これもまた最高に気持ちいい。
緩めば緩むほど強くなる内家拳。

気持ちよく行いながら、スリムな体型になり、しかも強く美しくなれる太極拳と形意拳は本当に素晴らしい。

形意拳といっても表演用の形意拳とは全く違う。
というより、私としてはどんどん剛拳化している形意拳をみていて嘆かわしくなる。

形意拳もまた静なる武術。
激しく動き回る武術ではない。

少なくとも私は先日の伝統大会で、形意拳の演武をやり終えた後呼吸が乱れることはなかった。
残念ながら高い点数を頂くことは出来なかったが、自分らしい演武が出来てとても満足している。



2016年7月18日月曜日

受けない打たない

私が師から教わった、楊式太極拳は、「受けない打たない」だ。
それを体感した時、これだ!と思った。

私は身長171センチ、
体重は55キロないと思う。
いわゆる痩せ過ぎ体型。

体重55キロの人間が体重200キロ以上の人に勝てるだろうか?
或いはバーベル50キロしか持ち上げられない人間が250キロ持ち上げられる人に勝てるだろうか?
物理的にはどう考えても不利。

前にも少しブログで触れたことがあるかもしれないが、
必ずしも自分の好きな師の戦法が自分に適しているとは限らない。
だから最終的には自分にあった技法を研究していかねばならないだろう。

私が楊式太極拳を選んだのは、これら体格の差や筋力の差が全く関係ないからだ。

世の中見渡してどうだろう?
関取やプロレスラーのような体格の持主はそうそういない。
電車に乗っても一車両の中にそのような人がいない確率の方が圧倒的に高い。

ほとんどの人が平均体重、平均身長。
特に日本人は世界的に見ても身長が低いし痩せた人が多い。

楊式太極拳なら小柄な女性やお年寄りでも難なく始められ、
しかも内功を練ることで、丈夫なカラダを身につけることが出来る。
しかも筋力ではなく、見えない力である勁力を身につけることができる。

一見、華奢で弱そうな人物がひとたび太極拳モードに入ると一変して強くなるなんてカッコイイではないか。

師匠の体型はガッシリタイプではなくどちらかといえば小柄。

私が打ってかかると、さっと身をかわされ、その瞬間手が触れるのだが
当たる感覚がなく、気が付けば自分の体を自由に操られている。
この感覚が強烈にカッコイイ。

推手を行っても、かつての師匠の腕はとても重かったが、今はその逆。
かといって軽いのでもない。
これ以上のことは奥義に触れることになると思うので割愛するが、
私の言葉で言うなら、気を自在に操っているという感じだろうか。

当会の触れ込みは「大地に根付き、天を舞う」としているが
まさにそのような感じ。

***

昨日、近畿大会を終え帰ってきたが、
大会で行う自分の動きは今話ししたソレではない。
見えない世界を見せる世界で行っても無意味だからだ。

どちらも素晴らしいと思うが、私は見えない世界を徹底的に掘り下げて行きたい。

ようやく私は本格的な修行に入れる。

2016年7月16日土曜日

飽きてしまうということ

これまで何人かの会員さんが途中で飽きてしまいフェードアウトされた。
残念だがこればかりは仕方ない。

一方、毎週2回ずっと通い続けている会員さんもおられる。
本当に熱心だと思うしとても感心させられる。

そもそも飽きるとはどういうことだろう?

仮に私はカレーが好きだが、さすがに毎日食べると飽きる。
しかし、ごはんやみそ汁は飽きることがない。

私が思うに、武術の套路(型)をおかずにしてしまってはいけないと思う。
太極拳で言う套路は気を練り技を練るための鍛練法だからだ。
いわばごはん。

ごはんは生きて行くためには最低限必要なもの。

当会では、養生功を行った後は、毎回楊式太極拳を通す。
いつまで通すか?

答えは一生。

私にとってはごはんを食べなければ生きていけないのと同じで
楊式太極拳を行わないと調子が狂う。

そもそも極意とは、極めた結果得られるものであり、
極めるためには毎日の努力が必要ということになる。

ごはんをゆっくりゆっくり噛んで食べると米本来のうまみが滲み出てくる。
それと同じように楊式太極拳をゆっくりゆっくり練り込んで行くと、どんどん気持ち良さが増してくる。

この気持ち良さを体感せずして辞めてしまうのはあまりにももったいない。

そもそも何故今回このような記事を書きだしたか?

私は試合のために楊式太極刀をこの4年間で5000回以上は行ってきたと思う。
この回数が多いか少ないかはわからないが、
短期間にあまり同じ套路ばかりを繰り返し行うといい加減飽きてくる。
この現象こそが私にとっての危険信号。

太極拳とは生涯を通じて行うものであり、套路はその鍛練法。
鍛練法を飽きてしまってはその道を極めることなどできるはずがない。

だからこそ私はペースを緩めることにした。

ひとつの套路を短期間に集中的に行うのも良いが、その分飽きが来るのも早まる。
健康法として始めた太極拳が飽きてしまったら意味がない。

結局、焦らず毎日コツコツ続けることが大事ということになる。

そして、毎日なにか発見がある。
この発見することがなにより楽しい。

2016年7月15日金曜日

自由スタイル

当会の方針は自由です。

自由と言っても、何を行っても自由と言う意味ではありません。

当会では会員が習ったことを家でも復習できるように豊富な教材を用意しています。
しかもこの教材は無料です。

無料だからといって価値がないのではありません。
お金も時間も労力も掛かっています。

無料にする理由は、「わかる人にはわかる」という形にしたいからです。

仮に1万円の本があったとします。
恐らく大切に扱うでしょう。
しかしそれを読むとは限りません。
本棚に大事にしまって、いつか読もうとそのまま忘れてしまうかもしれません。

私の知る限り、意欲ある方は教材をとても上手に利用します。

もうひとつ。

当会では、教材をこちらから提供することはありません。
申し出た会員のみ(段階的に)提供するようにしています。

何でもそうですが、必要とする人にとっては価値あるものになりますが、
そうでない人にとっては単なるゴミになってしまうからです。

お腹がすけば食料を買いに行きます。
そしてありがたく頂くことでしょう。

でも、もらいものならどうでしょう?
確かにもらった時は嬉しいが、
いつか食べようと思いながらもそのまま腐らせてしまうことはありませんか?

当会は伝統の教室なので、
套路は目標ではなく修行のための鍛練法のひとつに過ぎません。
目標は、「武術を極める」ことです。

だから、当会でお教えするのは楊式太極拳と双辺太極拳と形意拳のみです。
套路だけではありません。
それぞれの推手や散手も同時に学びます。

因みに推手とは、相手の動きを素早く察知する能力を開発する鍛練法であり、
尚且つ、相手の攻撃を自分の攻撃に転じる術を体で学びます。

また散手は、套路で学んだ技を実際に使えるようにする練習法です。
2人1組となり、何度も何度も繰り返し練習し技を体得していきます。

推手も散手も他の習い事では味わえない楽しさがあり、
コミュニケーション方法としても大変優れます。
またこれらを行うことによって、気功、歩型、歩法、身法、手法、眼法、基本功、套路の意味を深く知ることができます。

これこそが伝統スタイルが長年受け継がれている意味であり理由です。

話を戻しますが、
当会が自由スタイルで行う理由は先程もお話しした通り、
必要としている人へ必要な情報を受け取ってもらうためです。

待っていてもなにももらえません。
いえ、先程もお話ししたように、もらったものはそれだけの価値としてか人間は認識しないのです。

押し付けることもなければ、無理に与えることもありません。

当会では常に本人の意思を尊重します。

2016年7月12日火曜日

ここには書けない理由がある

先週末、全日本から帰ってきた。

複雑な想いで挑んだ試合だったが、
結果は惜しくも0.01ポイント差でメダル逃し全国10位。

メダルまでの点差を知るまでは自分ではやり切ったし悔いはないと思ったが、
この点差を知った時、決断がぐらついた。
悔いはないはずだったのに悔しい想いがこみ上げてきて、
その日はホテルのベッドに横たわりながらも明け方3時半まで寝れなかった。

この0.01という数字は私に何を語りかけているのか?
来年もう一度チャレンジし、リベンジを果たせということなのか?
それとも私の決断を揺るがす罠なのか?

会場内では何人かの選手の方と言葉を交わしたが、
いわゆるこうして自分が出続けるのは、交流することができるから。
そして、自分の実力を知る機会になるということだった。

或いは、目標がないと怠けてしまうし、練習する機会が得られる。
目標があるからこそ頑張り続けることが出来るなどの意見もあった。

私もそう思う。
だからこそ誰からすすめられることなく4年前に個人として試合出場を決めた。

あえて、得意な種目ではなく苦手な種目や新しい套路を選ぶのも実力を上げるための機会とするため。
だからこそ自分にとって本当に価値ある4年間だった。

全日本の選手ともなると私が知る限りは先生方がほとんど。
いわゆるチャレンジし続ける先生が集まる場所ということになる。
そういう意味では大変刺激になる機会となる。

そうと解っていても、私には競技太極拳を辞めなければならない理由がある。

あえて言うなら、どんな大会にも主宰側の意図するものがあり、
それによりどのような選手に高得点を与えるかという傾向がある。
だからこそ上を目指すならその対策をしなければならない。

その対策が自分にとってプラスになるものであれば続けるべきだろう。
しかしそうでない場合は自分にとってマイナスになってしまう。

本来、太極拳とは生きるか死ぬかという戦いを迫られた時に使う拳法であり、
相手が武器を持っているならば、一瞬の隙に斬られ死ぬことになる。

太極拳は競技として誕生したのではなく
自分や家族、大切な仲間を守るため、
敵から身を守り生き抜くための武術として生まれた。

それがなぜ健康体操として普及したか?

それは武術として優れた太極拳は
ゆっくりとした動作によって気を練ることが出来、
それがゆえに体中にエネルギーが満ち溢れ、
丈夫な身体を作り上げることのできる優れた健康法であるから。

いわゆる強さを求めることは健康になるということ。
同時に敵から身を守るために考えられた太極拳独自の化勁の動きは常に螺旋や円の動きで、それがまた美しい。

前にもブログに書いたが、強さを求めるからといって喧嘩に強くなることを目指すのではない。
そもそもこの歳になって体を張った喧嘩をする機会などもうあり得ないだろう。

そうではなく、強さを求めることによる健康法は絶大なパワーがあり、
それは同時に美しさを導き出すということ。

しかも、競技では決して得られない別の世界を垣間見ることが出来る。
それはその道の修行を積んだ者が得られる世界。

私はそれを体験してしまったから、
これまで行った競技太極拳は目的ではなく手段として行ってきた。

人生の半分以上が闘病生活だった私としては、太極拳は最高の健康法であり、
怪我や病気の元になって欲しくないという強い想いがある。

だからこそ、自分の使命を果たすために自分の選んだ道を進もうと。

競技に参加される方々には勝利を祈ると共に是非怪我のないトレーニングを行って欲しいと願う。
私如きが言うことでないことは解っているが、
太極拳は老若男女問わず自分の身を守るために編み出された武術であることを今一度見直して欲しい。
そんな想いで一杯なのである。

***

あるSNSに私の試合での演武を公開したが、あれは私が目指す太極拳ではない。
しかし、私は自分と葛藤しながらも怪我をしないギリギリのラインでトレーニングを積み最後まで郷に従った。
「本番直後ぶっ倒れてもいい」
そんな覚悟でコートに向かった。
それを知っている仲間は、私の気持ちを知っているだけに感動してくれ、そして泣いてくれた。

ありがとう。。