2014年3月30日日曜日

お尻を突き出してみる

今、習ってる教室では老師にもっとお尻を突き出しなさいと指導される。
今でこそその意味が解るようになったが、
楊式太極拳ばかりやってきた私にとって、“お尻を突き出すこと=悪”とさえ考えるようになっていた。(笑)
それぐらい、お尻を突き出すことはタブーだと教えられる。

が、実際戦う場面を想定したらどうだろう?
楊式の場合は尻を突き出すような場面はほとんどないが、
陳式太極拳や他の拳法ではお尻を突き出すというか、腰を入れなければ勁力が使えない。
お尻を突き出せば丹田にパワーが漲ってくるし、上体や腕の余分な力も抜ける。

大事なことは、お尻だけを突き出すのではなく、「腰を入れる」ということだろうか。

何か重たいものを押そうとしたり、重たいものを引っ張ろうとする時、必ず腰を入れた体制になる。
これこそが尻を突き出す形になる。

股関節を折りなさい。
クワを入れなさい。
尾骨を入れなさい。
背筋をまっすぐにしなさい。
尻を締めなさい。
ヘソを上に上げなさい。

いろいろ言われるけど、腹からパワーを出そうとすれば自然と気沈丹田、鬆腰、尾呂中正の形になる。

言葉や情報は多い方がいいとは限らない。
なるべく自分の中でシンプルに整理することが大事だと思う。

2014年3月25日火曜日

考えて練る。無心で練る。

套路を練る時、考えながら練ることと無心で練ることが大事だと思った。

考えながら練る時は、歩法、動作の正確さ、技の用法、気の流れ、放鬆(ほうしょう)、気沈丹田(きちんたんでん)が出来てるか?などチェックしながら通す。
というか、ただただ套路を通していただけでは何の意味もないだろう。

かつて近所の公園で練習してた頃、決まって夜更け頃になるとある楽器を練習をする人と遭遇した。
毎回同じ曲を練習されているのだが、毎回同じところでミスをする。
それを何度も何度も繰り返し、それをひたすら毎日のように練習している。
過去、演奏家だった私は、何度アドバイスしようかとも思ったが、
まあ、本人が楽しんでいればそれでいいわけであって、私が横から口出しするのは余計なお節介にしかならないと。

いずれも何も考えないで練習していると、こういう現象が起きる。
套路を通す時もただただ通していただけでは、悪い癖はそのまま、いや、放っておくと良かったところさえ悪くなっていくことも考えられる。
だから、套路のひとつひとつの技を丁寧に練習することはとても大事だと思った。

苦手な部分があればそこだけを何度も繰り返し練習する。
その時もただ闇雲に繰り返したのでは悪い癖は直らないから、どうすれば良くなるかその方法を考えながら練習する。

自分で納得いく套路が通せるようになったら、今度は何も考えないで無心で通してみる。
その時に体の中のエネルギーの流れや自分のまわりをとりまく「気」を感じるはず。
無心でなくては得られない感覚だ。

だから太極拳は2度楽しめる。

2014年3月23日日曜日

楼膝拗歩の用法と効能

昨日は仲間と公園で3時間ほど練習。

楊式太極拳の楼膝拗歩(ろうしつようほ)の用法が今までイマイチしっくりこなかったが、ようやくその技の使い方がわかった。
一般に知られる使い方ではかなり無理があるというか、
アレでは敵の強力な蹴りには決して対応できない。

要するに演武通りにやると、まったく使えないということ。
踏み込んでから払って打つのではなく、同時に行わなくては相手の力に絶対負けてしまう。
実際何度か試してみたが、そうすることで相手をかなり遠くまですっ飛ばすことができた。

打たせてから打つではなく、打たれる前に打てという感じだろうか。

それに楼膝拗歩は、蹴りに対する攻防だけではなく、受け手を変化させれば、どんな攻撃にも対応できる。
しかも攻撃するところも狙うところによっては、相手へのダメージをコントロールすることもできる。

まあ、こうして技の用法を研究するのは実に楽しい。

どこの教室でも楼膝拗歩はとても重要と教わる。
が、なぜ重要かまではなかなか教えてもらえない。

今回のことでわかったのは、楼膝拗歩ひとつで軸感覚、丹田感覚、インナーマッスルの鍛錬、技の訓練としてとても優れていることがわかった。

やっぱり太極拳は楽しい。

2014年3月21日金曜日

伝統拳と制定拳

最近、ある理由で32式太極剣を独習し始めた。
ひとまず一昨日11式まで覚えたので、恐らくあと2日程で覚えられると思うが
ひとまず11式まで通して思ったことは、流れが滞らないよううまく編成されているなと感じた。
42式剣のように発勁動作もないので、動きもひたすら連綿とした流れになっている。

なぜ、いきなり32式剣を始めたかは、親しい武術仲間が大会出場を目指すことになり、私も何か力になることができないかと考えたから。

私は頑張る人が好き。
あまり練習しないで大会に出ようとする人もいるようだが、悔いが残らないよう出来る限りの努力をしようとする人が好き。
なぜなら自分がそうだから。

話は変わるが、昨日サークルでこんな話をした。

伝統拳といえど、先生によってはそれにアレンジを加えたり独自のやり方を盛り込んだりする方がおられるようだが、私はそれはしない。
理由はひとつ。
それを作った方に対して失礼だと思うからだ。

長い歴史によって練り上げられた研究と努力の結晶を簡単に変更を加えて良いものか。
今は情報化社会で様々な情報が手に入るが、その分人間の勘のようなものが鈍ってきているように思う。
要するに単に情報を組み合わせて作り変えただけのものでは意味がないし、本当の太極拳は失われてしまうと考える。

それはお経や祝詞、聖書を自分の都合のいいように書き換えてしまうのと同じこと。
その時代でなければわからなかったこと、気付けなかったことが必ずあるはず。
それを現代流に勝手に書き換えることは歴史や創始者の意向を冒涜することになると。
そう思えてならない。

当会では独自にアレンジを加えない古来から伝わる伝統拳にこだわり、歴史を重んじ、それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思っている。

2014年3月17日月曜日

10を覚えるより1を極める

かつての私は套路のレパートリーを増やすことに喜びを感じていた。
が、今はその逆。
誰にも負けないものをひとつ極めたいと。

私の場合は伝統楊式太極拳だが、まだまだぜんぜん納得がいかない。
日によってムラがあるし、うっかりするとバランスだって怪しくなることもある。

いずれ目を瞑ってても空間に溶け込むような演武がしてみたい。
まあ、こうなると武術ではなく、もはやスピリチュアルな世界になるが。

私は制定拳を3年程習ったが、それは確実に私にとって大きな財産になっている。
伝統畑で生まれ育った私は制定拳を学んでいる頃はずっと煮え切らない気持ちだったのだが、今ではほんとうに良かったと思っている。

何が良かったかといえば、言葉にするのは難しいが、少なくとも制定拳では伝統拳ではおざなりになっている部分を丁寧に教えてくださる。
まあ、そのおざなりになる理由もわかるのだが。(笑)

そんなこんなで、昨夜から24式太極拳を再度練り直した。
一度覚えた套路なので、すぐに思い出すことができたが、改めて24式太極拳の良さみたいなものを再発見した。
それは、身体に過度な負荷が掛からないようにつくってあるということと、危険な武術的要素をそうでない技に置き換え、見た目の美しさを重視していること。
今までは簡化太極拳をひたすら毛嫌いしていたが、これはこれでいいじゃないかと。(笑)

ひとまずいろいろ経験してみることは大いにアリだと思う。
その中からこれぞ!というものを極めていくのが良いのではないかと。
少なくとも、ただただ套路をたくさん覚えるだけでは全く身にならないし、それより一つを徹底的に極めた方がよほど応用が利くと思った。

2014年3月13日木曜日

気功によって上がるMPパフォーマンス

昨日は指導の関係で一日に気功を2度行った。
連日睡眠不足でまっすぐ歩くことも出来ない状態だったが、今までの睡眠不足が帳消しになるほど元気が蘇った。
噂には聞いていたがこういうことだったのかと。

なにがどう良くなるかといえば、大きく分けて二つ。
メンタルパフォーマンスとフィジカルパフォーマンス。
いわゆる精神力と体力がアップするということ。

ただいえることは、ただ、形だけの気功をやったのではこうならないだろう。
大事なのは内面。

人間が持つ最大のチカラ。
それはイメージ力だと思う。
自慢ではないが、今までの人生を振り返ると私の場合、ほとんどイメージ通りの未来になる。
逆にイメージしなければその未来は得られなかったということに。

何を想おうがそれは人の勝手。
イメージすることに制限を掛けてもダメだ。
イメージ力は無限大なのだから、そのパワーを100%使わなければもったいないし、
それはいわゆる人間だけに与えられた素晴らしい能力なのだから。

自分の体は本当に一個の固体なんだろうか?
それとも無限大に広がる偉大なパワーの一部なんだろうか?

いずれも自分の中に勇気や豊かさ、優しさが湧いてきたら、それは自分の中と外に気が集まってきたという証拠だと思う。

正しい気功を行い、あとはただ“想うだけ”で、これだけの特典が得られるのであれば本当にこんなに良いことはないと思う。