2014年2月28日金曜日

瞑想太極拳の入口

私は定式の度に止めるという動作がどうも好きになれない。
あれはあくまでも検定用の動作。

実際、打つ手をひっこめないで出しっぱなしだと関節技か投げ技を決められるだろうし、
あるいは手の動きを制され迎撃されるか。
とにかくコテンパにやられてしまう。

分脚や踵脚にしてもしかり。
蹴りあげて2秒ぐらい静止させる。
実戦でそんなことをしたら、急所をドカッと蹴られて終わってしまうだろう。

相連不断(そうれんふだん)とか演武均等(えんぶきんとう)ということばがある。
いわゆる動作を止めずに流れるように連綿と行いなさいということだ。

これには先ほども言ったように、定式(技が決まる動作)で止める動作は危険だということの他に、
勁が切れてしまうからである。これを断勁(だんけい)という。

気功ベースで太極拳を行っていると、動作を止めるとそこで気の流れが止まってしまう。
だから、定式で止めることなく連綿と行うことこそが本当の鍛錬法なのだと言いたい。

因みに高探馬(こうたんま)から分脚(ぶんきゃく)に入る動作の途中に名称のない技がある。
なぜこれに名称がないのかわからない。
実に実践的な技なのに。

いずれも当サークルでは2度目の復習から、定式で止めずにひたすら連綿と糸を切らないよう演舞することを考えている。
これこそが瞑想太極拳の入り口だ。

2014年2月22日土曜日

なぜこれをやるのか?

私は義務教育はてんで成績が悪かった。
多分、クラスでもビリから数えて5本の指に入ったと思う。

勉強だけではない。
体育も2以上をとったことがない。
つまり運動神経ゼロってわけだ。

そんな私が今ではサークルで指導している。(汗)

何故、勉強しなかったのか自分でよくわかってる。
それが何のためかわからなかったからだ。
ただ、押し付けられるだけでは、てんでやる気が起こらない。

太極拳教室にしてもしかり。
なぜ先生がそれを教えようとするのか解らないと、モヤモヤしてきて、全く集中できなくなる。

だから、私はサークルで何かを教える時、“なぜこれをやるのか”を務めて説明するようにしている。

準備体操はなんのため?
気功はなんのため?
歩法練習はなんのため?
基本功はなんのため?
套路の形を細かく教えるのはなんのため?

これらをきちんと説明することで、何も知らされないでやるよりも練習に身が入る。(と私は思っている)

今になって学生時代もっと勉強しておけば良かったとか、大学に行っておけば良かったとか思うこともあるが、
私はこれで良かったと思っている。

勉強も運動もてんでダメだったから、太極拳の型をなかなか覚えられない人の気持ちがわかる。
それに思うように体が動かないこともわかる。
なぜなら、私ほどどんくさい人間はいなかったと思うから。(苦笑)

40歳になる前ぐらいから始めた太極拳。
今では大会やイベントにも積極的に参加し、指導もしている。

だから、
覚えられるか自信がない。
体力に自信がない。
こういう方々は大歓迎です。

そういう人たちこそ私にとっては温かく迎え入れたい仲間なのです。

2014年2月21日金曜日

通過動作に隠された技

制定拳を習っていた頃、しばしば先生から通過動作というものを教わった。
簡化太極拳や総合太極拳などなど。

が、本当に通過動作なんだろうか?
いわゆる、技と技をつなぐための単なる接着剤のようなものなんだろうか?

制定拳はともかく、伝統楊式太極拳では通過動作と思われる動きが最近そうでないということが解ってきた。
例えば、攬雀尾から単鞭へつなぐ動作。
その部分には名称がない。

が、これが実に使える技であることを最近発見した。
無論、攻防一体技。
しかも相手に与えるダメージは相当大きいと思われる。

ただ、そのままオリジナル通りに行ったのでは技にならない。
乱用しないように技を隠したのか?
それとも、表演用として美しくつくりかえたのか?
それは解らない。
手の動きをちょっと変えると、とても恐ろしい技に変わるのだ。

楊式太極拳を始めて11年目になるが、未だ飽きるどころかどんどんおもしろくなる。
こんなに面白みが増してくるのではまだまだ簡単には死ねないと思った。(笑)

楊式太極拳というと“やわらかくゆったりとした太極拳”というイメージがあるが、
それはゆっくり演武した時の話であって、実戦レベルの速さで行うと、恐ろしい技の集大成であることがわかる。

陳式太極拳や呉式太極拳も本腰を入れて行おうと思っていたが、それどころではない。
まだまだ楊式太極拳を吟味したいと思った。

2014年2月20日木曜日

久しぶりの双辺太極拳

昨夜、久しぶりに双辺太極拳をしてみた。
そして空間との一体感を感じた。

太極拳は武術であり、神秘体験をするために生まれたものではないが、この感覚は何度体験しても気持ちいい。

楊式太極拳と何が違うのか?

まず圧倒的に違うのは歩形と歩法。
双辺太極拳の場合はずっと形意拳や八卦掌の歩形である中定歩(ちゅうていほ)で行う。
体重バランスは4:6
しかも楊式太極拳のように体重が前へ後ろへと明確な移動がない。
だからラクなのだ。

その分、瞑想状態に入れやすく、手の動きに専念できる。

個人的な意見を言わせてもらうなら、
検定目的ならともかく、健康目的であれば簡化太極拳より双辺太極拳を普及させたほうがいいのではと思う。
簡化太極拳も高齢者にも幅広く楽しんでもらえるよう年々架式(腰の位置)が高くなってきているようだが、体重移動をハッキリさせるにしても、これでは脚を積極的に鍛えることができないと思う。

老化は足腰からやってくる。
だから逆に言えば足腰を鍛えればいつまでも元気でいられるということになる。
無論、脚を怪我をした場合は庇わなければならないが、そうでない時も庇っていては足腰は弱る一方だろう。
使わないものは退化するのが人間のしくみだからだ。

とにかく双辺太極拳は脚や膝に極度な負荷をかけることなく効率よく脚力を養うことが出来る。
体力のない人やお年寄りにも優しい。

当会はまだ始まって1年経たないサークルなので、
残念ながらまだ双辺太極拳を学ぶものはいないが、いずれ習得して欲しいと思っている。

2014年2月18日火曜日

手の位置は?足の運び方は?

結論から言えばそんなことチマチマ考えていたら、武術としての太極拳として成り立たないし、気にしてる間に敵にやられてしまうだろう。

が、私はサークルで手の位置や足運びを丁寧に指導する。
それはなぜか?

正確な動作を身に付けるため。

太極拳の技はとても精巧につくられている。
10センチ、いや5センチでもずれると技として成り立たない。
特に防御の動作は10センチもずれると確実に自分の身体に攻撃を受けてしまう。

攻撃もしかり。
急所を外してしまったら、相手の反撃によって深刻なダメージを喰らうかもしれない。
だから、なにがなんでもヒットさせなければならない。
野球では投げた球がボールになっても、空振りになっても死ぬことはないが、武術では生死がかかっている。

それに、もうひとつ。
集団演武をした時に形が揃っていないと美しさを損なう。
だから、全員に対しオリジナルに則った同じ動作やフォームを指導している。

ところで、私は自主練をしている時に様々な型を練習するが、
その日によってスピードも、フォームも動作も違う。
手の位置や足運びも違う。
それは動作を気にしながら套路を練っているのではないからだ。

その日の自分の中にあるものが自分の体を動かす。
それに、攻撃する手の位置にしても、日替わりだ。
今日は顔面を狙ってみようとか、今日は心臓を狙ってみようとか。

防御にしても、制定拳で教えられるように必ずその位置に手や足が飛んでくるわけではない。
臨機応変に対応できなければそれは武術とはいえない。と私は思う。

集団演武をする時は基準に則って美しく。
そして自分一人でやる時は心地よさを求めて、瞑想を求めて、技のイメージトレーニングとして・・
同じ套路を練るにしても、毎日違うのだ。

だから、太極拳って飽きないんだな。

***

乱筆乱文お許しください。決して文章力がある人間ではありません。
不快感を感じられる方は失礼ながら退出をお願いします。

2014年2月13日木曜日

曲線の動きはボケ防止に?

過去の記事を自分で読み返して、感じたこと。
なぜ、太極拳は見た目簡単そうなのに、イザやってみようとすると難しいのか?
今、わかった気がする。

情報量が多いからだ。

前にも述べたが、曲線を点で表そうとすると無数の点を描かなければならない。
点の数が少ないと滑らかな曲線にならないからだ。
直線なら始点と終点だけで済む。

コンピューターも同じく、直線の処理は得意だ。
しかし曲線は苦手。
曲線は膨大なデータを必要とするし、その結果、処理時間にも時間がかかる。
今、書いているこの文字(フォント)にしても、きれいな曲線ではなくすべて点(ドット)で構成されている。

昨日、久しぶりに快練(太極拳の技を早い動作で行う練習)をやってみた。
直線的な動きであれば、それなりにスピードも出せるしパワーも出せる。
が、曲線の動きはなかなかそのスピードが出せない。

ならどうすればいいか?

力を抜くこと。
力が入っていると美しい曲線にはならない。
技が決まる最後の最後まで力(筋力)を出してはいけない。
言い換えれば曲線の動きの中でパワーを溜め、技が決まるその瞬間にパワーを炸裂させる。

元プロボクサー、モハメド・アリの「蝶のように舞い蜂のように刺す」という言葉があるが、まさに太極拳にもぴったり当てはまる言葉だと思った。

太極拳は綿拳(めんけん)とも呼ばれる。
綿の中に針を隠すという意味からつけられた名称のようだが、これこそが本当の怖さのような気がする。

いずれも太極拳の技は非常に情報量が多い。
太極拳をやっている人は心身ともに元気だが、体を動かすだけでなく、ものすごく頭も使っていることになる。
つまり、ボケ防止につながるということだ。

2014年2月11日火曜日

信じるか信じないかではなく・・

信じたいか、信じたくないかでいいと思う。

「気」の存在の話である。

科学的に証明できないものはあり得ないと思う人もいれば、
科学的に証明できるものは容易いと考える人もいるだろう。

私は気の存在を信じてるんじゃない。
信じたいんだ。

そもそも元気とか、病気とか、気に掛けるとか、気を使うとか、気のせいとか、気がするとか、
信じてなくとも我々は普段から「気」という言葉を多用している。

「気のせいだろう」とある人が言う。
なら、その気とは何?
気を認めていることにならないだろうか。

「気を使う」といいのもなんだろう?
気を使われると嬉しかったり、或いはちょっと迷惑だったり、
なら、その気とは何?

科学的に証明できないものは存在しないと断定してしまうと、宇宙の存在そのものを否定してしまうことになる。(と思う)
つまり自分自身をも。
人は一から人間を作り出すことはできないのだ。

気は人にやさしい。
気に包まれるととても心地よく、そして勇気が湧いてくる。

当サークルでは、気を集めるための準備から始め、そして気を集め、練り、そして発する練習をする。
ろうそくの火を消したり、人を吹っ飛ばしたりそういうことをするのではない。

誰でもが欲しいと思う、優しさや、勇気、力強さ、幸福感を得るために気を集める。

その方法は?

逆に考えれば優しさや勇気が得られた時の状態から時間をさかのぼってみれば、どうやってそれを手に入れたかがわかるはず。

気は信じたい人、信じる人を好み、そして自分の周りに集まってくる。
少なくとも私は気と仲良しだし、お蔭でいつも元気だ。

2014年2月9日日曜日

反省会

昨日、県大会を終えひとまず一段落。
結果はとても厳しい判定を頂き、改めて気を引き締めねばと思った。

只、コンディションは最高だったし、最後まで楽しく試合に挑めた。
数日前から栄養、睡眠、生活リズムをしっかり調整し本番に備えたが良かったようだ。

練習も本番が近付くにつれハードな練習からソフトな練習へと。
本番当日、筋肉痛や筋肉疲労を避けるため套路の通し練習や站椿功(たんとうこう)も短めにした。

さてさて反省会。

楊式刀:
1番目ということもあり、立ち位置状態から緊張し、立ち上がりが遅れた。
時間オーバーによる減点を気にしすぎて、少々急ぎ足に。
普段の柔らかさが出せずゆったりとした演武にならなかった。
やはり体内時計に時間感覚をしっかり刻み込まねばと思った。

形意拳:
4種目の中で一番気持ち良くできた。
単調でつまらない三体式と五行拳を毎日練習してきて良かったと感じた。
只、迫力を出そうとし過ぎたのか、剛柔の柔の部分が欠けていたように思った。

楊式太極拳:
套路をゆっくり動ける型に組み直す必要有。
苦手動作でミスが出てしまった。練習を重ね克服しなければ。

呉式太極拳:
同上。
ミスはなかったが苦手動作がきれいに決まらなかった。練習あるのみ。

試合での問題は時間とコートの制約。
太極拳はゆっくり演武したほうが良いが、時間オーバーすると大量減点。
かといって、ゆっくりした演武をしようとすると移動範囲が狭くなる。

コートをいっぱいいっぱい使った方が得点が良いらしいが、ゆっくりの速度でたくさん移動すると時間オーバーになる。
この中でいかに基本を踏まえながらも自分の持ち味を出すことができるかが課題だ。

あとは床が厚めのカーペットであること。
これによって独立歩での安定感が損なわれる。
床を掴むことが出来ないのでバランスを筋力で補うことがほとんどできない。
つまり、つま先でも静止して立てるぐらいの軸感覚を養う必要があると思った。

これらを踏まえ練習プログラムを再度見直し、夏の全日本大会に備えよう。

2014年2月5日水曜日

点と点を曲線で結ぶ

私が最初に太極拳を教わった時は分解しては教わらなかった。
1、2、3という風に。
先生が模範を見せてくれるから、それをその場で必死に真似ようとする。

先生の動きはとても滑らかで柔らかい。
だから、その場ではどういう動きをしているのかすぐには解らない。
直線ではなく曲線で動いているからだ。

例えば一枚の紙に点で円を描こうとしたら、無数の点を描かなければならない。
点の数が少ないと単なる多角形になってしまう。
だから、本当は1、2、3だけでは言い表せないのだ。

私がサークルで指導する時、分解して教えているが、それはあくまでもスピーディーに大まかな動作を覚えてもらうため。

本当は点と点を直線で結んではいけない。
太極拳の動きは常に曲線だから。
曲線だからこそ美しく、そして精巧な技として使えるようになる。

長年太極拳をされている方でも、しばしば直線で動いている人をみかける。
点と点を直線で結んでいるのだ。

指導する時は分かりやすいよう点と線で教えているが、早く皆と一緒に曲線の世界を楽しみたいなと思う。
太極拳の気持ち良さは曲線の中にあるから。

2014年2月3日月曜日

「教える」ではなく「与える」?

そもそも私がサークルを立ち上げたのは、教えたいからではない。
無論、教えることも好きだが、それよりも共感することが好きだ。
多分このブログを立ち上げた頃も同じようなことを言ったかもしれないが、人と共感したい。

気功と太極拳、気功ベースの太極拳の気持ち良さを知ってほしい、体感して欲しい。
そして同じ感覚を得ながら皆と一緒に太極拳を楽しみたい。

これは同じ空間にいなければ決して得られないこと。
太極拳サークルはライブと同じなのだ。

太極拳の型だけなら、書籍やDVDなどでいくらでも学べる。
しかし、太極拳の型ができるようになっただけで、それがなんになろうか?

私の師は、太極拳の気持ち良さをまず教えてくださった。
いや、正確に言えば、与えてくださった。

11年前、師が恍惚とした状態で太極拳をされているのを見て私は憧れた。
そしてその感覚がわかってきたのはつい最近のこと。
最初は必死で先生の演武を真似ようとしたが、それだけでは絶対得られない。

人間の体が骨と筋肉で成り立っていると考えているうちは、決して太極拳の境地に達することはないと思う。

因みに、その骨や筋肉は何からつくられてる?
タンパク質?
そのタンパク質は?
アミノ酸?
そのアミノ酸は・・
マクロ的に見ていくと、最終的には原子と電子に行くつく。
地球を周回する月のように、太陽を周回する地球のように、銀河を周回する太陽系のように・・

つまり宇宙だと。

2014年2月1日土曜日

シンプルの美学

元々、私が太極拳に憧れたのはあのゆっくりとした動きに神秘性を感じたからだ。
どこを見渡しても、日常生活であんな動きをしている人はいない。

私は元々太極拳を武術だと思って道場を訪れた。
あの神秘的な動きから想像もできない不思議な技を教えてくれるのかなと。

が、初めて体験した太極拳は武術とは程遠く、どちらかといえば踊りに見えた。
その時、私が先生に言ったことは今でも覚えてる。
「これって本当に武術なんですか??」
隣で先輩が大笑いしていた。(笑)

しかし、実際に先生に技をかけられ床に叩きつけられた時、その一瞬の出来事に何が起こったかわからず、なぜ私は床に寝ているのか?という感じだった。
或いは、こちらから手を出したはずなのに、一瞬の間に先生の掌や拳が目の前まで来て凄まじい恐怖感を感じた。

穏やかで気さくな先生だが、それからは先生に近寄るのが怖くなった。(笑)

後に私は先生のすすめで形意拳を学ぶことになった。
が、正直形意拳にはあまり興味が湧かなかった。
かつて私が学んだ空手に似ており、しかもあまりにも単調な動きだったからだ。

が、今ではその形意拳にハマりつつある。
理由は単調に見えるのに実際にはとても難しからだ。

当時、私は八卦掌のように激しく動き回る拳法に憧れたが、今はそのシンプルな動きがたまらなく楽しい。
シンプルな動きは誤魔化しが効かないからだ。
それに、無駄がない。
呼吸も乱れない。

かく乱させたり、背後に回ったり、相手のバランスを崩したり、そういうややこしい動作がない。
形意拳の場合は相手が打ってきたら、ただただそのまま前進し迎撃するだけだ。
男心をくすぐる。(笑)

結果的にどんな練習方法になるかは、そのシンプルな一発にどれだけの威力は発揮させることができるか?
拳に命を吹き込むような感じだろうか。

表演的には見栄えしないかもしれないが、いずれシンプル美学としても完成させていきたいと思った。
威力だけでなく美も追及したいと。

邪道と言われるかもしれないが、実際、中国武術が世界的に人気があるのはその威力よりも動きの華麗さじゃないだろうか。
入りはそれでいいと思う。