2018年1月20日土曜日

重さは力なり

アインシュタインの相対性理論の方程式を武術的に捉えると?

E=mc2

この式は以下のことを意味する。

エネルギー=質量×光速度の2乗

容易く言うと重力のあるもの程エネルギーが強いというものだ。
これは質量の高いものほどエネルギーが強いとも言える。

なんだか余計ややこしくなってしまったが、
今回のタイトル通り"重さは力なり"ということ。

以前書いたことのあることだが、
勁というのはまず心から始まり、それが意識を生み出し、気を通し、それが勁となって力となる。

いわゆる、心>意>氣>勁という順になる。

私の勝手な解釈では心とは頭脳ではなく魄であると。
勁力というのは脳の指令によって作り出されるものではなく、魂のパワーそのものだと私は思っている。

そのひとつの理由として、考えてから打った力はあくまでも筋力であり、
その筋力には表面的な衝撃を与えることができても貫通力がない。
これは直接師に勁を打ってもらったり、ミット打ちなどで何度も経験してきたこと。

ところで、意識とはなんだろうか?
これを医学的、物理的に解釈するなら一種の電気信号。
電気はほぼ光の速度で伝わる。

これを気功的に解釈すると?

氣というのは意識したところに集まる性質がある。
これを意気相連という。

体を極限までゆるめると体に氣が充満してくる。
この時の感覚は体がずっしりと重くなったような感じるが、
だからといって体重計に乗って実際に体重が増えるわけではない。
ここが氣の不思議なところ。

いずれも意は光の速度で伝わり、それが氣を生み出す。
無論体を硬直させていては氣をたっぷり体の中にめぐらせることはできない。
ふわっとしたスポンジはたっぷり水や空気を含むことができるのと同じで、
体をゆるめなければ体の中に気を充満させることはできないということ。

いずれも、氣をたっぷり集めることが出来れば、
後は意識の速度でそれを勁というパワーとして出力することが出来る。

先程もお話したが、意=氣 なのだから、
言いかえれば氣は光の速度で進むことになる。

因みに氣は目に見えない。
しかし空気(空間)を歪めることはできる。
氣そのものは見えなくとも空間の歪みとして見ることはできるし、少なくとも私は何度も見てきた。
水面に石を落とすと波紋が出来るが、それが空間で起きる。

太極拳は力で戦う武術ではない。
はっきり言ってしまえば宇宙の力を使うのが太極拳。
宇宙と同化するには極限までゆるめること。

邪念も力みもなにもかもすべて放出し
体の中に氣を充満させるためのスペースをつくる。

信じる信じないの話ではなく、
それを科学が証明しようとしている。

2018年1月18日木曜日

考えるのをやめよう

練習をしている時に考えるのはやめよう。

考えたってなにも答えは出ない。

習ってもいない漢字をどんなに考えても読み書き出来ないのと同じで、
套路を練る時も推手や散手をしている時もすべきことは考えるのではなく
"見る"
"感じる"
だ。

考えながら動くと動作がギクシャクする。
それもそのはず、
手足、体すべてを脳でコントロールしようとしても、とても間に合わない。
車の運転を、イチイチ考えながら操作していたらとても危険なことになる。

習うより慣れろ。
考えるより真似ろだ。

赤ちゃんが言葉を覚えたり、立って歩けるようになるのは、
考えて喋ったり立とうとしているのではなく、
親がしていることを真似ようとしているだけ。

子供の頃は大人のしていることが羨ましく、自分も早く大人になりたいと思った。
そして懸命に親の真似をしようとする。

先程言ったように、
真似る、
そして、それを何度も繰り返す。
それだけ。

私が太極拳を始めたばかりの頃は、とにかく先生の動きを真似た。
始めたばかりのころ、先生と自分が演武している動画が残っていて
久しぶりにそれを見ていたら、自分の動きがまるで先生と同じだった。

カメラの位置から時折重なって見えるのだが、
それでもその重なった部分からほとんどはみ出すことなく動いているというのを見て改めて驚いてしまった。
確かに当時の私は先生に憧れ、とにかく先生の真似をしようとした。

先生が動きを変えれば自分も変えた。
そのことを先生に尋ねると「常に進化しているから」とのことだった。
覚えても覚えても先生は進化していき、ついていくのがやっとだったが
当然のことながら、そのことに対し不満を漏らしたり文句を言ったことなど一度もない。

先生が変われば自分も変わる。
先生が進化すれば自分も同じく変わることで進化できるということ。

自分で言うのもなんだが
私はこういう自分の素直なところが好きだ。

考えながら動こうとするのをやめよう。
先生というのは教える人ではなく手本を見せてくれる人なんだ。

2018年1月16日火曜日

下実上虚

なんとなく昔の資料をひっくり返していたら
太極拳で重要な十六の言葉が記されたコピーが出てきた。

何度もコピーしたものらしく、文字ははっきりしないが
その中でぱっと目に入った言葉が、下実上虚(かじつじょうきょ)

なぜこの言葉が目にとまったかは自分でよくわかっている。
最近套路を練る時、特に意識していることだからだ。

この下実上虚がしっかり出来るようになると、動作がとても安定してくる。
やわらかい動きなのにずっしりとした重量感を出てくる。
そして、気の通りが良くなる。

この言葉の意味は特に記されていないが、
一言でいえば「重心を落とせ」ということになるかと思う。

足腰はずっしり。
腰から上はふわっと。

最初のうちはどうしても逆になる。
なぜなら、最初はどうしても手で動こうとしてしまうから。

手が動こうとすると腕や肩に力が入り、
その一方、足腰がまだ出来ていないからふらふらする。
ふらふらするから、尚のこと上半身に力が入り、重心が上がってしまう。
そのことでまた更にふらふらする。
全くもって悪循環であるということ。

だから下実上虚なのだが、
そうそうすぐにできるものではない。

どうすればいいか?

当然のことだが、練習しかない。

ちなみにこの下実上虚、下半身に力を入れるのではない。
気を沈めるということ。
力はどこにも入っていてはいけない。
自分がまるで水の入った皮袋になったかのごとく、
体まるごとゆるめなければならない。

そうすることで自然と下実上虚になる。

ひとりよがりになるかもしれないが、この感覚が実に気持ちいい。

本当においしいものは香り、味、舌触り、歯触り、そして後味までおいしい。
套路ひとつでこれほどまでに楽しめるのかと思うほど。

これこそが伝統太極拳の醍醐味と言えよう。

2018年1月12日金曜日

生涯学び続ける

昨夜の稽古の時、会員さん達の前で「私は生涯学び続けます」と発言した。

何故こんな発言をしたか自分でもよくわからないが、
私の目標は良い先生になることではなく、良い修行者になることだから。

死ぬまで学び続け
死ぬまで研究し続け
死ぬまで修行を続ける

逆に、教えるだけの人になったらそれは自分にとって「死」を意味すると思っている。
進化が止まってしまう。

私をそう奮い立たせてくださる先輩の先生方は大勢おられる。
そして私はまだ見ぬ未知の世界に挑戦し続けたいと思っている。

私にとって生きることとは老化と闘うことではなく進化すること。
非常識と思われるだろうが、太極拳を行っていると自然とこういう考え方になる。
死を迎える直前が一番進化した自分であり、一番美しいと思っている。

太極拳を始め15年経った今でも「これからが始まり」と思っている。
いや、正確には、まだ始めるための準備も出来ていない。

邪念に囚われることなく自分の進むべき道を歩んでいくためには
いらないものを整理しなければならない。

特に今はそのことを意識し、身の回りと心の断捨離を行っている。

今まで学んできた内家以外の武術は全て捨て、
制定された套路や競技用套路もすべて捨てた。

捨てるというのは今後やらないということ。
やらないのはすべきことを全うするためであり、絶対必要なことだと思っている。

かといって今まで学んできたことが無駄だったわけではなく、それも必要なこと。
これまで学んだことは自分の中で血となり、氣となり、水となって生き続ける。

人間はなにもしないでいると、老化が進むだけ。
しかし太極拳の修行を続けていくと進化することができる。
それは死後魂となっても生き続ける。

こんなふうに考えると太極拳に出会えて本当に良かったと思える。

2018年1月6日土曜日

信念岩をも通す

先日、飛んでる矢は止まっているという話をしたが
今回はその逆。
信念岩をも通す、
信念山をも動かすという諺。

この言葉をそのまま受け取ると「そんなことあるわけない」と思うが
これはあくまでも信念にはそれだけの力があるという例えであり、
念によって岩や山を動かすことは実際できない。

しかし、
私はこの諺を知った頃からほのかに「実際にできたらどんなに素晴らしいだろう」とずっと考えてきた。
そしていろいろ勉強するうちにこのことが可能だとうことに気付いた。

まず岩を通すことはとても簡単。
何故なら、意はそれが岩であろうが鋼鉄であろうがそれを突き通すことができる。
岩の後ろに意識を送ればすでに意は岩を通したことになる。

人間は思考することで様々なものを生み出してきた。
高層ビル、宇宙ロケット、MRI、コンピューター、インターネット、GPS・・
どれもつい100年前にはなかったもの。

現在というのは過去の未来であるということ。
要するに、「今」は過去の人々が思い描いた夢の結晶なのである。

それだけ意や思考にはパワーがあるということ。
山を動かすどころか山を破壊するミサイルだって今はある。

量子力学的に見れば、人も岩も山もすべて原子でなりたっており、その原子も、原子核と電子の運動によって成り立っている。
つまり、人間というのは原子核の周りを電子が回る原子の集合体であり、
固体だと思っている人間は実際はスカスカの宇宙空間でありエネルギー体であるということ。

目でモノを見ようとするとどうしても表面しか見えないが、
意で見ればどんなものも貫通して見ることが出来る。

なぜなら人間も岩も山もすべて原子で成り立っており、
量子力学的に最小単位でみると、実際は「存在しない」ということになってくるからだ。

映画マトリックスで、ある超能力を持った少年がスプーンを曲げながらこんなことを言う。
「曲げようと思ったら曲らないよ」
「そうじゃなく、真実を見ようとしなきゃ」
「スプーンはないんだ」
というシーン。

この映画が公開されてから今に至る約19年もの間、ずっとこの子の言ったことが気になっていた。
あまりにも意味深な言葉で単なる台詞とは思えなかったからだ。

そう、スプーンは実際にはない。
マトリックスのように仮想現実だからではなく、原子レベルで見れば、空間の中にスプーンを構成する材質の原子が集まっているだけで、実際、空間であることには変わりない。
こう考えると実際スプーンはないことになる。
それどころか、ある説によると、そのスプーンですら自分自身が勝手に作り出しているとも考えられている。

私はこれまで、気功や套路を練る時に、空間に溶け込む感覚や、
推手で相手を感じたり、相手に意を通して崩したり・・
この辺のことは素粒子(物質の最小単位)レベルで考えるとすべて辻褄があってくる。

感覚は嘘をつかない。
そして自分の感覚は正しかったということがなにより嬉しい。

私は今までどちらかといえばスピリチュアル派で、
人間を大量虐殺してしまうような化学力は地球から消えて欲しいと願ってきたが
今ではその科学の進歩にとても感謝している。

人間が支配欲や金銭欲から解放され
自分がなぜ誕生し、どこに行こうとしているのか?
ということをテーマに生きて行ける時代が来ることを強く願う。


2017年12月29日金曜日

意力が威力に変わる

昨日午前、稽古納めを終え、
その後弟子との今年最後の稽古を行った。

弟子の意気込みは増すばかりで、それと同時にどんどん勁力を上げている。
速い突きはことごとくかわし、あらゆる攻撃に対しての柔軟性も身につけ始めている。
いなす力だけではなく、発勁力も確実に上げている。

私は基本、相手の稽古台になる時は自分の勁力を試すことはしない。
最終的に勁を勁で返すことはやってみせるのだが、
それまでは感覚を掴んでもらうための相手役に徹するようにしている。

勝負をしているのではなく
稽古をしているのだから当然と言えば当然なのだが。

散手での発勁は、あの小さな体からは考えられないパワーがこちらに伝わり
踏ん張らなければ簡単に吹っ飛ばされる。

話を聞くと、学生時代、勉強も運動も苦手だった上に大人しかったため
人に見下されたり馬鹿にされたりすることが多かったらしく
それだけに「強くなりたい」という気持ちが人一倍強かったようだ。

その念願は今の時点でも十分叶っていると思う。
彼女は本当に強くなった。

そんなこんなで彼女には速い突きは通用しなくなってきたので、
次なる段階の稽古を始めた。

そして私もようやく腰を据えて推手ができるようになってきた。

まず推手で大事なことは、姿勢と脱力。
姿勢の良さは強さに比例し、姿勢の悪さは勁力を下げる。
姿勢が悪いと、相手に隙を与え、いなすことも出来ず、打つこともできない。
姿勢は大事。

次に脱力。
力んでると相手に攻撃の機会を与えることになる。
打たれまい、崩されまいと頑張るのは逆。
力を使おうとすると、それを相手に利用されてしまいそしてその力で今度は自分が崩されてしまう。

打たれまい、崩されまいという意識は太極拳では全く役に立たない。
そんなものはドブに捨てよう。

大事なことは、自分という存在を固体としてみないこと。
液体でもない。
気体でもない。

あるのは魄だけで、相手の魂を感じ、
そして起きていることを素直に受け入れ、それを自分の魄に任せる。
そんな感覚。

意が氣を作り出し
氣が勁を生む。
勁はパワーであり、その威力は無限大。
その力は筋力を遥かに凌ぐ。

太極拳が益々おもしろくなる。

太極拳を踊りやスポーツとして楽しむのは自由だが、
本当は皆、不思議な力を手に入れたいと思っているはず。

アニメやゲームだけの世界に終わらず、
それをリアルで体験できるならこんなにおもしろいことはないし、
少なくとも私は生涯かけてやりたいと思う。


2017年12月28日木曜日

欧米人が伝統に拘る理由

ふと思ったのだが、
欧米人が制定拳を行っているをほとんどみたことがない。

一方、伝統拳では白人や黒人などの外国人が多い。
これは太極拳に限らず日本の伝統武道に関しても同じことが言える。

(これはあくまでも私の経験上であり決して全てではない)

アメリカは自由の国。
自由を愛するが故に常にクリエイティブなことにチャレンジする。

一方、ヨーロッパはその国々を見ればわかるとおり
歴史や伝統を重んじる民族(国)が集まっている。

こう考えると、これらの国々の人々に制定拳が合わないように感じるのは気のせいだろうか?

そもそも
制定拳のルーツは?
なぜ制定権が生まれた?
その理由は?

私が知る限り制定拳の名人や達人というのを聞いたことがない。
制定拳で天下を取ったとい話も聞いたことがない。
それもそのはず、制定拳は護身武術としてつくられたものではないからだ。

江戸時代、武士が国を治めていた時代は終わり刀を取り上げられ、
その後剣術、剣道として伝統が受け継がれた。
太極拳もまた、文化大革命の時に武術の要素を省き健康体操として世に広めるため政府の指令によってつくられた。

しかしだ、
伝統武術を伝えて行こうという動きは人目には触れなくとも確実に受け継がれようとしている。
YouTubeなどで見られる武術はごく一部で、そのほとんどが表面的なものに過ぎず、私の知る限り伝統を受け継ぎながらも更に進化させるべく修行を積む者は決して少なくない。

いずれも日本は欧米と比べるとそのほとんどが制定拳の武術愛好家。
太極拳発祥の地である中国も同じく、かつて名手だった著名な武術家も代を受け継ぐごとに表演武術に成り代わってきているように思う。

太極拳に対する一般的なイメージは「健康体操」か或いは「踊り」 と思っている人がほとんど。
どちらでも構わない。
しかしそれはあくまでも太極拳の副産物であり主なるものではない。
太極拳の目的は己を鍛えることにあると思うから。

人間が病気にならず健康でいられるのは、常に体内で免疫細胞が病原菌と闘っているから。
その闘いに敗れると、それを病気や死と言い、逆に勝てば健康と言う。
いわゆる闘わずして生き残る道はないということ。

だから武術として行う太極拳こそが最強の健康法であると私は信じるし、
その証拠としてこれまで数々奇跡的な体験をしてきた。

今後日本はどうなるのだろう?

制定拳を行うのは、太極拳を始める入門としては大変優れていると思う。
そして次のステップとして最強の健康法を手に入れるためにも伝統太極拳を始めて欲しいと思う。

人間は医療の進歩と共に、人間自身も進化している。
あらゆる病原菌に対する抗体を持ち、犠牲者を出しながらも進化している。

ここまで私が話した理由、
察して頂けるだろうか?

武術は敵から自分や家族を守るために生まれたが、
自分自身と闘うことでも武術は大変優れる。

だから、
少なかろうが、
受けいれられなかろうが、
有名でなかろうが、
元来の武術としての太極拳を伝えて行きたいと思っている。