2017年5月20日土曜日

知ってるつもり

このような諺がある。

〝聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”

私が思ったことは何故こんな諺があるか?ということ。
私はわからないことがあればその場で聞くし、
これこそが人間同士の一番楽しい部分であると思っているから。

今は講師という立場だが、それでも私の姿勢は変わらない。
解らないことは解らないと言うし、生徒に尋ねることすらある。

知らないのに知っているふりをしていて損をするのは
知らずに恥をかくことだけではない。
人との楽しいコミュニケーションが出来ないことを損する。
そして人間関係に溝をつくる。

推手に置き換えると、聴勁という。
聴こうとしなければ聴こえない。
知っているつもりで推手していると相手に崩されると言うこと。

推手はこの諺を具体的に証明する実験のようにも思える。

2017年5月16日火曜日

単純なもの程奥が深い

先程、早朝練習してきた。
ガラ空きの駐車場で、五行棍を練る。
生きてるなぁ!と感じる。

何十回、何百回と同じ動作を繰り返す。
これがたまらなく楽しい。

そういう私は元ベーシスト。
ファンクベースが好きだった。

ファンクとは、いわゆるダンスミュージックだが、
踊りやすくするためにずっと同じリフを弾き続ける。
ずっと同じリフを繰り返しているのに全く飽きない。
むしろどんどん楽しくなる。

同じフレーズを弾き続けるので頭を使うことはない。
頭は空っぽ。
どこを使って弾くか?

丹田。

ベースってもんは頭で弾くんではなく
心で弾くんでもなく
腹で弾く。

そうするとどんなベースよりも、ものすごいパワーを生み出す。

私の武術に共通している。
緻密な套路を覚えるのは苦手だし、好きでもない。
頭を使うことが好きではない。

だから套路を練るよりも五行を練るほうが楽しいし、生きてる感じがする。

それに言えることは
展開激しく複雑なものは誤魔化しがきくが、単純なものは誤魔化しがきかない。

しかも単純なものほど奥が深い。
毎回新たな発見がある。

私が伝統太極拳や伝統形意拳をこよなく愛する理由。

2017年5月15日月曜日

推手あれこれ

数えてはいないが今まで300人以上の相手と推手を行ってきたと思う。
初心者から達人級の方まで。

初心者と達人が明らかに違うのは、自己の制御だろうか。

初心者はまず自分から動こうとする。
そして力で対抗しようとする。

達人は自分から動くことはしない。
相手の動きにぴったり合わせる。
そして気づけばいつのまにか崩されている。

推手では専門用語で聴勁というが、まずこれを鍛えることが重要。
いわゆる相手を知るということ。

しかし相手を知るだけで聴勁が成り立つだろうか。

もっと大事なことは己を知ることだと思う。

推手を行うとよくわかるのは自分の癖で動こうとしてしまうということ。
これを相手に知られてしまうと相手の手中に収まることになる。

なら癖とはなんだろう?

癖とは無意識であり性格であり日頃の習慣。
それならその癖を出さないことはできるだろうか?

日頃の習慣を意識して変えていけば癖を変えることはできる。
しかしもっと手っとり早い方法がある。

無になること。
無は頭も体も完全脱力の状態からなる。
いくら体が脱力していても脳に力が入っていては無になることはできない。

無論、経験未熟な者が無になっても力を出すことはできない。
結局日ごろの鍛錬が必要ということ。
たくさん練習し、たくさん失敗し、たくさん落ち込むこと。

因みに落ち込むことが良くないことと思う方がおられるかもしれないが、
成長過程で落ち込むことは絶対必要。
〝上達したい”という気持ちが強いからこそ落ち込むのであって、
落ち込まないというのは現状に満足しているということだから伸びるわけがない。

話は変わるが、
今まで推手をしてきて一番おもしろいと思った相手は陳式太極拳。

楊式が静なら陳式は動だろうか?
解釈の違いがあると思うので具体的なことは割愛するが、
私の勝手なイメージで言えば、陳式が龍なら楊式は虎。

流派によって勁の使い方が違うのが実におもしろい。

2017年5月13日土曜日

静から動へ 動から静へ

私の太極拳人生は立禅から始まった。

始めてこの世界に足を踏み入れた時、
立禅がなんとも神秘的でどんな効果があるのだろうと、わくわくしたものだ。
あれから15年、今もなお立禅を続けている。

まず姿勢を整える。
太極拳のみならず武術の基本だ。

そして脱力。
そして瞑想。

ただ立っているだけなのに体の中に気が巡りだし、中からじわじわ熱くなってくる。
芯から温まるとは本当はこういうことなのではないかと思う。
そして体が妙にスッキリする。

風邪をひいて熱があがり、汗をびっしょりかいた後というのは体が妙に軽くなりすっきりする。
それを健康な状態で行うわけである。

立禅で得られる汗はスポーツなどでかく汗とは質が違う。
まず、汗をかいているのに全く呼吸が乱れない。
息切れしたり心拍数が上がることもない。
もちろん疲労感もない。
むしろ体がすっきりし軽くなる。

すべてはここから始まる。

私は10年目にして形意拳を本格的に始め、
そして15年目である今、八卦掌の修行を開始した。
八卦掌と言えど、今のところ型をやるつもりは全くない。
ただ、歩くだけ。
型を覚えるのはいつでも良いと思っている。

ここでの気づき。

正しく歩こうとすればするほど立禅の重要性に気付く。
やはり立禅は全ての基本なのだ。

太極拳でゆっくり動きながら気を練り上げ
形意拳で勁の流れを知る。
そして八卦掌で更にエネルギーを蓄える。

私の解釈は八卦掌は歩く立禅。
すなわち動禅。

歩きながら得られる風が心地よく、無心になれるのがいい。

2017年5月10日水曜日

逆らわない

先日から弟子の推手が変わった。
いきなりだ。

本人はずっと推手スランプなどと言って落ち込んでいたが
ようやく感覚を掴んだよう。

しかし、それは私がいつもいつも言ってきたこと。

結局ある程度やり込んでいかないと、
耳からは入っていても理解はできていないのだと思う。
私も今までそういう経験を何度もしてきた。
先生の言ってること理解しようとするが理解できない。

結局どうすればいいか?

いわゆる武術修行に近道などないということ。
基本からしっかり積み上げ、
うまくいかないことや失敗もたくさん経験しなければいけない。
失敗を恐れ、或いは負けることを恐れていては
いつまでもそこから前に進むことはできない。

落ち込んだり悩んだりすることも絶対必要。
私等数えきれないほどある。

私が推手を行う時何を思っているか?

それは、
な~~~にも考えないこと。

弟子は私が教えたことを見事に自分のものにしてくれた。
これがたまらなく嬉しい。
本人ずっと苦悩していただけに。

それにしても私が10年以上かかったことをわずか3年足らずで習得してしまうとは。

弟子といい、会員さんといい、皆素直なのだと思う。
推手も、学びも、決して逆らわない。

素直は無敵なり。

2017年4月25日火曜日

楊式刀

私が太極拳を始めた頃
太極拳に武器があるとは知らなかった。

楊式太極拳を必死で覚えている傍らで
先生や先輩方が木刀をもって楊式刀をされている姿に憧れた。
正直カッコいいと。

学生時代少しだけ剣道をやっていたので、
剣道とは明らかに違うその柔らかい動きにとても興味を抱いた。

それからというもの、
私は楊式刀がやりたいがために楊式太極拳を無我夢中で覚えようとした。
そのために当時通っていた近くの教室だけではなく、
先生を追いかけ遠く離れた教室にも通った。

1年が過ぎ、ようやく楊式刀を習える時が来た。
ところがそれからしばらくして
家の事情によりその地を離れなければならなくなった。

それだけに楊式刀への想いが強くなったように感じている。

新しい地に移り住んでからもずっと一人で楊式刀の練習を続けた。
先生の姿を思い浮かべながら、先生に近づきたい一心で。

そうこうしているうちに数年経ち
私はある目的を果たすため楊式刀で競技に出場することを決めた。

当時たくさんの先生方からアドバイスを頂いた。
本当にありがたいことだった。

その一方、私が教わった楊式刀とはどんどんかけ離れたものになっていった。

先生から教わった楊式刀に手を加えていくことに違和感を感じながらも
目的を果たすために来る日も来る日も練習を繰り返した。
そして私の楊式刀は教わったものとは全く違うものになっていた。

「自分ではない」
そのように葛藤しながら

自分を偽りながら
それでも必死で目的を果たそうとした。
大きな目標を叶えるため、
自分に与えられた仕事だと思って取り組んだ。

そうして、出場毎に着実に順位を繰り上げ
4度目で全国10位に。
成績も入賞レベルにまで達するようになった。
あと、0.01ポイントでメダルに届くまでになった。

しかし既に私は壊れかけていた。
心身共にボロボロになっていた。

競技で高得点を得るための過酷なトレーニングと、
それと
自分を偽ることに。

私がやりたかったことはこれではない

先生(今は師匠と呼んでいる)の楊式刀は、
足取りかろやかで力みのない柔らかい刀さばき
まるで風のようだった。
飾ろうとする意識など皆無にみえるほど、自然で、それがまた美しかった。

競技のために作り上げた楊式刀はもはや楊式刀ではなくなっていた。
演武している自分が嫌で嫌でならなかったし、
何度も吐き気を催した。

競技に求められる美しさはあくまでもつくり込んだ美。

前にも少し似たような話をしたが、
本物の夕焼けとCGで合成された夕焼けとどちらが感動するだろう?

やはり自然には敵わない。
人もまた、自然体が一番美しいと思う。

目的は果たせなかったが、
私はこれで良かったと思っている。

あのまま、メダルを取りに行こうとすれば、
私は自分の楊式に戻れない体になっていたかもしれない。
道を踏み外していたかもしれない。
そう考えるととても切なく恐ろしい。

入賞まで0.01という数字は、私を試させたのだと思う。
自分が本当になにをやりたいのか。

楊式太極拳において〝演技”しようとしたら、
それはもうすでに楊式太極拳ではない。

そうではなく内なる力に耳を傾けそれに従う。

その時に飾らない自然の美しさがにじみ出て来るのだと思う。

美を求めるのではなく、
本物を追い求めた結果が美となって表れる。
少なくとも私はそう考える。

***

今は存分に放鬆の世界を楽しんでいる。
肉体と心の疲れから解放され、体の中に氣が集まり始めている。

氣の正体

ようやく解った氣の正体。

約20年前
連日苦境にさらされ、その時に得た悟り。

が、諦めないで突き進むと
いつしか予知能力が身につく。

数分先、
数十分先、
数時間先のことが見えるように。

そして私を動かす私。

この時の状態こそ、無の状態。

無、
わかりやすくなると考えないこと。
もっとわかりやすく言うと
アホになること。

頭を空にし、
体を極限までリラックスさせる。
体の中をスカスカにする。
その空間に氣が入って来る。

この氣は人間以上のことを可能にする力を持っている。

今日は双辺太極拳を練る時、
可能な限り瞑想し、
そして可能な限り脱力した。
そこに自分を動かす自分がいた。

偉大な力を持つ氣を味方につけるには

体の中を空洞にすること